パシフィックハイツ 後編
いきなり湯川博士の名前が耳に飛び込み、日置は現実に引き戻された。ちょうど、正体不明の東洋男性を、クライドが紹介したところだった。
三つ編み男はヘレンの友人で、意外にも日本人であった。体格も良いが、髪型といい、服装といい、話し方といい、全く日本人らしくない。
竹野和比己は、碰上大学医学部を卒業して医師になった後、サンフランシスコにある大学に留学中の身で、その大学のあちこちにあるキャンパスに出入りするうちに、クライド達と知り合ったのである。
ヘレンもクライドも、竹野と同じ大学生であった。
“ノーベル賞受賞者は我が校の専売ではない。カズは何にでも首を突っ込みたがる奴で、顔も知識も広いんだ”
“さすがは日本の最高学府出身者だね”
クライドが竹野をちゃかすように言うと、宇梶も竹野を冗談半分に持ち上げた。一同の紹介が終わった頃合を見計らったように、サンドウィッチやスナックが運ばれてきた。
皿を運ぶメイド達も、映画に出てくるような出で立ちをしていた。本物である。
変哲もないクラッカーの上に乗っているのが、いかにも上質なクリームチーズとキャビアであったり、後から出てきたチョコレートがヨーロッパの有名な高級品であったりして、日置の生活とは無縁の食べ物ばかり出てきた。
クライド達にとっては、日常の風景らしい。全く気負いのない、リラックスした態度でもてなされた。
この豪華な家は、貿易商を営むクライドの両親が住む家で、クライド自身は大学の近くに部屋を借りていた。学生向けの寮ではなく、コンシェルジュが常駐する、ある種ホテルのような部屋らしい。
大学は、サンフランシスコからベイブリッジを渡ったすぐ東側の都市にある。ここパシフィックハイツからでも、通えないこともない距離である。
いちいち橋を渡るのが面倒臭い、とクライドはこともなげに説明した。
"時間によっては、結構渋滞するんだ"
通学時間も勉強に充てたい、と。華やかな生活を送るように見えた彼もまた、真面目に勉強する学生なのであった。とはいえ、そのための部屋を借りてしまえるところが、日置とは違った世界の住人である、と改めて認識させられる。
“今度、キャンパスを案内してあげるよ”
“それは拙いんじゃないか”
“言わなければわからない”
“どうして私たちが行くと拙いのですか”
宇梶とクライドのやりとりを聞いていた江上が尋ねると、すかさずミランダが答えた。
“そちらの大学と我が校は、ライバル関係にあるからよ”
日本で喩えると、早稲田と慶應のような感じであろうか。
日置の通う方は私立大学だが、クライドたちの大学は州立である。またその辺り微妙な関係なのかもしれない。
“ジョーはイギリス人みたいに話すのね”
ヘレンが言った。竹野がやたら日置に話しかけるのが、面白くないのである。
彼女が、この変わった三つ編み男に好意を持っているのは明らかだった。蓼食う虫も好き好き、という諺が脳裡に浮かぶと、タイミングよく竹野が苦笑いした。
“父の仕事の関係で、一時期イギリスにおりました。そこで英語を覚えたのです”
“もしかして、オックスブリッジ?”
ケンブリッジです、と渋々日置が頷くと、エリザベスは憧れの眼差しを向けた。父がそこにいただけで、日置の学力とは関係のない話である。
江上が不穏な眼差しで彼女を見つめ、宇梶が不安そうに江上を見る。
竹野がくっくっと笑い声を上げた。一同驚いて竹野に注目する。何を考えているのかわからない男である。
“いや、失礼。ジョーは実に興味深い。近いうちに遊びに行ってもいいかい?”
“どうぞどうぞ、ぜひいらしてください”
日置が口を開く前に、宇梶が返事をした。
宇梶は中高一貫制の男子高校に在籍していたせいか、異性の相手をするのが苦手で、その代わり同性の友人を作るのを得意としていた。
碰上大学に進学している同級生も多いのだが、6歳離れているという竹野とはさすがに共通の知り合いがなく、得意の話術も英語では振るわなかったところへ、向こうから親しく話しかけられて満面の笑みだった。
楽しいひとときを過ごした後、日置達は早めにクライドの家を辞去した。江上の希望を容れて、公共機関で帰るためである。
宇梶は行きの車内で宣言した通り、車を借りる話を断った。
”確かに、車でドライブする暇はないかもね”
クライドも、強いて車を貸そうとはしなかった。
駅まではタクシーを利用した。江上がケーブルカーに乗りたいとごねたが、珍しく宇梶が却下したのだ。途中、動く車両を見かけて、日置も江上も納得した。
乗客が鈴なりなのである。落ちるのではないか、と心配になる。
逆に、鉄道の方は、座席も日本より大きめで、ゆったりと座ることができた。日置はここぞとばかりに、持参した参考書を広げた。
”持ってきたんかい”
”週明けまでに読み込まないと、あかんやろ”
鉄路の車窓からの景色を楽しみたい気持ちはあったものの、やはり学業を優先せざるを得ない。
日置からしたら、同じように追加で資料を読み込まねばならない宇梶と江上が、どうして余裕でいられるのか不思議であった。
天は愛し子に二物も三物も与えるのかもしれない。
はしゃいで話を弾ませた2人共、途中で寝落ちしてしまった。降車駅が気になった日置は、予定の部分まで本を読み進められなかった。
3人は、乗り過ごさずに鉄道からバスへ乗り換えることができた。
実際、公共機関を乗り継いでみて、時間に余裕があれば、車は不要と確認したのであった。




