第19話
放課後。野球部の練習中にグラウンドの片隅で少し休憩をしていると、一年生マネージャーの猪鹿川小蝶さんに声をかけられた。
「あの、これどうぞ。山口先輩」
猪鹿川さんはスポーツドリンクが入った紙コップを差し出してくる。
俺は紙コップをありがたく受け取った。
「ありがとう。猪鹿川さん」
「い、いえ、マネージャーですから」
猪鹿川さんは少し照れながら、恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
猪鹿川さんは俺と秀樹と同じ中学出身で、俺と話をしたこともあるらしいのだが、申し訳ないが全然覚えてない。
綺麗な長い黒髪が印象的だが、マネージャーをしてる時は後ろで結んでいる。
年下なのに、日本人形のように整った顔立ちをしていて実に大人っぽい、それにある一点がそれ以上の爆発力を秘めていた。
最初に会ったとき、思わず二度見してしまったその『たわわに実りすぎた二つの果実』だった。
歩くたびに重力に抗うような揺れ、かなりのパンチ力があった。
女の子の胸を見るのは失礼なので、それからは極力見ないようにはしているが。
「マネージャーの仕事には慣れてきたかな?」
「ぜ、全然ダメです。私、不器用ですし、物覚えも悪いので、皆さんの足を引っ張ってばかりで」
「そんなことはないと思うよ。士門先輩も、猪鹿川さんが一生懸命やってくれてるって褒めてたよ」
「ほ、本当ですか?嬉しいです。へへへ」
彼女はそう言って、子供のような笑顔を見せると、小動物の鳴き声ような笑い声を立てる。
(大人っぽい見た目と違って、小動物みたいに笑う子だな)
「そういえば中学の時に俺と話したことあるんだって?」
「は、はい。少しだけですが……」
「俺、覚えてないんだよね。ごめんね」
「そ、それは仕方ないかと……私、中学の時は眼鏡をかけてましたし、髪型もお下げでしたから……今の私とは全然違いますし」
(眼鏡と、お下げ……?)
そのキーワードがトリガーとなり、俺の記憶の引き出しがガタガタと音を立てて開いた。
中学の全国大会前。なぜか俺にだけ、いつも手作りのおにぎりを差し入れしてくれた、あの大人しくて控えめな少女。
「もしかして……あの時、毎日おにぎりを差し入れしてくれてたのって猪鹿川さん?」
「お、覚えてくれたのですか、嬉しいです……へへへ」
おにぎりの形はお世辞にも綺麗とは言えないいびつなものだった。けれど、中身の具がこれでもかと詰まっていて、美味しかったのを覚えている。
(でも……あの子、こんなに『実って』たっけ?)
無意識に視線が泳いでしまったのを察したのか、猪鹿川さんは顔を林檎のように真っ赤にし、自分の胸を隠すように腕をバタつかせた。
「あ、これは、その!中三になって、急に成長しちゃいましてっ!」
腕を動かすたびに、薄手のポロシャツからはち切れんばかりに波打つ。もはや実りというレベルを超えて、暴力的な質量がそこに宿っていた。
(恐るべし、成長期)
「……そ、そうなんだ。あの時はありがとう。美味しかったよ」
「い、いえ、そんな」
猪鹿川さんは、今にも沸騰しそうなほど顔を赤くして照れまくっていた。
その後、休憩を終え、俺は練習を再開した。
(……でも、あの時のお礼が言えて良かった。中学の時はなぜかお礼を言おうと近づいただけで、脱兎のごとく逃げられてたしな)
◇◇◇
野球部の練習を終え、いつものように秀樹と帰ろうとしていたら、猪鹿川さんが背後から控えめな声がかかった。
「あ、あの!山口先輩、一緒に帰ってもいいですか……?」
振り返ると、猪鹿川さんは俯いて頬を真っ赤にしている。
「うん、いいよ。一緒に帰ろう」
「あ、ありがとうございます。へへへ……っ」
猪鹿川さんは相変わらず小動物のような笑い声をあげながら、嬉しそうに見悶えている。
「帰る方向も一緒だしね」
「あ、俺も居るんだけど?」
完全に空気と化した秀樹が、心底不満そうな声を漏らす。
◇◇◇
俺たちは駅へと向かい、ガタゴトと揺れる電車に乗り込んだ。
俺は空いている座席に腰かけると、左右から猪鹿川さんと秀樹が座った。
「猪鹿川さんって、野球好きだったの?」
落ち着いた車内で秀樹が尋ねる。
「い、いえ、特には」
「え?じゃあ何で野球部のマネージャーになったの?」
「や、山口先輩がいたからです……高校も山口先輩がいたから今の高校に決めました」
──沈黙。
走行中の電車の音だけが、やけに耳に届く。
猪鹿川さんは顔を手で覆うと、指の隙間から覗く耳まで真っ赤に染めている。
「えっ、俺?」
「ちゅ、中学の時から山口さんのずっとファンだったので」
「え、俺はアイドルとかじゃないけど?」
「お前は相変わらず野球バカだな」
秀樹が心底呆れた顔をしている。
「あの、覚えてますか?山口先輩が私を助けてくれたこと」
「えっ?俺が猪鹿川さんを」
「は、はい、お母さんから貰った大事なキーホルダーを学校の校庭で失くして、途方にくれてた時に、山口先輩が『どうしたの?』って、夜まで一緒に探してくれました」
「あー、そんなこともあったような気もする」
「ら、らしいですか、山口先輩らしいですね。へへへ」
「お前、そういうの無自覚でやってるからな」
「えっ、何が?」
またしても核心を突く質問を放った秀樹に、猪鹿川さんは顔を隠したまま、さらに耳を赤くして震えていた。
◇◇◇
家に帰ると、玄関で待ち構えていた恋歌に『話があります』と言われ、リビングへと連れていかれたので、俺はソファに腰を下ろした。
なぜか恋歌の瞳からはハイライトが完全に消えていた。
「ど、どうしたの?」
「……スマホを貸してください」
俺はいつものようにスマホを恋歌に差し出した。
「今日は牛乳クソ女と一緒に帰ったそうですね。先ほど、新井(秀樹)さんからの密告がありました」
(あいつ完全に恋歌のスパイになってやがるな。って、牛乳クソ女って誰?)
