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スタンフォード

 週明け、講義の初回が始まるまでに、どうにか日置は参考書の内容を、頭に入れることができた。

 始まる前から、追い込まれた気分だった。


 ついこの間まで敵味方として戦っていた相手国でもある。日置は戦後生まれなのに、いまだに頭の片隅で敵地という認識を拭えないでいた。圧倒的な国力の差を目の当たりにしたから、余計に拘るのかもしれない。


 学生の中には、親や従兄弟などが戦地へ赴いた者もあろうし、彼らが無事に戻ったとは限らない。

 しかも、世界中から留学生を迎えるこの大学には、戦時中、植民地として支配下に置いた国々からの学生もいる訳で、彼らから加害の責任を問われた時、自分が相手にきちんと話をできるかどうか、日置には自信がなかった。


 日置自身の父は、職業が物を言ったのか、内地勤務で無事終戦を迎え、戦時下にあっても、よく人から経験談として聞くような困窮には陥らずに済んだらしい。

 京都は空襲も受けていない。それはそれで肩身が狭いというか、恥じるような気持ちがあった。


 幸か不幸か、寮においても、講義の場においても、今のところ、敗戦国としても、加害国としても、あからさまな差別を受けることなく過ごすことができていた。

 日置は、講義の初回が無事に終わって、やっと息ができるようになった気がした。



 初回の講義中、宇梶は担当教授に指名され、受講理由を問われたという。

 物理学を専攻しているのなら、近くの大学に世界的に有名な研究所がある。なぜこの講義を受けるのか。


 まさに、クライドたちの通う大学のことである。教授が疑問に思うのも当然だった。

 宇梶は、門外漢の日置が聞いても怪しげな論理を再演して見せた。

 熱弁の甲斐あって、意気込みだけは理解してもらえたようであった。


 アメリカの大学は9月から新学期が始まる。この講座自体、基本的には学外からの受講者を対象にしていると思われる。

 教授にしてみれば、講義を真面目に受ける気があるならば、彼が何を研究していようと知ったことではないのかもしれなかった。

 あるいは、専門分野に閉じこもらず、幅広く知識を得ることで、新しい知見をもたらす方に期待しているのかもしれない。


 日置の方の担当教授はケンブリッジ大学にいたこともあって、聞き取り易い英語を話した。

 週末の間に英語を聴き慣れたのか、他の受講生の英語も大方聞き取ることができて、まず言葉の心配はなくなった。


 日置も宇梶も、大学にいる間は互いに英語で話すように心がけていた。また、無闇に側へ近付かないようにも気をつけていた。

 日本語で会話をすると、内緒話をしているように受け取られ、トラブルの元になると懸念したのだ。

 特に2人で話し合った訳ではないが、自然とそのようになった。


 江上も、最初のうちは日置達に日本語で話しかけていたのが、周囲の注目を浴びることに気付いてから、大学にいる間は英語を話すように努力していた。


 講義が始まってから、江上は外国の大学の授業を受けるのが生まれて初めてだ、と告白した。

 海外旅行経験がある上、日本にいる間に、外国人講師による英語の授業も受けていたので、講義は何とか理解できているらしい。

 彼女もまた、別の講義を受講していた。実際の様子は、日置達にはわからない。



 そうして、あっという間に1週間が経過した。


 この間、3人共、遊びに行くどころではなかった。毎日の講義の予習復習に加え、毎回出される課題をこなさねばならない。

 どのコースでも同じだった。顔を合わせるのは食事時か、夜の図書館で、図書館ではもちろん静かにしなくてはならないし、食事の時間も惜しいし、互いに寄り集まらないようにしていたせいもあって、食堂でもほぼ会話を交わしていない。

 車を借りなくて正解だった。まず、そんなことを考える心の余裕がない。


 土曜日の授業は午前中で終わった。日置は、宇梶の受講仲間と一緒に昼食を取った。日常会話に問題はないが、学問上の専門用語となると、推測の糸口も掴めない単語があった。日置は食後、思い出せる限りメモを取り、宇梶から簡単に説明を聞いた。専門外だと、一度聞いた限りでは、頭に入りそうになかった。


 図書館へ行く、という宇梶と別れて、本屋へ向かった。久々の余暇時間である。

 週末の休みを見込み、課題はいつも以上にどっさり出た。

 その代わり、今日の半日と、翌日の一日に予習すべき講義も、新たな課題もない、という事実が、日置の心を軽くした。


 “やあ、ジョー”


 日置は目当ての本を見つけ、買おうか買うまいか、財布と相談しつつ立ち読みしているところだった。


 聞き覚えのある声に、ぱっと顔を上げると、艶やかな黒髪のおさげが視界に入った。


 竹野(たかの)である。彼は、先日クライドの家で会った時よりもくだけた恰好で、見事に周囲と馴染んでいた。しかして、その顔に浮かぶのは、日本人的な微笑である。


 “竹野さん。何でここにおるんです?”

 “君に話があって来た。少し、時間を貰えるかな?”


