凪冷え
不自然なほどに凪ぐ心を脳が訝しむ。
「心」というものの所在を俺は未だ知らずにいる。
少なくとも疼きの如く恨めしく打ちつける、心臓などと呼ばれる臓物に宿るものにあらず、ということのみ事実であろうと俺は思う。
「おや。文士様も今、お帰りかい?」
法曹崩れが指紋まみれの眼鏡を正しつつ横に並んだ。
俺は外套の襟を頬まで引き上げ俯いた。
奴は俺の気など知らず、
「なんだい? 年頃の女学生さんみてェだな。照れやがって!」
と小突いてくる。
頭上から注がれる街灯の瓦斯臭い光が鬱陶しい。
それもそのはずだ。
俺はその光源の真下に立っているのだから。
「ああ! そうだ!」
この男が叫んでからどれほどの刻が過ぎただろう。
いや、きっとさほど過ぎてはいないのだ。
そこの段差に腰掛けて、バンカラ野郎が変に甘い匂いの煙を吹いている。
俺の肺はすっかり煤けてしまっているというのに、奴の指に挟まった紙巻はさっきから同じ長さですましたままだったのだ。
「明日は雨だろうねェ……」
「何か言ってんだ? ありゃあお月さんの靄でねェ。おめェの口靄だ。」
「ハハッ……上手いこと言うもんだ。俺はおめェが気に入った。賭けをしようじゃねェか。」
「ふん……おめェ、この栴檀見て、見下してんな?」
俺は口の端を片方だけ吊り上げる。
──……様……文士様!
「あ?」
「聞いてんのかい?」
月灯は白く鋭く藍を切り裂いている。
「明日は晴れだな……」
「明日……? なんかあんのかい?」
「いんや、なんも。なんもないといい。」
「おんや、文士殿……今日はいやに感傷的だね。」
法曹崩れは小指を立て薄ら笑いを浮かべた。
「これかい?」
「さて、どうだか。」
「おお? いい気味だね、色狂気の男の失恋ってのは……!」
曇り眼鏡の後ろの瞳がびかびかと輝き始めた。
「ほれほれ、あんぱん食うかい?」
俺は黙って首を横へ振った。
「そうかい? そしたら俺、食っちまうけど……」
奴は大口を開けかじりつく直前になってまた躊躇って、
「世の美少女たちは恋の傷をこういうので癒やすんですのよ?」
と嫋やぐ。
俺はその眼をじっと視る。
「こんなくたびれたモガの帽子で……かい……?」
この男のいう美少女とやらは随分とモノ好きなのだな……
俺はいやに感心した。
段差の方を見遣った。
そこには気の早い水仙の花が重たげに頭を揺らしているのみだった。
念の為、眼をこすり瞬かせる。
落ち葉が一枚、風にさらわれた。
「ん?」
口の中に砂糖がじわりじわりと沁みてきた。
「隙有り、だ! 文士……いんや? このスケコマシめ!」
「なんだい? 久米君まで……」
「どこの女だい?」
「さあ……?」
俺は今日、致死量の白砂糖を喰うた気がする。
──鳩が五、六……否。
十は飛び、朱の釣鐘は身重げに鳴る。
夏姿の俺自身が朗らかにあんみつを喰っている……
「いっけねェ……俺、今日は死ぬほど女、喰ったもんで。」
「ああ、おぞまし、おぞまし! これだから文学のお人はいやなんだ!」
奴は眼前の蝿を払うようにしてゲラゲラと笑っている。
奇しくもそこは最近できた銭湯の真ん前だった。
「なあ、寄ってかねえかい?」
「俺は……」
「文士殿、ひとまず汗でも流して人間に戻りましょ。ね。」
肩に乗せられた法曹崩れの手の重みが、俺の輪郭をかろうじて繋ぎ止めていた。
「戻るってなんだい? 俺は今何に見えてんだ?」
「まあまあ……」
気付けば俺は敷居も暖簾も越えくぐっている。
奴はすでに、学生帽子から頭を解放してやっていた。
ぼさ髪はほうぼうに生え乱れ、爆竹の爆ぜた後の如くなっている。
板間には蛮海芋の花茎の饐えたような匂いが立ち込めていた。
熱を帯びたそれは舌先から口蓋垂までこびりつく。
「悪ィね、兄ちゃん……」
蒸かし芋の如く湯気をまとった男どもが横を過ぎる。
脱ぐも脱がぬも居心地の悪いこと……
意を決してまず、学生帽子をとった。
どこでも染みついたのやら、真新しい煙草の匂いが毛先から滑り落ちる。
それを、籐籠の隅にを置く。
俺は見様見真似で今日という日を脱ぎ去っていく。
茶屋の娘にひっぱたかれていた外套を裾の方から籠の中へ落っことすみたいにしてしまう。
詰襟の栴檀の釦を外していく。
四の五の言わずに上から一つ、二つ……
「随分器用に開けるもんだね……」
「そうでもねェよ。んだっておめェ、俺が毎日イヨさんに怒られてんの知ってんだろ?」
三つ……指先が空を撫でた。
「朔……あ、文士殿?」
「ん?」
「釦……」
シャツの背はじっとりと湿っている。
背を真新しい汗がつたい落ちる。
洋袴は緩めた帯革の金具に負け情けなく落ちていった。
黒の下で腐らした青の匂いに噎ぶ。
「文士様、ご準備はよろしいでしょうか?」
「どこに話しかけてんだ……」
「俺としたことが……へへ。眼鏡とっちまったもんで。」
湯はやたらに熱かった。
俺の皮膚はみるみる間に、茹蛸の如く真っ赤に腫れ上がった。
意識の輪郭がぼんやりと湯船の中に崩れていく。
俺は口まで浸って眼を閉じた。
頭の横が疼いたのだ。
疼いて閃ってたまらなかったのだ。
──熱い……熱い……!
身体の真ん中よりわずかに左、そこだけいやに冷えていた。
意識も身体も、熱の上の白砂糖の如く融け落ちてしまったようだ。




