桜、栴檀、重ね指
些か睡を貪り過ぎたようだ。
すっかり傾いた陽の中を、俺は旅人やら黒衣やら女学生やらに紛れ、ひた疾走った。
「ああ、朔さん。お久しぶりです。」
「待たせてすま……ああ……ええと。随分とお待たせしましたか?」
「いいえ……今来たところです。」
湯気の立たぬぜんざいの向こう、飯沼は口元に手を当て、水引の如く繊細な笑いをこぼした。
「いや、ごめんなさい。あんまりにも他人行儀だから……おかしくって。」
暖簾をくぐってすぐ右の席、奴は入り口を向く形で陣取っている。
──客もまばらだというのに妙な席に座るものだな……その悪態を白い息に変え、透明な中に隠した。
古びた本の頁の如き色をした布が捲れ、女学生が五、六なだれ込んできた。
「失敬……」
俺は隅に避けたが、一人がふらついて腕にすがった。
その拍子に潰れ鞄を落とした。
例の洋書の隅が、死に蛤の如くなった鞄の口からのぞいている。
俺は下駄の歯でそれを壁へと追い遣った。
「大丈夫かい?」
「え、ええ……ごめんなさい……」
ろくに目も合わさないで女学生は言う。
頭につけたリボンと耳朶は壁掛け花瓶の椿の如く赫々と艶めいていた。
彼女の駆けて行った先、少女たちがちらとこちらを向いてはしきりにひそひそと顔を見合わしている。
俺は脊椎の尖をしゃぶられるような感覚に震えあがった。
まさかとは思うが……
死に蛤に本を押し込み、小脇に抱え直した。
俺は取り繕うみたいして妙な薄ら笑いを浮かべ、言葉もないのにへどもどする。
「はつねさん……はつねさん?」
「はい……」
「彼の外套を脱がしてやんなさい。」
「はい……」
呼ばれた茶屋の娘は俺の肩に手を掛けた。
「すまないね、ありがとう。」
彼女はまるで俺の声など届いていないといった素振りで外套を取り去ると、それの首元を軽くはたいた。
そして何事もなかったみたいにして壁に掛け、最後にもう一発外套をひっぱたいて奥へと消えて行った。
「あの……俺、何か失礼なことでも……?」
飯沼は小刻みに震えている。
「あの……」
「朔さん、君は罪深い人です……いやァ、よろしくない、よろしくない。」
「え?」
「ふふ……」
彼は頬杖をつき小首を傾げ、暇になった方の指先で小瓶の椿を弄んでいる。
「ああそうだ。最近学友が禁書を持っていたとか何とかで謹慎していましてね。」
「へえ……」
俺は額に季節を違えた重たい汗が滲むのを感じた。
半ば無意識に傍らの学生鞄の端を、半分ほど太腿の下に引き込んだ。
「どうにも僕ら程の年齢ときたら……夜たび苦悶の連続でしょう?」
奴はわざとらしくだらしのない音を立てぜんざいをすすってみせる。
「ああ……それこそ君ほど眉目秀麗であればね……そんなこともないんでしょうけど。」
紅椿が身悶えするように短い枝の上で廻っている。
「とはいえ、です。いかんせん朔さん、貴方という人は……本と聴けば見境なくむしゃぶりつくでしょう? 僕は心配でならないんですよ。」
「むしゃぶりつくって……」
「違いました?」
俺は奴の口角を見ないようにした。
花はぼとりと枝から離れ、卓の上へ突っ伏した。
「ああ……椿でしたか……」
飯沼は指先でそのぐったりとした輪郭を撫で始めた。
飲み込み過ぎた言葉で腹がいっぱいだった。
落椿が山茶花の如くなり始めた頃、彼は鞄の金具を外した。
「朔さんに一番に読んでほしくて。」
差し出された紙束はよれも折り目も灼けもない、不自然なまでに整った原稿用紙であった。
「これは……?」
「この春からずっとあたためてきた、僕の集大成みたいなものです。ようやく形になりましてね……」
その落ち着いた口調が却って俺の胸の底の方へ冷えた影を沈めていった。
急激に冷たく凪いでいく脳髄が哀しい。
飲み込むでもなくただ文字も言葉もなくした俺は息を吸って吐くことのみで精一杯であった。
飯沼からすれば訳の分からない空白の刻であることは想像に容易い。
「失敬、どうにも冬は雪隠が近いもので。」
飯沼は立ち上がると、俺の右横に微かなヘリオトロオプの風を吹かせた。
卓の上、原稿がかさりと囁く。
淀み切った空気がようやく動いたように感じた。
俺は振り向く。
奴の姿は見えない。
ただ暖簾の端が僅かに揺れているのみだ。
紙束に視線を落とす。
俺は首を横へ振った。
──見るな!
