【3】凶刃の感触と、殺せない手
病院の集中治療室(ICU)の待合室は、底冷えするような静けさに包まれていた。
「なんで……なんでうちの子が……っ! あんなにサッカーを頑張っていたのに……ッ!」
桐島の母親が、椅子に顔をうずめて哭いていた。その傍らで、父親が険しい顔をして壁を力任せに殴りつけ、拳から滲む血を無視して歯を食いしばっている。
医師から告げられた診断結果は、残酷そのものだった。
右膝下複雑骨折、および前十字靭帯・半月板の壊滅的損傷。
二度と、全力で走ることはできない。サッカー選手としての未来どころか、健常な歩行すら懸念されるレベルの重傷だった。
「……すみません。すみません……っ」
俺はただ、深々と頭を下げ続けることしかできなかった。
俺が謝ったところで、桐島の脚が元に戻るわけでもない。だが、俺が叫ばずにいられなかったのは、自責の念が胸を締め付けて破裂しそうだったからだ。
あいつは、俺の親友だった。
俺が悪魔の存在を知っていたのに、俺はあいつを守れなかった。
いや——俺があいつに関わったからだ。
俺がルゥという厄災を引き寄せ、ルゥが俺を「悲しませる」ために桐島を標的に選んだのだ。
桐島が奪われた未来は、俺の存在が招いた結果だった。
「相羽くん……君が責めることじゃないよ。事故だったんだ……」
桐島の父親が、掠れた声で俺の肩を叩いてくれた。
その優しさが、まるで煮えたぎった鉛を直接胃袋に流し込まれたように熱く、痛かった。
俺は病院を逃げ出すように後にした。
夜の街を、あてもなく歩く。
街灯がポツポツと舗装路を照らしているが、俺の視界は真っ暗だった。
息を吸うたびに、胸の奥がキリキリと痛む。桐島の叫び声、骨が砕ける音、血の匂い。そして——あの少女の嬉しそうな笑い声が、耳の奥でループし続けていた。
「ねえ、ひろとー。どこいくのー?」
横を並走するように、宙を滑る影。
ルゥだ。
ぶかぶかのパーカーの裾を揺らしながら、彼女は俺の顔を覗き込んできた。
「ひろとのお友達、すごーく泣いてたね! お父さんやお母さんも、みんな顔をくしゃくしゃにして、すっごい真っ黒な煙を出してたよ! あたしね、あんなに甘い煙、初めて食べたの!」
ルゥは満足そうに自分の小さなお腹を撫でて見せた。
その顔には、一切の悪意がない。
人間が「美味しい焼肉を食べた後」と同じ満足感と、素直な喜びだけが浮かんでいる。
「……ルゥ」
俺は足を止め、低く冷たい声で彼女を呼んだ。
「なにー? お名前呼んでくれた! えへへ、うれしいなー!」
「お前……本当に、なんとも思わないのか?」
「んー? なんともって?」
ルゥは首をかしげ、真っ赤な瞳をくりくりと動かした。
「桐島は……あいつはな、ずっとサッカーに全てを捧げてきたんだ。毎日泥だらけになって、足が血まめだらけになっても練習して、将来はプロになるって夢を見てたんだぞ……! お前はそれを、一瞬で踏みにじったんだぞ……!?」
俺の叫び声が、夜の住宅街に寂しく響き渡る。
だが、ルゥは不思議そうに目を丸くするだけだった。
「ゆめ? さっかー? それ、おいしいの?」
「……っ!」
「あのね、ひろと。あたしにはね、にんげんの言ってる『ゆめ』とか『きぼう』とか、ぜんぜん分かんないよ? でもね、それが大きければ大きいほど、壊れた時に『すごーく美味しいご飯』になるのは知ってるよ!」
ルゥは両手を広げ、くるくろと夜空で一回転してみせた。
「お友達のさっかーのゆめが大きかったから、今日の絶望はとびきり甘かったんだね! ひろと、あのお友達を選んでくれてありがとう!」
——ドクン、と心臓が激しく跳ね跳ねた。
会話にならない。
最初から分かっていたはずだった。人間と悪魔。生きる次元が違う。
ライオンに「シマウマにも家族や夢があるんだぞ」と説教する奴がいるか?
台風に「家を壊さないでくれ」とお願いして届くわけがあるか?
