月に眠り、土に踊れ
「朔ちゃん、あんた昨日、月見なかったのかい?」
「見たね、お月さん。」
「なんだい……見たならわかんだろう? だって昨日の月……」
俺は空になった盥をだらりと下げたまま空を仰ぎ見た。
縁をつたう残り水が、足の甲を濡らす。
雫の落ちた跡だけがずんと重く、鈍くなる。
白に灰靄をかけた空は水を持ちきれず、霞のため息をついた。
俺は土間の外壁に凭れかかり、眼を閉じる。
霧雨が土の毳立ちを平す音が聴こえる。
綿の如き水は土を静謐に薙ぎ倒していく。
俺は闇の中に、一人佇む。
否、雨の朝の裏庭に立ち、己の創り出した闇の中へ閉じこもっているだけだろう。
──藍を切り裂く鋭い月……
──冬だというのに花霞を纏った月……
ただただ、心細かった。
眼前に浮かぶ二つの月に泣いて喚いて地団駄踏んでやりたいほどに、俺は心細かった。
鳩の飛び去る音で眼を開ける。
売れ残りの釣鐘は、冬枯れの裏庭の中の唯一の「生」のように見えた。
「朔ちゃん、聴いてんのかい?」
「ああ……」
「またぼんやりして。」
頭の方はよっぽどはっきりしているのだ。
瞼の裏に月の出ぬことは、よくわかっている。
月に兎の住まわぬことより明らかである。
「で、月は見たのかい?」
「さあな。」
これが精一杯だった。
皆目見当もつかぬ然として精一杯、頬の強張りを解く。
代わりに小石を握り込んだままの拳を震わせた。
「そうだ、朔ちゃん。悪いんだけどさ、千両と松、適当に見繕って切っといてくれるかい?」
「ん。」
食堂の方へ目を向ける。
法曹崩れの茶碗は依然として裏返ったままだった。
鰯は二度も生気を奪われている。
唯一の証人は依然として出廷してこない。
「朔ちゃん、あんた昨日どこ行ってたんだい?」
「……なんだい、イヨさん。気になんのかい?」
「馬鹿言ってんじゃないよ! 世間話だろう!」
「どうだかねェ……」
イヨさんは俺の背中をべこべこに殴りながら土間へ押し込んだ。
「にしたってあんた昨日酒でも飲んだんじゃないかい?」
彼女は躊躇いなしに俺の襟元に鼻をくっつける。
「くすぐってェよ、イヨさん!」
「酒の匂いはしないみたいだね……」
「そりゃあそうだ? 飲んでねェもん。」
「石鹸の匂いだ……」
「だから言ったろう? 珍しく風呂入ってんだから、遠慮すんなって!」
「まだ言うか! あいにく間に合ってるよ!」
イヨさんの目は仏壇の方を向いていた。
彼女の背に触れかけた手は行き場を失い土間の空気を撫でた。
「ああ、そうだ。イヨさん、花鋏貸してくれるかい?」
「何に使うんだい?」
「やだな、イヨさん……千両と松、頼んだのイヨさんでねェか!」
ばしばしと背をぶたれ、俺は咳き込んだ。
「ほんとに嫌になっちまうね! ほれ!」
「んだよ、錆だらけでねェか……」
「うるさいね! ないよりましだろ?」
イヨさんは糠をぶん殴りながら「さっさと行きな」を繰り返している。
俺は、動かすたびに錆滓の散る鋏を片手に裏庭へ出た。
依然として止まぬ霞の如き雨で足元は泥濘み始めていた。
「今年は随分と豊作だね。」
俺はたわわに実る千両の実を指先でついばむみたいに弄ぶ。
空から鵯がギヱギヱと忿懣の音を降らす。
「なあ、鵯よ……おめェ、こんな臭ぇ実よりそっちの釣鐘のが美味えぞ?」
もちろん奴は鳥だ。
俺の話など意に介さず羽虫を飛ばさん勢いで憤怒している。
「わかった、俺が悪かった。すぐ退くから……」
俺は身のついた枝を五つばかり拝借した。
自室用に二つだ。
二つは襟元にしまい込んで、俺はほくそ笑みつつ立ち上がる。
「いけね……」
思った時には遅かった。
景色が俺を残して前方へ回転し始めた。
空の白を横切る鵯の腹を視る。
ウグッという呻めきが第三者的に聴こえた。
踵骨腱が何か硬質のものと激突し、負けたらしい。
電気信号の如く、細かな振動性の疼きが脚を舐め上げていく。
薄ら泥濘に飲まれるようにして置かれた右の踵を向く。
夏に誰かが枯らした蓮の器がひっくり返っていた。
俺はそこに生命を感じされる妙なぬめり気を見た。
毒々しい斑模様に身を包んでいる。
それは無防備に眠る蟾蜍であった。
そしてその腕は何かを抱き止めている。
「おめェ、それ……!」
俺は腕を伸ばす。
左手は泥を押し込んでいる。
「やめときな!」
背後から腕を掴まれた。
「離せ! 離せって!」
「だめだ! やめときな!」
「なんでだよ! こいつ、俺の……ボ……」
言いかけての頭は唐突に熱を失っていった。
──俺の……?
季節外れの花霞に隠れる月を見る。
俺は下瞼の引き攣りを抑える。
冷たくべっとりとした何かが頬を汚した。
「寝かしといてやんな。」
再び足元に眼をやれば、またあの不気味な色が浮かんでくる。
流れることのない、保存された不気味な生命に抱かれているのは黝い小石であった。
俺はこのおぞましい感覚に呼吸を忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。




