表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/71

透かし指が撫でし者

「いつまで腐ってんだい!」


確かに俺は万年床の煎餅布団の上で、腐って──眠っていた。

否、この時もう、眼は醒めていた。

窓枠ががたがたと寒げに震える音で眼を覚ましたのがちょうど一時間ほど前だ。


いやに苛立っていた。

目に映るもの全てに腹が立った。

そこから俺は感情のみを(もた)げ、足趾を丸めたり伸ばしたりを繰り返していたのだ……


「朔ちゃん?」

「腐ってねェよ……いんや、今腐っちまったかもな!」

十二、三の時分の少年の声で聴こえた。

咳払いをした。

年相応の音が鳴り、安堵する。


しかし今度は言い容れぬ咽びのようなものが湧き上がって来た。

俺は身を捩りうつぶして枕を額で練った。

畳の()えた匂いと紗峰(しゃぼん)の香りが混じり合い、肺を満たした。


「なんの話だい?」

イヨさんがどかどかと侵入してくる。

鋭くなり過ぎた神経は本能的に彼女の現在地をとらえている。

左眼だけで見遣ってその手首を掴んだ。

存外華奢なその影を紗峰の匂いの(うち)へと押し込める。

途端、また俺の中の悪魔めいたものが口の端に現れ出した。


「こんないい匂いで腐る奴いるかい……?」


次点、眼前でビイドロが()ぜた。


「いってェな!」

「変な気ィ起こすんでないよ!」


拳は俺の肩に拳を突き当てられたままになっている。

目線だけがゆるゆると(くだ)ってくる。

その揺らぎが拳に宿り、その波動が骨を崩していく。


「……イヨさん? なんだい? 急に黙って。」

彼女の眼は一点をとらえたままになっている。

「そんなに見られたんじゃあ俺……」

(ぼたん)。」

「あ?」

「釦だよ、朔ちゃん。釦、どこやった?」

「……」

途端、心臓は熱を失った。

拍動は回数を減らし、代わりに肋を歪めるほどに収縮を強めた。


「そもそもがだよ! 学生服で寝んなって何回言えばわかるんだい? それにあんたもう学校は……」

イヨさんは布団から抜け出ると、俺めがけて枯草色の着物を投げつけた。


「ほれ! 仕事だよ! さっさと着替えな?」


俺はもう脱ぎ始めていた。

詰襟の釦の上から三つ目で、指の先が滑る。

構っていられるものか……

ひたすらに首を振る。

横髪が頬を打つ。

この感覚で自分の輪郭の未だ崩れず此処に在ることを認識する。


その衣嚢に隠した春の花──


「痛ェ!」

イヨさんが片脚だけで跳ねている。

片足立ちのまま足の裏を凝視している。

それも跳ねながらとはまた随分と器用なものだと

到底、俺には真似のできぬ(わざ)……

左の膝の曲がりに合わせて、右脛まで露わになっている。

そんな彼女に今声などかけ、肩を支えようものなら鉄拳で頭をかち割られかねない。

己の頭蓋防衛の為、無用の問いを繰り返すのであった。


「朔ちゃん……! だめだ……! あんた何……」

「なんだい?」

彼女は何か摘み上げ、その指先を睨みつけている。

程なくしてそれを碁石が如く、小卓に打った。

「釦だ。」

「あ、ああ……」

俺は着かけた着物を肩からずり下げたまま身をかがめた。

イヨさんは俺の目の前に阿像の顔して立ち塞がる。

「なんでどこに置いてんだい! はあ……」

「置いたわけでねェよ……晩のことは全然……」

「ああ……だらしない! 本当にだらしのない子だ!」

燃え盛る阿像である。

「とにかく朔ちゃん、あんた今日はちゃんと働いてもらうからね!」


至極理不尽、かつ真っ当。

俺は思う。

ぐうの音は出ぬのではない、出さぬのだ。

代わりに腹の虫がひと鳴きする。

「こんな時に……」

最終、イヨさんは不敵な笑みを残し俺に背を向けた。

毒のひとつも喰らわせられぬうちに、襖はぴしゃりと閉じられた。

行く宛を失くした毒は、俺の肝を酷くいたぶった。


階下(した)ではもう、ほとんど出来上がった人数分の朝餉が湯気を昇らせていた。

俺は汁物をよそっている。

贔屓目に法曹崩れの分の大根を二、三切れ多めに入れてやった。

しかし、食堂に彼の姿のないことが俺の内側を暗くした。


配り終えてしまうと、土間に苔の凍える匂いが立ち込めてきた。

仄暗い土間の水に金盥に指を浸す。

骨に薄氷が張るような感覚に一度手を引き上げた。

じん、じんと指は一回りも二回りも腫れたように感ぜられた。

もう一度浸す。

味を見るのに使った小皿と、昨日洗い残したであろう誰かの茶碗とが互いを弾いて小気味の良い音を響かせた。


「雨……か……」

「ん? なんかあんのかい?」

不思議だ。

空模様の話をすると、人は途端に予定に想いを馳せる。

「いんや、なんも。なんもなくてよかったな……」


俺にはわからなかった。

本当に何もないのだろうか。


金盥を裏庭へと運ぶ。

波打つ水の上に、紋こそ生まぬが水の落ちるのがわかる。

仄苦い中に僅かに甘さが混じっている。


霧雨が髪を、着物を──記憶を湿り腐らせていく。

捨て水の吸われた跡、鈍く光るものを見つける。


「……釦?」


思うや否や俺は飛びついていた。

摘み上げると、それは滑らかな小石であった。


それはいくつもいくつも、散らばっている。

灰を濃くした、(くろ)色をして。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