月と青年
宿酔に似た、厭な感覚が胃のあたりで蟠っている。
頭の方ばかりが熱っぽくて、たまらない。
冬だというのに月は花霞を纏っている。
道ゆく人は皆、寒くてたまらぬといった具合に外套の襟を立てたり、手に息を吹きかけたりしていた。
俺は法曹崩れの肩を借り、下駄をずってへたり歩いている。
取り返し、あんなにも悦に浸った外套も、そこで立枯れみたいになっているわけのわからない男にかけてやりたいくらいだった。
渾々と湧く水の如く背を滴る汗が何から何までじとじとに湿らせている。
「おかしなもんだね、これじゃあ酒場帰りみたいだ。」
奴は俺の身体を整えながら笑う。
「それともどうだい? ふらつきついでに一杯、引っかけてくかい?」
「結構だよ……」
「んだよ、文士殿。元気そうじゃねェか。」
「酒飲みは飲む前から管巻きやがる……巻けねェように先に管壊してやんのさ。」
「なんだい、それ……」
「秘密だ。おめェと俺だけのな……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
とはいえ瓦斯灯に照らされた煉瓦の隙に、確かに原稿用紙のマスを見た。
俺はその規則正しい四角の羅列にやたらに左下の払の酷い字を書きつける自身の姿をはっきりと視た。
俺はうなだれ眼を開いたり、閉じたままにしたりを繰り返していた。
するとようやく胃の辺りの蟠っていたやつがぬぅと抜けていった感覚があった。
立ち所に脱力し、膝から地に落ちた。
下唇だけがやたらに震える。
「文士殿? 起きてるかい?」
「ん……?」
「寒くないかい?」
「変なこと訊くんでねェよ、久米君。俺は熱いんだ……」
「そうかい。」
「……さっきまで団扇で……風、ふっかけてたの、君……」
瞼の裏の月は白い。
光は鋭く藍を切り裂いている。
身体が不意に綿にでも乗せられたかの如く浮いた。
柔らかく化学と花の匂いがする。
かろうじて瞼を擡げると、月は白く霞を纏っていた。
「明日は雨だね……」
「何かあるのかい?」
「いんや……なんも。なんもないといい、なあんもも……」
そう、言い切れたか否か。
それすらも定かではない。
その背の温みと彼の歩みの揺れは度々俺を睡の海の底へと誘う。
眼を閉じた。
否、瞼が落ちた。
白き月灯に切り裂かれし藍の面影が眼前に広がる。
ああ……どちらの月が真実か。
月無き夜に生まれた俺は、月灯を疑うて止まぬ。
波のように睡と覚醒とは満ちては引くこと繰り返していた。
「なあ、久米君……」
「ん?」
「おめェ、さっき『俺を殺っちまった奴を裁けんのは俺』みてェなこと言ってたな?」
「ああ……」
「それは……久米君が久米君を……」
「なんだい? 寝ぼけてんのかい? やだね、文士殿……そりゃ上原朔也を殺っちまった奴を上原朔也が、の話でないか。」
茂みは黒くちぎれ、枯草が球になって転げていく。
「……死者は法で裁けんのかい?」
「さあな……」
「そしたら逆は……」
「逆?」
「死者……は……法を……司れんのかい?」
「どうだかな……」
俺は抱える代わりに法曹崩れの肩に頭をすっかり凭せかけた。
現と幻の間をひたすらに漂う。
見慣れた垣の列なりを夜風が撫でている。
俺は法曹崩れの詰襟の釦を弄んでいた。
「文士殿、およしください……」
「減るもんでもなし……」
そう言っておいて奴の背に押し付けた自分の胸の釦の足りないことを思い出す。
「久米君……」
風が止んだ。
「なあ、久米君。」
声は頭蓋に沿って巡り漂っている。
やがて感覚の大半が蒸気となった。
揺れぬ揺籠の中、俺の背は緩く弧を描いていた。