「牛乳クソ女って?」
「新しく野球部に入った一年生のマネージャーです」
「あー、猪鹿川さんか、一緒に帰ったけど。秀樹も一緒だったし」
「中学生の頃から壮真さんの事が好きだったみたいですね」
「ま、まあ、ファンだったとは言ってたけど」
「中学生の頃から壮真さんが好きで、同じ
高校に行き、壮真さんのいる野球部のマネージャーになるなんて……。完全にストーカーじゃないですか!気持ち悪い!」
(あなたがそれ言うの……?)
「まあ、マネージャーになるくらいは別にいいんじゃないかな?」
「何を言ってるんですか。その牛乳女は危険です。さっさと縁を切ってください!」
「いや、ただのマネージャーだし、縁の切りようがないだろ……」
「私よりその牛乳クソ女を選ぶということですか……?私を捨ててその牛乳クソ女のところに行くということですか……?胸ですか?胸大きい女がそんなにいいんですか……?ブツブツ」
「ち、違う!恋歌の事を捨てるわけないだろ!」
「本当ですか……?」
「本当だ!俺は恋歌一筋だから!」
「……まあ、今はいいでしょう。牛乳クソ女とは連絡先は交換をしていないみたいですし。どうぞ、スマホはお返しします」
恋歌は執拗に履歴をチェックし、ようやくスマホを返しくれた。
(俺のスマホなんだけどな……)
◇◇◇
翌朝。朝練に向かうため、ガラリと玄関の引き戸を開けると、そこには猪鹿川さんが立っていた。
「お、おはようございます。山口先輩」
「おはよう。どうしたの?猪鹿川さん」
「あ、朝練へ一緒に行こうかと思いまして、迎えにきました。へへへ」
「そうなんだ。じゃ、行こうか」
踵を返し、歩きだそうとした瞬間。
──ピシャリ!と、背後で勢いよく玄関の引き戸が開く。
振り返ると『完全に暗黒モード』纏った恋歌が立っていた。
「そこの牛乳クソ女。壮真さんから離れなさい!」
「い、嫌です……っ」
恋歌の鬼の形相に少し怯みながらも、猪鹿川さんはギュッと俺の後ろに隠れる。
その際、背中にピッタリと密着したことで、例の『豊満』という言葉すら超越したダイナマイトパンチが、俺の背中に押し付けられた。
(うわっ、柔らかい)
「あなた何してるんですか……?」
低い声でそう言うと、瞳からハイライトが完全に消えた恋歌が、肩をゆらゆら揺らしながら、ペタン、ペタンと足音を立てながら、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。
「お、落ち着け!恋歌」
「退いてください……壮真さん……その牛乳クソ女は処理しなくてはなりません」
恋歌の瞳は、もはや深淵のように何も映していない。
俺は直感した、これは話して分かる段階ではない。
「……逃げるぞ、猪鹿川さん!」
「ひゃいっ!?」
俺は反射的に猪鹿川さんを背負い、脱兎のごとく駆け出した。
『逃がしませんよ』という、およそこの世のものとは思えない怨嗟の声が追いかけてくる。
──俺は逃げて逃げて逃げまくった。
「山口先輩。もう追ってきてないから大丈夫ですよ」
「はあはあ、本当に?」
後方を確認すると、恋歌の姿はなかったので、猪鹿川さんを降ろす。
気が付けば駅に着いていた。
「あ、あの、山口先輩。あの人とは別れた方がいいですよ」
「え、恋歌の事を知ってるの?」
「あの人、去年、朝は山口先輩と偶然出会うふりをしてましたが、山口先輩の事をずっとストーキングしてたんですよ」
「そうなの?猪鹿川さんは何で知ってるの?」
「そ、それは私も山口先輩の事をずっと見てましたから……へへへ」
「ずっと見てた?」
「はい、中学生の頃からずっと見てました。へへへ」
猪鹿川さんは満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに笑っている
満面の笑みで告げられたその言葉に俺の背筋は凍った。
(お前もか……ブルータス)
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