第36話
冬休みも終わり、学校へと向かうため恋歌と駅へ向かうと、久々に姿を現した猪鹿川さんが、俺たちの後ろをじっとりとした不気味な距離感で尾行してきた。
「お、おはようございます。山口先輩」
「おはよう。猪鹿川さん。久しぶりだね」
「そ、そうですね。山口先輩は一昨日までどこかお出掛けしてたみたいですし……っ」
(え?なんで出掛けてたの知ってるの?)
ゾッと背筋に冷たいものが走った。その瞬間、隣を歩く恋歌が、殺気の籠った視線を真後ろへと突き刺した。
「牛、あなたね、我が家の敷地に不法侵入して家の中を覗こうとするの、いい加減やめてくれないかしら」
(え?そんなことしてたの?初耳なんだけど)
「た、たまたま通りかかっただけです……っ!?」
「どうすれば、人の家の敷地内を『たまたま』通りかかるのよ。夜中に窓の外にべったり張り付いてるもんだから、新種の地縛霊と勘違いして危うく悲鳴を上げそうになったじゃない!」
(怖いんですけど)
「わ、私は覗いてたわけではないです。深夜の暗闇で道に迷ってただけで……っ」
「なら、なんで私に見つかった瞬間に、あんな四足歩行みたいな猛ダッシュして逃げたのよ。今度、見つけたら即、警察に通報するからね!」
(夜中の街中を四足歩行でダッシュしてる少女って……もう、完全にホラーじゃん)
「うう、だって山口先輩の可愛い寝顔を一目見ようとしただけですぅ……っ」
猪鹿川さんは、ウルウルとした瞳で涙ぐみながら俺に助けを求めてくる。
(ごめん。どう好意的に解釈しても、助ける動機が微塵も存在しない)
朝の爽やかとは程遠いやり取りを終え、俺たちはどんよりとした空気の中、学校行きの電車に乗り込んだ。
◇◇◇
久しぶりの教室に入ると、秀樹と高畑さんの仲良さげな空気が、朝の教室に爽やかな風を運んでいた。
俺に気づいた秀樹が、ニヤニヤしながらこっちへ歩み寄ってくる。
「おはよう。壮真」
「おはよう。朝から仲いいな」
「お前と小鳥遊さんほどじゃないけどな」
「おはよう。山口くん」
秀樹の後ろから高畑さんがひょっこりと顔を出した。
「恋歌ちゃんから聞いたよ。一緒に彼女の家の別荘に遊びに行ったんだってね」
いつの間にか、高畑さんが恋歌のことをちゃん付けで呼ぶようになっている。二人の距離感に少し驚いた。
「まあね。温泉もあって、楽しかったよ」
(一番、印象に残ったのは愛瑠歩烈度の兄貴だったけど)
「へー、いいな。俺も行きたかったな」
「誘ったらお前は高畑さんと夢の国にデート行くから無理だって言っただろ」
「へへ、そうだったわ。いやー、夢の国最高だったぞ。あ、そうだ、これお土産」
秀樹はポケットから、夢の国のネズミのキーホルダーを差し出してきた。
「あ、俺からはこれ」
俺はスポーツバッグからお土産を取り出すと、秀樹に手渡した。
「なにこれ?」
秀樹がきょとんとした顔をしている。
「愛瑠歩烈度の兄貴が仕留めた猪の牙だ」
「何に使うんだよこんなもん!愛瑠歩烈度の兄貴って誰だよ!」
秀樹の声を遮るようにチャイムが鳴った。
◇◇◇
放課後。野球部の練習が始まり、俺はブルペンでピッチング練習をしていた。
新しく覚えたチェンジアップは、我ながらかなりコントロールできるようになっている。
ひと通り投げ終えて息を整えていると、秀樹が近づいてきた。
「大分、良くなったな。あのチェンジアップ」
「腕の振りとかどうだ?」
「俺の目から見てもストレートと全く変わらないな。合格点だ」
「それなら良かった」
「二種類のスライダーにカーブにチェンジアップ、大分武器が増えたな」
秀樹と二人でベンチに向かうと、猪鹿川さんがスポーツドリンクが入った紙コップを持ってやってきた。
「や、山口先輩。どうぞ」
「ありがとう。猪鹿川さん」
「た、タオルです。使ってください」
「ありがとう」
俺はタオルで汗を拭い、スポーツバッグにしまおうとすると。
猪鹿川さんが、俺の手首を掴んできた。
「な、なにをしてるんですか?」
