【5】屋上の断崖と、どす黒い感情
放課後を告げるチャイムが響いた瞬間、クラスの空気はどこか白々しい安堵感に包まれた。
誰かが事件を起こしたり、不幸のどん底に落ちたりした時、周りの人間が示す反応は二つしかない。
一つは、無関心を装って関わりを絶つこと。
もう一つは、安全な外側からその不幸をエンターテインメントとして消費することだ。
今日の2年3組は、完全に後者だった。
「ねえ、白石さんの家、ニュースで差し押さえの映像映ってたよ」
「マジ? 告発したのって社員なんだろ? 父親、相当悪質だったんじゃないの」
「昨日まで『みんなの委員長』ぶってたのにね。結局、汚いお金で買ってもらった服着て、良い子ぶってただけじゃん」
教科書をカバンに詰め込みながら、女子生徒たちが隠す様子もなくヒソヒソと嘲笑を漏らす。
男子生徒たちも、スマホで「白石ホールディングス 倒産」「社長 逮捕」といった掲示板のスレッドを見せ合いながら、面白おかしくクスクスと笑い合っていた。
昨日まで葵に助けられ、相談に乗り、彼女の優しさに甘えていた連中だ。
人間とは、ここまで容易に手のひらを返し、昨日までの味方を踏みにじることができるのか。
俺は自分の机の上で拳を強く握り締め、吐き気と戦っていた。
(違う……違うんだよ)
心の中で血を吐くような思いで叫ぶ。
白石葵の父親が不正をしたわけじゃない。白石ホールディングスが倒産に追い込まれたのは経営陣の強欲さのせいでもない。
全ては——俺の隣で、無邪気に笑っていたあの化け物のせいだ。
ルゥが存在しているだけで、周囲の運命が狂い、確率の神様が最悪のサイコロを振り続けるからだ。
「……白石さん」
俺は葵の席を見た。
彼女の机の上には、放課後の鞄も、ノートも、何一つ残されていなかった。
いつの間に教室を出て行ったのだろうか。
6時限目の授業中、ずっと突っ伏していた彼女は、終礼が終わると同時に、誰の目にも留まらないように静かに席を立ったのだ。
「あ……相羽くん……?」
隣の席の男子が、青ざめた顔で立ち上がった俺を恐る恐る見た。
俺の顔が、どれほど酷い感情に満ちていたのかは自分でも分からない。
俺はカバンも持たずに、教室のドアを蹴飛ばすようにして外へ出た。
「おい、相羽! どこ行くんだよ!」
後ろで誰かが声を上げたが、知ったことか。
廊下を走りながら、俺は胸の奥で嫌な予感が激しく跳ね上がるのを感じていた。
葵のあの目。
生きていることすら拒絶するような、光の消えた絶望の瞳。
昨日、俺が投げつけた身勝手で酷い言葉。
今日、クラスメイトたちから浴びせられた無数の冷酷な視線と悪意。
そして、父親の会社が崩壊し、家族の未来すら奪われたという残酷な現実。
普通の高校二年生の女の子が、たった二日間のうちにこれだけの絶望を背負わされて、耐えられるはずがない。
(どこだ……どこに行った!?)
校舎の廊下を奔走する。
1階の靴箱。彼女の靴はまだそこに残っていた。
体育館? 図書館? 特別教室棟?
