紺絣の犬
蜜柑でも持って来ればよかった、などと呑気なことを思った頃にはもう頭上の曇硝子は割れ、空は青く乾涸びていた。
「下高井戸まで……」
「そしたら、次で乗り換えだよ。」
白い切符の端っこを、駅員がぱちんと切り落とす。
緑の路面電車が地を這っている。
俺はこれに乗り込んだ。
見慣れた街を横切っていく。
あの巡査を追い越していく。
彼の外套を羨むあまり、沈みきった心も幾分かに晴れてきた。
また駅員にぱちんとやってもらって、言われた通りに乗り換えた。
土曜は勤め人も少ないのか乗客はまばらであったが、座席はほとんど埋まっていた。
俺は緑色の長椅子へ腰掛けている。
車窓の景色は左へと吹き飛んでいった。
隣の席では幼子が母親らしき女の膝に頭を乗せ眠っている。
時折強く差す陽を嫌がって、その寝顔をしかめる。
彼の膝には犬を模したぬいぐるみが乗っていて、車輪の引っかかるたびに転げ落ちそうになるものだから、俺はひどく気を揉んだ。
窓から入る風が髪をさらう。
延々と続く枯れ畑に見飽きた俺は硬券の文字を睨みつけたり、鋏痕に指の皮を引っかけたり……
そんなことをしている間に、走り出した列車ごと身体も意識も駅から遠ざかっていくのであった。
うつらうつらしていた。
夢を見ていた気さえする。
俺は詰襟の上に外套を羽織っていて、その内にひどく冷えた何かを──右手の慄えを、隠していたように思う。
──ぶえあっく!
俺は座席からずり落ちかけて目を開けた。
子どもの泣き声が眼前に迫る。
通路を挟んだ向かいの爺さんが鼻をずるずるすすりながら、上衣の衣嚢をまさぐっていた。
「すまねェ……すまねェな、坊っちゃん。びっくりしたな、悪かった。じっちゃんが悪かったよ……」
木造りの床には紺絣の犬が転げていた。
腹のあたりの綻びから薄茶けた綿がのぞいている。
その犬を指差して、幼子が水中をもがくが如く手足をばたつかせている。
「あんた、おっかさんかい? ごめんなァ……すまねェよ……」
爺さんは幼子をなだめんと、おかしな顔をするやら謝るやら慌ただしくしていた。
しかしこれが却って火に油を注いでしまった。
子の方もこの男に負けじと顔をしわくちゃにして、泣き喚く。
俺は紺色の犬を拾い上げた。
どうにもその手触りは他人事とは思えなかった。
埃をはらい、犬を子の手に握らせた。
しかし、幼子の虫は拠り所を無くしたままである。
一見大人しく椅子に収まってはいるが、その実うつむいたまま脚をばたつかせ、むずかっている。
ふと、犬の腹から飛び出した綿の色を見て俺は鞄の中の一粒の光を思い出した。
「ほら。貰いもんで悪ィけど……」
俺は子どもの手のひらに薄紙に包まれたキャラメルを載せた。
女は目を真っ赤に腫らした幼子と俺の顔とを見比べて、深々と頭を下げる。
彼は器用に包み紙を開けると大事そうにつまみ上げた。
「キャラメル……」
向かいの爺さんは「よかった、よかったなァ……坊っちゃん……」と咽び泣いている。
俺は爺さんの肩の震え越しの景色に、
──緑で切り取られたひとつの街のようなものに目を奪われた。
真ん中には薄灰の壁に三角の赤煉瓦を載せた洋館が建っていて、その奥には山も見える。
しかしその山の背後には今時分に似つかわしくない青々とした線が引かれ、色の薄い商業の街並みが広がっている。
あれはなんだろうか。
「兄ちゃん、あれ! なんだかわかるかい?」
「さあ……知ってんのかい?」
「うん、そりゃあ……」
幼子はからころと口の中でキャラメルを転がした後、無邪気に笑うと「病院!」と叫んだ。
「しっ!」女は困ったよう人差し指を立てる。
「お父ちゃんがいるんだ!」
女は輪郭から眉毛がいなくなりそうなほどに眉尻を下げ「ごめんなさい……」と消えいるように唱えた。