俺の中で何者かが叫ぶ。
しかし、これがいけなかった。
禁じられれば禁じられるほどに背徳の誘惑にあがなえなくなる。
肘をつき右手で右眼を隠してみたり、顔を覆って指の隙間から覗いたり。
マスの中に幽閉された黝い文字がぎろぎろとこちらを見つめてくる。
時が経つにつれ、その紫のヴァニラの如き香の薄残りが俺を狂わせ始めた。
怖いもの見たさが指をつたい、卓を汚す。
俺はまず、表紙を繰った。
──栴檀の黒衣よ……
呼ばれた気がした。
可視化不能の鎖に首輪を引かれるような、久方ぶりの感覚に昂っている。
一頁、また一頁と繰っていく。
ひとつめくる時にはもう、みっつもよっつも先が気になって──それでいて一文字たりとも逃してやりたくなくて……
背後でヘリオトロオプの紫が揺れた。
冷えた濡れ指が俺の心臓を掴んでいる。
布が軋り、糸の繊維のひとつひとつが僅かずつ破綻してゆく音がする。
毛状に巡り拡がるという血管がちぎれ、身体の真ん中に疼く空洞が生まれていた。
声が出ない。
身体も動かない。
眠りを伴わない金縛りといった具合である。
気づけばその指先は二つ目……上から二つ目の釦の輪郭を撫でている。
「飯沼……飯沼……さん?」
「静かに……」
耳元で熱のない吐息が俺を咎めた。
「あ……あの……干柿に白餡詰めたの……おふたりでどうです?」
その声を合図に俺は卓に額を打ちつけた。
茶屋の娘はもともと大きな眼をさらに大きくして俺を見つめている。
俺はへらへらと力の抜けた笑いを口だけでやってみせる。
すぐに視線は中空を漂った。
程なくして艶消しの白柿が二つ、卓に並べられた。
皿には黒文字が添えられている。
「これはまた随分と手のこんだ……はつねさん、君が?」
彼女は盆を抱きしめたままうなずき、立ち尽くしていた。
その唇はまだ、紅の下で青褪め震えている。
「さあ、朔さん。いただきませんか? せっかくはつねさんが作ってくださったのですから……」
飯沼はようやく席についた。
「でも、その前に。」
少しの躊躇いもなく、布が爆ぜる音を聴いた。
「こちらを。」
差し出された手の中には桜紋様の金釦が新品同様に煌めいている。
「……これで、おあいこでしょう?」
俺は頑なに手を出さなかった。
結局飯沼は胸の衣嚢にその忌々しき花を捩じ込んでしまった。
そしてふわりと胸ぐらを掴むと俺の意識を手繰り寄せる。
「……それは僕です。」
身体中の血液が霧消していった。
あの瞬間俺は生きたまま「死」を与えられた。
自覚し得る「死」だ。
ぼんやりと空の硝子の器が視界に飛び込んできた。
……それは黒く、べったりと汚れている。
「いただきます……」
俺は黒文字で柿菓子の底面を押し切る。
朱色の疵口は艶かしく輝いた。
「さすが、品格が違いますね。君は。」
飯沼は徐に柿を摘み上げるとその脇あたりにかじりついた。
俺の肋が軋んだ。
目の前の男が果実を喰む度、意識が遠退くほどの拍動性の傷を感じた。
奴の犬歯が肉を捕える度、好みが骨ごと砕かれていく感覚に襲われる。
俺の呻めきを彼は哀れむように眺めていた。
「死」に「生」が宿る。
妙だ。
俺はどうしてだか飯沼の唇の動きに眼を見張ったまま黒文字の尖をなぶっている。
「今度はぜひ、僕の部屋へ遊びに来てください。」
胸の桜が欠けている。
「面白いものがあるんですよ。」
俺と同じ、上から三番目が欠けている。
「きっと、君もお好きかと。」
女学生の甲高い声が暖簾の向こうで聴こえる。
どういうわけか左の指が全部、飯沼のそれと絡まってしまっている。
見なければわからない。
俺は全部、なかったことにした。
瞳を閉ざして。




