のぼせる文士とうぬぼれ男
極めて静かな闇の中にいる。
それは、蒼と黒とを神経質に幾重にも重ね、織り合わせたような闇であった。
──それは僕です
あの瞬間、確かに飯沼は俺の真正面に座っていた。
此の世に存在する色という色全てを吸い込むような黝い瞳で俺を視ていた。
否、あの色の中に俺を沈めていたのだ。
口の端を片のみ擡げ、支配的に微笑んでいたではないか。
俺は狼狽えた。
ともすればここは、あの男の瞳の中だ。
俺は閉じ込められているのだ。
誰でもいい……起こしてくれ!
目醒めさせてくれ!
わからなかった。
なぜそう叫んだのか。
そもそも叫べていたのか。
そうだ、喉が切れる匂いがしないのだ。
錆びついた金属の如く、鈍く疼くあの匂いが。
ならば俺はあの男の瞳の中で、無様に腹を天に向け餌を乞う魚に同じということか?
鳩尾の裏で何が熱く煮えたぎっていた。
相変わらず心臓は冷たく、時折間違えながら拍を刻んでいる。
「文士殿…… 文士殿……!」
聴き覚えのある声だ。
俺は無我夢中でその声を手繰りもがいた。
口からぼこぼこと泡沫が漏れては闇の中で爆ぜてゆく。
水面は近そうだ。
何かが瞼を照らしている。
視界は煌めきながらぼやける。
まるで睫毛に破れ玻璃でもまとわりついているかのように。
「お目覚めですか、文士殿。」
畳はじっとりと、しゃぼんと煙草の匂いを吐き出している。
「なあ、久米君……?」
「ん?」
「俺、死んでんだよ。」
俺はろくに奴の顔も見ずに言った。
「またまた……文士様、人がお悪い。」
法曹崩れの声は、子どもの戯言を受け流す大人のそれであった。
「じゃあなんだい? 今、俺の目の前で伸びちまってるおめェは命の脱殻だってことかい?」
「そうだ……問題はそこなんだ……死んでんのに心臓は動いてやがるし、生きてんのに心臓は止まってんだ……」
俺は奴の手を冷え切った胸へ当てがった。
「どうだい?」
「どうって……」
奴の視線は中空を舞い、壁に当たったのち俺の瞳へと飛び込んできた。
「動いてんな。」
「じゃあやっぱり俺は死……」
「んでねェよ?」
「……困ったな。」
奴の手の上に指を重ね置いた。
「俺を殺っちまった奴を裁く法律ってもんは第何条何項だい?」
法曹崩れは曇り眼鏡の奥、彼自身の内に沈み込んでしまったような色になっている。
しばらく間があって、ようやく唇を動かした。
「文士殿……それは君の方が……」
言いかけて彼は言葉を噛み潰す。
さっさと俺の手を払うとなんともない顔をして、
「さあさ、文士様。そろそろ帰りますよ……」
と畳にだらしなく延びている俺の詰襟を引っ掴んだ。
すると、音もなく薄暗い中に春めく金色が散った。
俺は横目に転げていく光を見つめている。
その光を奴が追いかけていく。
「……桜?」
男は曇り眼鏡の前に、物体と化した光をかざしている。
掌の上、月灯が桜の紋様を照らしている。
空は極めて黝かった。
俺はそれを握り込み、その握り込んだ拳を振り上げる。
どうしたものか。
指は開かないままだった。