その時——頭上から、からからと乾いた風の音が聞こえた。
渡り廊下の窓から上を見上げる。
夕暮れ時の赤黒い空。
本校舎の最上階——4階からさらに上の階段へと続く、「屋上」へと繋がる鉄扉の方向。
本来なら、安全のために鍵がかけられているはずの場所だった。
だが、あの悪魔が側にいるのだ。鍵のサビが外れることくらい、ワイヤーを切断することに比べれば造作もないはずだった。
「……っ!!」
俺は階段を狂ったように駆け上がり始めた。
一段、また一段と踏みしめるたびに、足の筋肉が悲鳴を上げる。
肺が灼かれるように熱い。息が上手く吸えない。
葵まで奪われたら、俺は何のために生きているのか分からなくなる。
「白石さん……! 白石さんっ……!!」
4階の踊り場を抜け、屋上へ続くドアが見えた。
重厚な金属の扉は、本来なら厳重な南京錠で施錠されているはずだった。だが、その南京錠はまるで焼き切られたかのように真っ赤にサビつき、地面に転がっていた。
ドアが、僅かに隙間を開けて風に揺れていた。
キーッ、と嫌な金属擦過音が響く。
俺は扉を思い切り押し開けた。
強烈な風が、俺の全身を叩いた。
茜色と漆黒が混ざり合った、どす黒い夕焼け空が視界いっぱいに広がっていた。
周囲を囲む高いフェンス。そのフェンスの一部が、まるで大型の肉食獣に食いちぎられたかのように丸く破られ、大きな穴が開いていた。
その穴の向こう側。
幅わずか三十センチほどのコンクリートの縁の上に、白石葵が立っていた。
「……あ……」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
彼女の黒髪が、突風に煽られて激しく乱れていた。
制服のスカートがパタパタと音を立てる。
足元には、数十メートル下のコンクリートのグラウンド。一歩踏み外せば、人間の肉体など簡単に破裂して死に至る高さだ。
葵は下を見つめていた。
その背中は痛々しいほど細く、今にも風に吹き飛ばされてしまいそうだった。
そして——彼女のすぐ隣。
空中に浮遊するルゥの姿があった。
ルゥは葵の顔のすぐ横で、楽しそうに微笑んでいた。
常人には見えない黒い尾が、茜色の空をバックにゆらゆらと蠢いている。
「あおいちゃん、すごいねー! ここ、お空が近くて気持ちいいよ?」
ルゥは無邪気な声で、葵の耳元で囁いていた。
「ここから一歩『ポン』って踏み出したらね、全部楽になれるんだって! お父さんのニュースも、学校のみんなの嫌な言葉も、ひろとに言われた悲しいことも、ぜーんぶ消えてなくなっちゃうんだよ?」
当然、葵にはルゥの声も姿も見えていない。
だが、ルゥの発する「死への誘惑」という悪魔の波動が、絶望の淵にいる葵の精神を、着実に崖の下へと押し出していた。
葵の足が、ゆっくりと爪先立ちになる。
「やめろぉぉぉっ!!」
俺の叫び声が、屋上に響き渡った。
葵の肩が跳ね上がり、ゆっくりと振り返った。
夕日に照らされた彼女の顔は、涙で濡れ、白く透き通るほど蒼白だった。
その目には、もはや生きている者としての温度が残っていなかった。
「……相羽……くん……?」
「白石さん! 動くな! そこから動かないでくれ……お願いだから!」
俺は片手を突き出し、一歩踏み出そうとした。
だが、葵は力なく首を振った。
「来ないで……相羽くん。近づかないで……」
「白石さん……!」
「ごめんね……私、もう……無理みたい……」
葵の掠れた声が、風に流されて俺の耳に届く。
「お父さんの会社がなくなって……お父さん、警察に連れていかれて……お母さんも家でずっと泣いてて……。今日、学校に来たら……みんな、私のこと……犯罪者の娘みたいに見てて……」
彼女の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、屋上の縁を濡らした。
「私ね……相羽くんが昨日言った言葉……すごくショックだったの。私、相羽くんに嫌われてたんだなって……今まで親しくしてくれてたのも、ただの勘違いだったんだなって……」
「違う! 違うんだ白石さん!」
俺は胸が張り裂けそうな思いで叫んだ。
「昨日のあれは嘘だ! 全部嘘なんだよ! 俺が白石さんにひどいことを言ったのは……白石さんを巻き込みたくなかったからなんだ!」
「え……?」
「俺は……俺は白石さんのことが好きだ! 1年生の時からずっと、君のことが好きだったんだよ!!」
なりふり構っていられなかった。
恥ずかしいとか、振られたらどうしようとか、そんな青春の甘っちょろい悩みなんて全部吹き飛んでいた。
今、目の前で命を捨てようとしている女の子を繋ぎ止めるために、俺は魂の底から自分の本音を叩きつけた。
「優等生ぶってるなんて思ってない! 君が優しいのも、誰にでも親切なのも、全部君の素敵なところだ! 俺はそんな君に何度も救われてきたんだよ!」
葵の目が、見開かれた。
涙に濡れた瞳に、ほんの少しだけ生気の光が戻る。
「相羽……くん……?」
「だから……死ぬな! 君が死んだら、俺は……俺は生きていけない! 頼むから、こっちに戻ってきてくれ……っ!」
俺は両膝を地面につき、葵に向かって手を伸ばした。
喉が千切れるかと思うほどの叫び。俺の全身から、涙と汗が溢れ出していた。
葵は唇を震わせ、俺の手を見つめた。
「相羽……くん……私……私ね……っ」
彼女の足が、コンクリートの縁から内側へと、ゆっくりと踏み出されようとした。
