眠れ文士、月のなき間に
「イヨさん? 嘘つくんでねェよ! 松沢の婆さん、元気だったじゃねェか!」
「あら、そうかい? そりゃ結構なことじゃないか!」
「何が具合が優れねェだ……は……は……」
──ぶえっくし!
「やめとくれよ、朔ちゃん! 変なもんひっかけるんでないよ!」
……あの爺さんめ……
「さあさ、文士様。そんな格好じゃお身体に響きますから……」
「ああ?」
肩から背にずしりと温みが垂れてきた。
声の方へと顔を向けると、法曹崩れが褞袍越しに俺の肩を抱いている。
「……爺さんがどうしたって?」
「え?」
見上げた俺の額を手のひらで包むと、
「またこりゃずいぶんとありそうだね。」
と言って、男は畳の上の座布団を二枚、器用に足先で縁側へと蹴り出した。
俺は褞袍をかぶって膝を抱えてうずくまり、立ち枯れたままにしてあるタチアオイを眺めた。
右では法曹崩れが裸の足を沓脱石にべったり貼り付けている。
「なあ。」
「ん?」
「おめェ、電車って乗るかい?」
「なんだい、藪から棒に。」
「いや、何ってこともねェんだが……昨日とんでもねェ爺さんがな……爆発して……」
柿の木の下、米粒みたいなものをつついていた椋鳥がびゃっと飛び立った。
「文士様よォ……そりゃあ……また……」
「でな、腹からワタ飛び出した犬持った子どもが泣いて泣いて……」
「化けもんみてェな犬だな、そりゃあ……」
「馬鹿言え、何が化けもんだ。タツマルってんだよ。紺色の犬でな……」
そこまで言って、口の中がまっさらになった。
吐ききった息の末尾の色が寝乱れた紺絣の胸元に落ちる。
──どうにも昨日から紺に取り憑かれている。
車掌の制服、駅員の厚手の外套、幼子に抱かれた犬っころ、挙げ句俺の紺絣……
「なんだい? そんなに見るんでないよ。照れるじゃねェか。」
法曹崩れの膝の上、分厚い本がぱたりと閉じられた。
その表紙の色までもが……
「そうだ、おめェ……キャラメル食うかい?」
法曹崩れは眉を上げ、曲がり眼鏡をぐっと押し込んだ。
「確かまだ部屋に……」
腰を上げたところまでは覚えている。
自分が滅茶苦茶に彼を捲し立てていたことも。
次点、俺は縁側にひっくり返っていた。
胸には紺の褞袍が乗っていて、頭は背よりわずかに高くなっている。
治りかけの青痣の如き空に薄灰の雲がちぎれている。
「今朝はどうにも降りそうじゃないか……」
「ん……?」
「雪……」
「ああ……」
雪虫がちらちらと舞い飛んでいる。
千両の紅い実が音もなく揺れた。
「んだよ、久米君。君、寒いんでないかい? そんなに震えて。」
俺は褞袍を持ち上げた。
すると法曹崩れは何も言わずに俺の顔ごとその温まった布で埋めてしまった。
「いやだね、朔ちゃん! もう昼過ぎだよ!」
イヨさんと法曹崩れの笑いが俺の上を舞っている。
恥ずかしいやら悔しいやらで、しばらく褞袍の下でぶるぶると震えていた。
頃合いを見て、そろそろと布を除け、睫毛を擡げた。
透かしの雲が早々と流れている。
「ほれ。」
不意に何かが唇へ触れた。
冷たかった。
一枚布を隔てたような、変な冷たさであった。
いやに熱っぽく、腫れぼったく感じられる唇からそれはゆるゆると熱を奪い去っていく。
「んだよ、さっさと食え?」
唇を押し除け侵入してきたそれに歯を立てると、ぷつりと弾け涼やかな匂いに舌が溺れた。
その媚びを知らぬ無垢な甘さは俺を苛立たせた。
「蜜柑だな?」
「蜜柑だよ。」
それから俺はもう、お池の鯉が如く口を開け、その度そこへ投じられる房から瑞々しさを奪い去っては呑み込むことを繰り返していた。
気づけば沓脱石の周りには、夕焼色の衣が散らばっていた。
どこぞの宿の畳の上が如く──
だんだんと睫毛の先が重怠くなってきた。
景色の輪郭の崩れが瞬きを重ねるごとにひどくなっていく。
「朔ちゃん? 寝んなら部屋行きな! いつまでもこんなとこに転がってられたんじゃたまんないよ。」
イヨさんは埃を掃き出しつつ、箒の先で俺を小突く。
「さあ、文士殿。おやすみの時間ですよ……」
法曹崩れは恭しく俺を座らせた。
そして、いとも容易く俺を背負うとそのまま階段を昇り始めた。
「なあ、久米君……」
襖が引かれた。
冷え切った部屋の中、いつもの通り万年床のせんべい布団が敷かれている。
朝、俺が抜け出た時のままの形で。
「ほれ、もう寝い。」
再び襖は引かれた。
俺は俺の抜け殻の傍ら、毳立つ畳で頬を冷やす。
湿ったような温もりの中にこの身の全てを納めんと、もぞもぞと身体を折り曲げた。
そうしていると、生きた心地だけを残して後は全部なんだっていいことのように感ぜられた。
俺は幾分か、いいや、十分過ぎる程に自由になっていく輪郭と戯れた。
今俺の目は、閉じている?
それとも開いている?
決して返らぬ問いかけを延々と繰り返しながら深みへと落ちていく、日曜日。
夜でもないのに眠る、日曜日。