俺は首を横に振りつつももう意識はこの子どもの声に捕らえられていた。
「でっけェお池があってな、僕、夏にそこ入って泳いだんだ。」
「へえ、そりゃあまた粋なもんだね。」
「こないだなんて、お父ちゃんとお芋掘りしたんだ!」
「たくさん獲れたかい?」
「もちろんだ! 僕のお父ちゃんは、なんだってうまくやるんだ。」
彼は誇らしげだった。
その瞳の眩さは、直視するのも憚られるほど。
「にわとりだっているんだ……」
「へえ、真っ赤な鶏冠の?」
「……白と……茶……と……」
あどけない声は薄らいでいった。
彼は犬を抱えたまま、俺の方へ身体を凭れかけた。
女は咄嗟に幼子の身を起こしたが、その小さな白い指は俺の紺絣の袖をひしと掴んでいる。
「ごめんなさい……」
「ああ、えっと……俺も、終着駅に用がありますもんで……」
母親はようやく身体の強張りを緩める。
幼子の頭は俺の膝におさまった。
彼が寝息を立てる度、甘いキャラメルの香りが漂ってくる。
列車はキイキイと金属の呻めきのような音と共に速度を落とし始めた。
──次は下高井戸ー! 終点、下高井戸ー!
車掌が声を張り上げた。
その声の遠いこと。
肩に触れられ俺も目を開ける。
「あの……着きました。」
「あ……ああ……」
幼子はほとんどまだ夢の中、俺も半分夢の中のような心地で停車前の歪んだ重力に身を委ねていた。
程なくして停車した。
あの幼子が危なっかしく跳ねている。
駅に降り立った途端、風が頬を横殴りにするかの如く吹き去った。
俺は震えを隠しつつ、駅員に切符を渡す。
「兄ちゃん!」
声の方を向くと、あの幼子が紺絣の犬の腕を柔らに振っている、
「またな! 犬っころ!」
「犬っころでねえ! タツマルだ!」
そうかい。
元気でな、タツマル。
俺は振り向けなかった。
何かそう、振り向いてはいけないと思った。
俺はそのまま商店街を突っ切って、松沢の婆さんの家を目指した。
よくみれば街灯はすでに灯っていた。
夕のまだ浅い頃の月灯なんか、街の光に追い返されてしまうのではなかろうか。
たかだか村ひとつ飛び越えただけで、ここまで変わるとは。
頭の中では鳴るはずもない様な鐘が疼くように鳴っている。
がらがらと引き戸の引かれる音がくぐもって聴こえた。
俺はいやに安心した。
「おや、いらっしゃい! あらァ、まァ……」
「お久しぶり……です。」
敷居をまたぐ。
「どこの男前かと思ったら……あんた朔ちゃんだね! いやァ……」
「あの、これ。イヨさんから。」
忘れぬうちにと風呂敷包みを渡した。
「いつもすまないねェ。」
婆さんは受け取るやいやな包みを解き始めている。
「そういや、身体の具合はどうですか?」
「へ?」
彼女は首を傾げた。
それから突然少女の声でケタケタと笑い出す。
「もう随分よくってよ。」
「……そうかい。」
「あなたに会えたから……」
「え?」
その声は確かに耳元で囁かれたはずだった。
しかし、婆さんは土間で何やら皿に盛っている。
俺は自ら耳朶に触れた。
わからない。
ただ吐く息が震え、唇を熱くしている。
これだけはわかる。
婆さんと俺は一体どれほどの間、何を話したのか。
今はわからない。
ただ俺たちの間には、酸っぱい白菜の漬物があるのみでそれを突きあったように思う。
「さあさ、これは朔ちゃんにあげようね。みんなには黙っときな。」
そう言って松沢の婆さんは俺の手に山吹色の小箱を握らせた。
「キャラメル……?」
「好きかい?」
「うん。ありがとな。」
俺は膝に感じた幼子の体温を思い出していた。
わずかに残された田園の道、見上げた空の街灯の火が黝い空に崩れていった。
車窓の景色は右へと流れていく。
時を遡るように、街並みは見慣れたものに戻っていく。
安堵の息を吐くと、俺はもう潰れた布団の中で眠っていた。




