法曹執事と悪魔の文士
濡れ綿衣のしゃきりとした音。
蒼褪めし虚脱の空を紺絣が泳ぐ。
金盥の仄青き水を渇いた土に飲ませてやった。
その上にはあの立ち枯れたタチアオイが微かに揺れている。
「朔ちゃん? あんたもう具合いいのかい?」
「ああ……もうなんとも……」
声が半分ほど押し戻されるような感覚があった。
「それにしたって、そんな格好してるとまた熱出すよ!」
イヨさんはちらちらと俺に目をやりながら葱の青いところを切っている。
俺は彼女の視線の当たる度、その位置に触れてみた。
ちょうど肋の辺りだ。
隅に立てかけた洗濯板を横目に見る。
「朔ちゃん! 何がおかしいんだい?」
「イヨさん! 俺、洗濯屋でも始めようかと思うよ。」
「また随分と急だね……」
「どこでやるんだい?」
「ここでさ! だからイヨさん?」
釜がぼこぼこと音を立て、泡を噴き始めた。
「馬鹿言ってんじゃないよ。」
「馬鹿なもんか。」
彼女はまだ、葱の青いところを刻み続けていた。
俺は浅い呼吸を繰り返す晩をふたつ、乗り越えたように思う。
つまり今朝は火曜日だ。
「お、文士様! ご恢復かい?」
法曹崩れの右襟で「J」が煌めいた。
「おかげさまで。」
奴は縁側に腰を下ろそうとして、尻をゴム鞠みたいに跳ね上げると、
「さあさ、文士様……裸はいけません。」と袖の黒ずんだ、それでいて清廉な匂いのする、しかし埃っぽい混沌の白シャツを俺の肩に掛けた。
「なんのつもりだい?」
「ヒツジにございます。」
まだ釦もしめきらぬというのに奴は詰襟をも肩へと垂らした。
「わざとかい?」
「さあ?」
俺は釦をかける指を止め男を見上げた。
男はしばしの沈黙の後、ふっと笑いをこぼす。
「何とも世話の焼ける文士様だ!」
法曹崩れの指先が胸元に二、三度触れる。
気付けば五つの栴檀が喉元から縦一列に、見事に並んでいた。
「坊っちゃま、お似合いでございますよ。」
俺はどうにも可笑しくて、それでいて誇らしくて「そうだろう。」と胸を張った。
ここに学生帽子もあればもっとよかったのに、俺はそう思いつつ飯をかきこんだ。
二日ぶりの玄米は、精養軒のいや、どんな店の豪勢な料理よりも美味かった。
あくまでも、想像の話だが。
最高級の玄米を食った俺は両手を空にして「行って参ります。」と上品ぶった。
法曹崩れと俺は揃って広い通りを目指す。
俺は学校、奴は停留所だ。
「では、私はここで。」
法曹崩れは俺に鞄を渡すと颯爽と去っていった。
その背に俺は手を振った。
奴は振り向きもせず人混みへ紛れた。
俺は奴を見送ると、初めて見る門番の男に「学長が来た……」とほとんど息で耳打ちした。
この男は慌てるでもなくただ頬を赤らめ、こちらを向いたままになっていた。
構わず俺は研究棟へと歩を進める。
どうにも背後が騒がしくて振り向くと、あの門番の周りに黒集りができていた。
何でも奴の蹴飛ばした小石が何とかって学生にぶつかったとかぶつからないとかそんなようなことらしい。
黒衣どもの隙間から絶えず俺を見据える門番の眼に俺は一抹の恐怖を覚えた。
しかしそれはいとも簡単に快樂へと変わり、妙に支配的な気持ちになった。
──外套を持たぬ俺はさながら翼を失くした蝙蝠である。
そんな風に哀れぶることすら俺の口角を意地悪く片側のみ擡げさせるのに十分だった。
俺はどうにも悪魔のようになって研究棟の階段を気取り気味に昇り始めたのだった。