「え?いや、洗って返そうかと」
「そ、そのままで大丈夫ですから」
俺からタオルを奪うと、顔にタオルを埋めて匂いを嗅ぎ出した。
「や、山口先輩の匂い。へへへ」
「……………えっ」
さすがの秀樹もあからさまに引いているのがわかった。
(最近、行動が大胆になってきたな)
「あ、あの、左腕のアイシングしますね。へへへ」
「あ、ありがとう」
猪鹿川さんは腕にぴったりくっついてアイシングをしてくる。
「ちょっと近すぎない?」
「ち、近づかないとアイシングできませんから」
「いや、こんなに近づかなくてもできるでしょ」
「や、山口先輩。あの歩くピンクの塊とはいつ別れるのですか?」
「いや、別れる予定はないから」
猪鹿川さんは、アイシングするというより発育の良すぎる胸を俺の腕に押し付けて抱きついている。
「だから、近すぎるって。猪鹿川さん」
「あ、アイシングですから、山口先輩の生の匂いが、はあはあ」
(温めてどうする)
◇◇◇
野球部の練習を終え、疲れた体を癒そうと家に帰ったら、リビングに入るなり、ピンクのエプロン姿の恋歌が小走りで駆け寄ってきて俺の胸にダイブしてきた。
しかし、抱きしめる恋歌の腕の力が徐々に強くなる。
「なぜですかね?壮真さんの体から牛の臭いがします……」
「また、秀樹か……」
「いえ、今日はどなたからも報告はきてないです」
さらに恋歌の腕の力が強くなった。
(……どうやら自爆したようだ)
「こ、これは猪鹿川さんにアイシングしたもらっただけだから。その時に匂いが移ったのかな……」
「……ただアイシングしただけでこんなに牛臭が移りますかね?」
恋歌は、顔を近づけてくると、光が一切ない瞳で俺の目を真っ直ぐ見つめてくる。
「ごめんなさい。ちょっと抱きつかれました……」
「なぜ拒まないのですか?抱きつかれそうになったらグーで殴ればいいじゃないですか!」
恋歌は氷のような冷たい声で囁く。
「い、いや、女の子を殴るなんでできないよ」
「なら、腹を蹴っ飛ばせばいいんです!」
「も、もっとできないよ」
「壮真さんは牛に甘すぎます!!」
「……ごめんなさい」
「あの女は壮真さんにつきまとうストーカーですよ!!犯罪者です!!人として最低です!!」
(君も昔そうだったよね……あ、今でもか……)
「壮真さん……私は心配なだけなんです……あの牛は何をするかわからないし」
(俺は君もなにするかわからないよ)
「俺には恋歌しかいないから大丈夫だよ」
俺はいつものように優しく抱きしめると、恋歌の唇にそっと口づけを落とした。
「……壮真さん。愛してます」
恋歌の目に光が戻り、嬉しそうに微笑んでいた。
「俺も愛してるよ」
「まあ、牛みたいなストーカー女に壮真さんがなびくとは思ってませんが。うふふ」
(まあ、個性的な人は君だけでお腹いっぱいだよ)
「お風呂行きましょうか。うふふ」
「うん、そうだね」
俺たちは風呂に入ると、いつものように体を洗い合い、湯船に浸かった。
恋歌を後ろから抱きしめると、シャンプーの甘い香りと柔らかな肌の感触がとても心地良かった。
「壮真さん、晩御飯を食べたら映画とか観ませんか?」
「いいよ。何か観たい映画とかあるの?」
「壮真さんが面白いって言ってたホラー映画とかどうですか?」
「いいけど、恋歌はホラー映画とか苦手でしょ。大丈夫なの?」
「壮真さんと一緒なら何でも大丈夫です。えへへ」
恋歌は首を傾げて愛らしく微笑むと、俺の胸に体重を預けてきた。
「かなり古い映画だけど面白いよ」
「楽しみです。うふふ」
風呂から出て晩飯を食べ終わると、映画を見始めた。
冬の期間に豪華なホテルの管理人として滞在した一家が、何かに取り憑かれ狂った父親に襲われる話だ。
もはや、日常のホラーに慣れてしまっている俺には物足りない感もある。
(慣れてしまっていいのだろうか?)
その夜、恋歌に自分の匂いを上書きするようにこすり付けられながら俺は眠りについた。
(恋歌臭が凄いな)
読んでくださりありがとうございました