——その時だった。
「あれー?」
屋上の風が、急激に冷ややかさを増した。
手すりの外側で浮遊していたルゥが、不満そうに頬を膨らませた。
「ダメだよ、ひろと。せっかくあおいちゃん、いいところまでいってたのに。告白して引き留めるなんて、そんなのルール違反だよー?」
ルゥの真っ赤な瞳が、不吉な光を放つ。
「あおいちゃんが死んでくれないと、ひろとが『本当の絶望』を出してくれないでしょ? あたし、立派な悪魔になれないじゃん!」
ルゥが小さな手を伸ばした。
彼女の手が——葵の背中に触れた。
本来、人間には見えず、触れることもできないはずの悪魔。
だが、ルゥが人間の負の感情を大量に吸収し、実体化が進んだことで、彼女の存在は「物理的な力」を行使できるようになっていたのだ。
ルゥの小さな手が、葵の細い背中を、ぽん、と軽く突いた。
無邪気に。悪意もなく。ただ「落とす」ために。
「あ……!?」
葵の身体が、宙に浮いた。
浮力と重力のバランスが崩れ、彼女の身体がフェンスの穴を越えて、数十メートル下のコンクリートに向かって傾いていく。
「白石さんぁぁぁぁぁっ!!」
俺の脳内で、何かが爆発した。
思考よりも先に、身体が動いていた。
地面を蹴り、滑り込むようにして屋上の縁へと飛び込んだ。
腕を伸ばす。届いてくれ。頼む、届いてくれ!!
ガシッ!!
指先が、葵の制服の袖口を捉えた。
そのまま全力で彼女の手首を掴み引き寄せる。
「きゃあぁぁぁっ!?」
葵の叫び声。
俺は屋上の床に背中を激しく打ち付けながら、彼女の体を力任せに引きずり上げた。
どさっ!!
二人の身体が、屋上のコンクリートの上に倒れ込んだ。
葵の温かい身体が、俺の胸の中に飛び込んでくる。生きていた。彼女の心臓が、トックン、トックンと激しく脈打っているのが伝わってきた。
「はぁ……はぁ……っ……白石さん……大丈夫か……!?」
「あ……相羽……くん……っ……うあああぁぁぁっ……!」
葵は俺の制服の胸元にしがみつき、子供のように泣き叫び始めた。
死への恐怖、救われた安堵、そして家族や自分の未来への絶望。全ての感情が一気に噴き出し、彼女は俺の腕の中で激しく肩を震わせて泣いた。
「良かった……良かった……っ!」
俺は葵の頭を抱きしめ、涙を流した。
間に合った。俺の手で、大切な人を救い出すことができた。
だが——悪夢は、まだ終わっていなかった。
「……なーんだ」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
俺は葵を背中に庇いながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、フェンスの上にしゃがみ込み、見下ろしてくるルゥがいた。
夕日を背にした彼女の顔は影になり、真っ赤な瞳だけがランタンのように怪しく光っていた。
「死ななかったね。あおいちゃん」
ルゥはつまらなさそうに溜息をついた。
「ひろとが助けちゃうなんて、ずるいよ。あたしね、あおいちゃんが頭から落ちて、ぐちゃぐちゃになるの、楽しみに指くわえて待ってたのに」
「……ルゥ」
俺は立ち上がった。
葵を自分の背後に隠し、ルゥの正面に立ちはだかった。
全身の血が、怒りと殺意で煮えたぎっていた。
もう、迷いはなかった。
「無邪気だから」「子供の姿だから」「悪意がないから」なんて言い訳は、二度と自分に許さない。
この存在は、害悪だ。
人間に幸福をもたらさず、ただ破滅と絶望を振り撒く厄災だ。
こいつを野放しにしていれば、葵はいつか
殺される。母さんも、学校の奴らも、世界中の人間が壊されていく。
「ルゥ……お前を殺す」
俺は低い声で言った。
ポケットから、今朝準備していたものを取り出した。
昨夜のカッターナイフではない。
実家の工具箱から持ち出してきた、重厚なプライヤーレンチだ。
ズシリとした金属の重みが、手のひらに伝わる。
実体化が進んだルゥなら、物理的な打撃で傷つけることができる。
首を叩き潰す。頭骨を砕く。呼吸を止める。
どんなに残酷な方法であろうと、俺はこの手でこの悪魔の息の根を止める。
「わあ……!」
俺の手にあるそれと俺の目を見た瞬間、ルゥの顔が歓喜でパッと明るくなった。
「それ! それだよ、ひろと……っ!」
ルゥはフェンスから飛び降り、俺の目の前まで歩み寄ってきた。
死への恐怖など微塵もない。それどころか、彼女の小さな体からは、抑えきれない興奮で黒いモヤが激しく吹き出していた。
「本物の『さつい』……! あたしを殺すための、冷たくて、重くて、ドロドロした黒い気持ち……! あぁっ、すごい……胸が壊れちゃいそう……っ!」
ルゥは自分の胸を強く抱きしめ、頬を赤く染めて身悶えした。
「殺して! 早くあたしをそれで殴って! 頭を叩き潰して! ひろとの手であたしを殺してくれたら、あたし、本当の悪魔になれるの! お父さんに認めてもらえるの!」
ルゥは自ら俺の目の前に立ち、頭を差し出してきた。
無垢な悪魔。殺されることを望む化け物。
俺が彼女を打てば、彼女の望み通り「試験合格」となり、彼女は本物の悪魔へと昇格してしまうのかもしれない。
だが——打たなければ、彼女は俺の周りを壊し続ける。
詰んでいた。最初から、どちらを選んでも地獄へ続く選択肢しかなかったのだ。
「……死ねぇぇぇっ!!」
俺は叫び、レンチを全力でルゥの頭部に向かって振り下ろした。
ガンッ!!