ルゥは厄災であり、捕食者なのだ。
そして俺は——ただの「食料」であり、同時に彼女を成長させるための「試験台」でしかない。
「……行こう」
俺は絞り出すような声で呟き、自宅へと足を向けた。
「うん! おうちに帰ろう! お家にも、まだ悲しい煙がたくさん残ってるもんね!」
ルゥはご機嫌そうに俺の頭の上をふわふわと飛び回った。
俺はその横顔を、殺意で濡れた目で見つめ続けていた。
言葉で伝わらないなら。
説得が不可能なら。
やるべきことは一つしかなかった。
午前一時。
静まり返った相羽家の二階、俺の自室。
一階の寝室からは、睡眠薬を飲んで泥のように眠る母さんの規則正しい息遣いが微かに聞こえていた。父親がICUに入院し、親友が脚を破壊された。相羽家は、完全に機能不全に陥っていた。
暗闇の中、俺は学習机の引き出しから、「それ」を取り出した。
カッターナイフ。
工作用の、大きめの刃がついたスチール製のカッターだ。
刃をカチカチと押し出す金属音が、静かな部屋に異様なほど大きく響いた。
「……ふぁぁ……ひろと、まだ起きてるの……?」
ベッドの上から、小さな欠伸が聞こえた。
見ると、ルゥがシーツの上に丸くなり、猫のように身体を小さくして横たわっていた。
漆黒の尾がパタン、パタンと力なくシーツを叩いている。
(触れる……今は、触れるはずだ)
夕方、グラウンドでルゥは俺の手を握ってきた。
彼女が人間の「負の感情」を大量に吸収し、成長したことで、実体化の度合いが上がったのだ。
現に今、彼女が乗っているシーツには、確かに小さな身体の沈み込みができていた。
俺は生唾を飲み込み、息を殺してベッドへと一歩踏み出した。
心臓がバクバクと暴れ狂っている。手汗でカッターのグリップが滑りそうだ。
人を殺す。
たとえ相手が見た目だけの悪魔の幼女であっても、目の前で呼吸をしている存在の命を奪うのだ。恐しくないはずがない。狂いそうだ。
だが——殺さなければ、次は誰だ?
母さんか? それとも、学校の他の奴らか?
俺がここで躊躇すれば、明日にはまた誰かの未来が不条理に粉砕される。
(俺がやるんだ……。俺の手で、この厄災を断ち切るんだ……!)
俺はカッターナイフを両手で強く握り締め、ルゥの首元を狙って振り上げた。
その時だった。
「……ひろと?」
ルゥがパチッと目を覚ました。
暗闇の中で、彼女の真っ赤な瞳が怪しく発光する。
そして、俺が振り上げたカッターナイフと、血走った俺の目を見つめた。
俺の動きが止まった。
恐怖で逃げるか? 叫び声を上げるか? 攻撃してくるか?
しかし、ルゥが浮かべたのは——どこまでも無邪気で、純粋な「歓喜」の表情だった。
「わあ……! ひろと、あたしを殺してくれるの!?」
ルゥは跳ね起きると、自ら首を差し出すようにして、俺の突き出した刃に向かって一歩踏み出してきた。
「な……っ!?」
「すごい! すごいよひろと! 本当に殺してくれるの!? あたしを刃物でブスッて刺してくれるの!?」
ルゥは目を輝かせ、小さな両手を叩いて喜んだ。
彼女の小さな首筋に、カッターの刃先が微かに触れる。
チクッとした感触。確かに実体がある。押し込めば、この小さな首を切り裂き、命を奪うことができる。
「お……動くな……! 刺すぞ……本当に刺すぞ……!」
俺は声を出して威嚇した。だが、声はみっともなく震えていた。
「うん! 刺して! 痛いのかな? あたし、痛いの初めてだから楽しみ! ひろとに殺されたら、あたし、立派な悪魔になれるんだよ! お父さんにほめてもらえるんだよ!」
ルゥは俺の目をまっすぐに見つめながら、刃先に自ら首を押し当ててきた。
カッターの刃が、彼女の白い皮膚をわずかに浅く切る。
赤い血ではなく——ドロリとした、漆黒の液体がひとしずく、ルゥの首筋を伝った。
だが、ルゥは眉一つ潜めなかった。
痛みへの恐怖も、死への拒絶もない。あるのはただ、「試験に合格できる」という子供らしい純粋な期待だけだった。
「さあ、ひろと! 早くブスッてして! あたしを殺して!!」
「っ……あああああぁぁぁっ……!!」
俺は腕に力を込めた。
押し込め。そのまま横に引け。そうすれば終わる。この悪夢は、この厄災は、すべて消えてなくなる!