 竹野は微笑を消した。真面目な顔付きである。初対面の時と同様、何を考えているのか、読み取れない。


 日置は読んでいた本を棚へ戻し、彼の後に従った。竹野は本屋を出てずんずん歩き、憩いの場と呼ばれる場所まで足を止めなかった。


 穏やかな気候のもと、学生や観光客が、三々五々、芝生に寝転んだり座ったりしている。


 竹野に促されるまま、日置はきれいに刈り込まれた芝生へ腰を下ろした。

 近くに人はいない。隠れるような木陰もない。


 “一つ忠告がある”

 “はい”

 “extrasensory perception を隠す訓練をした方がいい”

 “え?”


 「超能力を隠す訓練をした方がいい、と言ったんだ。まる見えだぞ」


 竹野は、日本語で言い直した。

 日置はすぐに返事ができなかった。英単語がわからなかったのではない。


 その意味するところをじわじわと理解できた途端、日置は立ち上がろうと腰を浮かした。肩を、上から押し戻された。

 素早く、的確な動きだった。行動を先読みされているようだった。


 「落ち着け。俺もお前と同類なんだよ」


 煙草の匂いが、日置の鼻を突いた。



 日置には幼い頃から、余人には見えない物が見えた。それが死者であること、みだりに人に話してはいけない事は、勘の鋭い父親から教わった。


 父親にも、微弱ながら同じような能力が備わっているらしい。

 しかし日置は、死者以外にも見えるものがあることを、父親に言えなかった。それは、父親にはない能力であることを、知っていたからである。


 日置は、他人の心を読むことができる。他人は、日置の心を読むことができない。


 子どもは、快不快を正直に示す。喜怒哀楽だけでなく、羨望や嫉妬をも、結びつき方さえわかれば、読む必要がないほどに、素直に表すのだ。

 他方、大人は実にしばしば嘘をつく。それが悪意からでなく、思いやりからであろうと、見栄からであろうと、心にある真実と異なる点では、嘘と言える。


 日置は、口が回らない頃から、大人の裏表を目の当たりにして育った。


 誰もが知っていても、口に出してはいけないことがある。

 だから、自分と同じ能力を持っているかもしれない、と思った相手に対しても、日置は他の人間と同じように接していた。

 長じて昔の超能力者に対する扱いの記録を読み、ますます自分の能力を人に知られないよう気をつけた。同じ能力を有している、と日置に対して告白した人間は、初めてである。


 「同類、というと?」


 日置は戸惑いを隠すため、怪訝な顔を作ってみせた。竹野は日置を押さえたまま、口を引き結んで彼を見据えた。


 「戸惑っているのはわかっている。信用しないのも無理はないが、俺は貴重な仲間を失いたくない」


 竹野の声と、はっきり認識した。口は確かに閉じている。

 そんな事をされたのも、初めてである。彼は、全身から力が抜けるような感覚を覚えた。


 後ろへ倒れ込みそうになるのを、竹野の手が支え、ゆっくりと仰向けに寝かされた。竹野は彼の横に座ったまま、首だけ捻じ曲げて上から覗き込む。三つ編みが日置の上で、ゆらゆらと揺れた。


 「何て言うたらええか、わからへん」

 「何も言う必要はない。俺の話を聞いていればいい。このやり方は疲れるから、喋らせてもらうぜ」


 竹野は首を元に戻した。日置の視界に、爽やかな青空が広がった。


 「お前が、その能力を悟られないよう、気を遣っているのはわかる。だが、その相手は、マーシーやクライドといった、同じ能力を持たない人間ばかりではない筈だ。むしろ、同じ能力を持つ人間に対してこそ、注意しなければならない。敵かもわからない人間に、無防備に自分の弱点を晒すことになるからな」


 「あなたも敵かもしれへん、というのやね」


 子供じみている、と自覚しつつ、屁理屈を返すと、竹野は苦笑した。


 「そうだな。敵に塩を送る、という言葉もある。ついでに言わせてもらえば、ナナの気持ちに応える気がないなら、早いところ他に女を作ってみせて、マーシーの胸に飛び込ませるんだな。用もないのにカリフォルニアくんだりまで来させて、2人とも気の毒だ」


 竹野の言葉が終わらないうちに、日置は飛び起きた。掴みかかる衝動を、かろうじて抑える。

 彼はおっとっと、とおどけた表情をしながらも、逃げようとはしない。完全に、動きを読み取られていた。


 日置は不意に、竹野が何を考えているのかわからないのは、彼が思考を隠しているからだ、と気が付いた。たちまち力が抜けた。


 「その方法を、教えてください」


 竹野は背後に広がる青空のように、爽やかな笑顔を見せた。これで敵だったら、大したものである。日置の勝てる相手ではない。


 「勿論。そのためにわざわざ、よその大学まで来たんだぜ、ジョー」

 「日本語で話す時には、日置と呼んでください」

 「いいだろう、日置。その代わりと言っちゃあなんだが、その堅苦しい丁寧語もやめてくれよ」

 「努力します、したるわ」


 よろしく、と右手を差し出した竹野の手を、日置は強く握った。やはり、敵とは思えなかった。

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