金属が肉体にぶつかる、重い鈍音が屋上に響き渡った。
「がぁっ……!?」
ルゥの小さな身体が弾け飛び、コンクリートの床を転がった。
彼女の額から、ドロリとした漆黒の液体が溢れ出し、屋上の床を黒く染めていく。
「相羽……くん……? 何……してるの……?」
背後で、葵が恐怖に満ちた声を上げた。
葵の目には、ルゥの姿は見えていない。ただ俺が何もない空中に向かって工具を振り下ろし、何もない床に黒い液体が飛び散ったのを見て、パニックになっているのだ。
「う……あ……っ!」
床に倒れたルゥが、ゆっくりと体を起こした。
額を割られ、黒い血液を流しながら——彼女は、かつてないほどの最高に幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「あはっ……あはははははっ!! 痛い……! 痛いよひろと! これが『さつい』なんだね……! すごい……身体中のパワーがみなぎってくる……っ!」
ルゥの身体を包む黒いモヤが、巨大な渦となって巻き上がった。
額の傷が、黒い煙を吹き出しながら、肉眼で見えるスピードで塞がっていく。
それだけではない。小学一年生ほどだった見た目が、小学三年生ほどの体つきへと変化している。
俺の投げつけた「殺意」と「打撃」すらも、彼女は糧にして成長したのだ。
「ひろと……ありがとう!」
ルゥは立ち上がり、黒い血を袖で拭うと、俺に向かって可憐にお辞儀をした。
「今日の攻撃じゃ、あたしはまだ死ねないみたい! もっと強い殺意が必要なんだね! あたしを完全に殺すためには、もっともっと深い絶望が必要なんだね!」
「……くっ……そ……が……っ!」
俺は手の中の工具を握り締め、歯が折れるほど噛み締めた。
打っても成長する。放置しても周りを壊す。
殺さなければ大切な人が奪われ、殺そうとすれば彼女の思惑通りに悪魔へと近づいていく。
これが——「悪魔の最終試験」の本当の恐ろしさだったのだ。
「白石あおいちゃんを助けちゃったから、明日は別の人を壊すね!」
ルゥはご機嫌そうにくるりと一回転した。
「次は誰にしようかな? ひろとのクラスの担任の先生? それとも、下駄箱で親切にしてくれたあの女の子? ひろとが一番悲しむ人、あたし頑張って探してくるね!」
「待て……! 待てよルゥ!!」
ルゥの身体が黒いモヤとなって弾け、夕焼けの空へと溶けて消えていった。
屋上には、激しい風の音と、泣きじゃくる葵の声だけが残された。
俺は膝から崩れ落ち、自分の手を見た。
ルゥを殴った感覚。手に残る重い感触。
俺は葵を守った。だが、その代償として、俺自身がルゥを成長させ、次の犠牲者を生み出す引き金引いてしまったのだ。
「うあああぁぁぁぁぁっ……!!」
俺の叫び声が、赤黒く染まる夕空にどこまでも虚しく吸い込まれていった。
悪魔の少女との、終わりのない地獄のゲーム。
俺が人間としての心を完全に捨てるか、世界が破滅するか。
その残虐な天秤が、静かに傾き始めていた。