——だけど。
手が、動かなかった。
「……なんで……? なんで刺さないの、ひろと?」
ルゥが不思議そうに首を傾げる。
俺の全身から、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
腕が激しく震え、カッターナイフがカチカチと音を立てる。
殺せない。相手が襲いかかってくる化け物なら殺せたかもしれない。
冷酷非道で、俺たちを嘲笑う悪党なら刺せたかもしれない。
だが——目の前にいるのは、「死」の意味すら分かっておらず、ただ親に褒められたい一心で、無邪気に首を差し出してくる「子供」なのだ。
悪意がない。憎しみがない。
ただ「生きる本能」として俺たちを破滅させ、ただ「成長したい」という本能で殺されたがっている。
そんな存在を自分の手で切り裂くことは——人間としての自分の心を、完全に殺すことと同義だった。
「……くそっ……! くそ悪魔がぁぁぁっ!!」
俺はカッターナイフを壁に向かって投げつけた。
カツン! と金属音が響き、刃が折れて床に転がる。
俺は膝から床に崩れ落ち、頭を抱えて激しく呼吸した。
涙が溢れて止まらなかった。悔しかった。自分の弱さが、甘さが、情けなさが、反吐が出るほど嫌だった。
親友の脚を奪われたのに。
親父の未来を奪われたのに。
俺は、目の前の元凶を殺すことすらできない。
「あれー? 殺してくれないの?」
ルゥがベッドから降りてきて、床で丸まる俺の前にしゃがみ込んだ。
首筋の小さな傷口から黒い液体を流しながら、彼女はつまらなさそうに頬を膨らませた。
「なんだー。がっかり。ひろと、あたしのこと、まだあんまり憎んでないんだね?」
「……黙れ……消えろ……頼むから消えてくれ……」
「ダメだよー。あたし、ひろとに殺されるまでずーっと一緒だもん!」
ルゥはそう言うと、俺の頭にぽんと小さな手を乗せた。
氷のように冷たい手。
でも、その手つきは、幼い妹が兄を撫でるように、どこか甘やかで、狂気的な温もりに満ちていた。
「もっと頑張るね、ひろと。ひろとが、あたしを『絶対に殺す』って思えるくらい、もっともっと周りをぐちゃぐちゃにしてあげるからね!」
闇の中で、悪魔の幼女は可愛らしく微笑んだ。
俺はただ、絶望の泥の中に沈んでいくことしかできなかった。
翌朝。
世界は何事もなかったかのように朝を迎え、太陽の光が部屋に差し込んでいた。
俺は一言も喋らず、制服に着替え、カバンを持って家を出た。
母さんは精神安定剤のせいでまだ起き上がれず、リビングは冷え切っていた。
「ひろとー、今日もいい天気だねー!」
俺の右斜め後ろを、空中散歩しながらついてくるルゥ。
昨夜の首の傷は、いつの間にか綺麗に消えていた。彼女の肌はつるりとしており、傷跡すら残っていない。
俺はルゥの声を無視し、無心で歩いた。
学校へ向かう足取りは、死体のように重い。
教室に着くと、空気は重苦しく淀んでいた。
桐島の事故のニュースは、すでに学年中に広まっていたからだ。
「聞いた? 桐島くん、サッカーのゴールが倒れて大怪我したんだって……」
「プロを目指してたのにね……可哀想……」
「ていうか、学校の備品点検どうなってんの? 事故多すぎじゃない?」
あちこちでヒソヒソと囁かれる噂話。
桐島の席は、ぽっかりと空いていた。昨日まであんなに元気に笑っていた場所が、まるで黒い穴のように空いている。
俺は自分の席に座り、机の上に突っ伏した。
何も考えたくなかった。誰も俺に話しかけないでほしかった。
だが——運命は、俺に休む暇すら与えてくれない。
「あの……相羽くん?」
遠慮がちな、透き通った声が頭上から降ってきた。
俺はゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは——白石 葵だった。
黒髪のロングヘアに、整った控えめな顔立ち。
学級委員長を務めており、誰にでも優しく、クラスの女子からも男子からも信頼されている女子生徒。
