鳩の乱心
「ノックくらいしろ。」
男は右眼だけで俺を見た。
そして再び眼を手元の本に落とし、またこちらへ向いた時には両眼で俺をとらえている。
しかし顔の造形のせいか、ひどく無関心のように見えた。
「鳴海先生? 僕、土曜日ここへ来たんですよ。」
俺は彼の机の縁に頬杖をつく。
「で?」
「でも先生、いらっしゃなくて。僕……」
不意に口の中で何かが砕け、するすると溶けていった。
あとには牛酪と砂糖のため息が鼻から脳へと抜け出でた。
俺は口から飛び出しているものを摘み、その姿を見る。
「鶩……?」
「鳩。」
机の縁は、鳩の尾羽の残骸で散らかっていた。
「可愛くって、食っちまうのが忍びないよ……」
焼菓子の鳩の目を見たら、俺はたまらなくなったのだ。
「お前、それ初めてか……?」
男は少し意外そうな顔をした後、徐に立ち上がると寝台の方へと歩いて行った。
そして身をかがめ乳白色のブリキ缶を引っ張り出すと、さも大事そうに運んできて机に置いた。
「学会土産だ。気の済むまで食えばいい……」
彼が蓋を開けると、部屋は途端に溶け落ちたのかと錯覚するほどの甘い匂いに包まれた。
湯が陶器を打つ音がする。
「でも先生? どうして連れていってくださらなかったんですか……?」
「どうしてって……」
俺はどうしたわけだかこの男を困らせたくて仕方がなかった。
鳩の目を見つめた時のあの身を捩りたくなる感覚を彼の背に覚えたのである。
「せめて、学会に行くのなら言っておいてくれたっていいじゃないですか! なぜ見ず知らずの学生から先生のご予定を教えられなければならないのです? あの時の僕の気持ち、先生はお分かりになりますか?」
湯が湯の中で輪郭を失う音がやたらに長く尾を引いた。
「先生?」
俺は目尻がひりつくのを感じた。
それと重なるようにして、片方の口の端だけが擡げてくる。
歪んだ口で鳩の頭を砕き、蕩し、飲み込んだ。
飲み込む前からひっ捕えていた鳩の胸にかじりついたその瞬間のことだった。
目の前に金縁の紅茶茶碗が二つ置かれた。
並々と紅色の茶が注がれている。
男は角砂糖をひとつ、茶に投じた。
「お部屋からは枯れ紫陽花でも見えましたか? 僕を放ったらかしにして見る景色はさぞ立派だったでしょうね。」
俺は下手な訳詩文の如き台詞を吐き捨て、缶から鳩を連れ出した。
ここで彼はもうひとつ、角砂糖を沈める。
またひとつ、さらにひとつ──こんなことを繰り返すうちに奴の茶匙が砂利を掬い始めた。
俺は気道から肺の葡萄まで全部灼かれたような嫌な感覚に襲われた。
いたたまれなくなって目を逸らす。
逸らした先には相変わらず敷布と布団が逆転した意味不明の寝台がいつにも増して、折目正しく、意味を為さないことに大真面目だった。
その上に、不自然に几帳面に畳まれた黒い布が見える。
その上には洋綴じの本、そして学生帽子……
罠かと思われるほどに整えられた狩場に──なんの疑いもなく、という程俺は馬鹿ではない。
見縊ってもらっては困る。
ただ俺は十二の頃に嫌々叫ばされた、遊侠ノ精神がどうしたとかいう歌──朝が来るたび痛む顎のまま……おかしな味を舌に乗っけたまま吐瀉でもぶちまけるみたいに歌い叫んだあれを今更ながら大義名分にして、寝台の前に立った。
俺は獲物を見せびらかすが如く鳩を咥え、そのまま外套を羽織り、学生帽子を目深にかぶる。
栴檀の鈍金の輝きは見るまでもなく目に浮かぶ。
洋書を片手に、俺は奴の意味不明の寝台にうつぶしてぱらぱらと灼け紙を繰る。
「なあ?」
「何ですか? 先生。」
「お前……『可愛くって忍びない』なんて言っておいて一体何羽食ったんだ?」
俺は溶けた脂でぎらりと悪い光り方をする指を折って数えた。
寝台から飛び降りて、外套を翻した。
──さながら翼を取り戻した蝙蝠の如し!
「知らねェや!」
俺は奴の顔の真ん前で言ってやった。
しかしその後すぐに萎れてみる。
「気の済むまで……こんなに可愛くっちゃ済むものも済まないじゃないですか?」
彼は何も言わなかった。
ただ押し黙って俺の口の端を親指でひと撫ですると、小卓に鍵束を放った。
「出る時、閉めろ。絶対にな。」
分厚い本の束を抱え、扉の裏へと消えた。
一人にされて、心許なくなった。
空のブリキ、床に小卓に寝台に撒き散らした鳩の面影……
長椅子に腰を下ろし、金縁に唇を当てる。
もうすっかり熱を失った紅色が、舌を転げ、喉を冷やした。
不思議と心地が良かった。
紅茶茶碗には紅く細い輪が二本残されている。
窓が空いている。
始業を告げる鐘が聴こえた。
鍵束に触れる。
残り香が消えるまで、俺は目を閉じることにした。