そして——俺が、1年生の時から密かに想いを寄せていた相手だった。
「白石……さん」
「あのね、桐島くんのこと……今朝、担任の先生から聞いたの。相羽くん、昨日病院に付き添ったんでしょ? 桐島くん……どんな様子だった?」
葵は心配そうに胸の前で手を握り締め、俺の顔を覗き込んできた。
彼女の大きな瞳には、純粋な同情と、桐島を案じる温かい光が宿っていた。
「……脚の骨が折れて、手術した。リハビリには……かなり時間がかかるみたいだ」
俺は嘘をついた。「二度とサッカーはできない」なんて、自分の口から言うのが怖かったからだ。
「そうなんだ……ショックだよね。相羽くん、桐島くんと一番仲が良かったから……すごく心配だったの。相羽くんも、なんだか辛そうな顔してるし……」
葵は気遣うように、俺の机の端にそっと手を置いた。
その優しさが、胸に染みた。桐島を失い、親父を失い、闇の中にいた俺にとって、彼女の言葉は唯一の救いに思えた。
「ありがとう、白石さん。俺は……大丈夫だから」
「無理しないでね? 私で力になれることがあったら、いつでも言って」
葵はそう言って、優しく微笑んだ。
(ああ……白石さんは優しいな。俺なんかのことも心配してくれて……)
荒んだ心が、ほんの少しだけ癒やされた気がした。
——だが、次の瞬間。
俺の隣で、ゾクリとするような「空気の冷え込み」が起きた。
「ねえ、ひろと」
教室の窓枠の上に腰掛けていたルゥが、すっと息を呑むような滑らかさで降りてきた。
彼女は白石葵のすぐ隣に立ち、彼女の顔を穴が開くほど見つめ始めた。
「この女の子……なぁに?」
ルゥの真っ赤な瞳が、怪しい光を放ち始める。
「やめろ……」
俺は蚊の鳴くような声で呟いた。背中に嫌な汗が噴き出す。
「この子ね、ひろとのこと見る時、心がポワポワ〜って温かくなってるよ? ひろとのことも、すっごく大切に思ってるみたい!」
ルゥは葵の胸元に顔を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐような仕草をした。
「それにね、ひろともこの子のこと見ると、胸がドキドキして、悲しいのがちょっと消えちゃうんでしょ? 『すき』って気持ち、あたし知ってるよ!」
「やめろ……言わせるな……!」
「ひろとにとって、この女の子は、お父さんやお友達と同じくらい……ううん、それ以上に『大切』な人なんだね?」
ルゥの口角が、ゆっくりと持ち上がっていく。
耳まで引き裂かれそうな、あの捕食者の笑み。
「ダメだ……! 白石さんには……白石さんだけには手を出すな……!!」
俺は思わず立ち上がり、大声を上げていた。
ガタアァンッ!!
机が激しく揺れ、教科書が床に落ちる音。
教室中の視線が一斉に俺へと注がれた。
「え……? 相羽くん……?」
葵が驚いたように目を丸くし、後ずさりする。
「相羽? 急に大声出してどうしたんだよ?」
「桐島のことで頭おかしくなったんじゃね?」
クラスメイトたちの不気味がるような囁き声。
だが、俺の視界には、白石葵の顔しか映っていなかった。
そして——葵の肩の上に、ちょんと顎を乗せ、俺に向かって無邪気に手を振るルゥの姿が。
「きーめたっ!」
ルゥは葵の耳元で、甘い声で囁いた。
「ひろとが一番大切にしているこの女の子を、ぐちゃぐちゃにしてあげるね! そしたら、ひろと、絶対にあたしを殺してくれるでしょ!?」
(——ッ!!!)
頭の中で、何かがぶち壊れる音がした。
白石葵。俺の、最後の光。
ルゥの次の標的は——俺が一番奪われたくない、彼女に決まってしまった。
「白石さん……逃げろ……!」
俺は葵の肩を掴み、叫んでいた。
「え……? 相羽くん……何言ってるの……? 怖いよ……っ!」
怯える葵の顔。
その隣で、最高に楽しそうに笑う悪魔の幼女。
終わりなき絶望の連鎖が、俺の「初恋」すら飲み込もうとしていた。




