文士様のおつかい
「おや、文士様。朝から睨めっこかい?」
「しっ! 黙んねえか!」
樽の中はまるで泡雪に降られたかの如く白んでいた。
否、昨日より泡沫が増えただけだった。
「冬のくせして今年はわりに暖けェもんな。」
そんなことを思っているのはあんただけだろう。
俺は自分の紫色になった爪を見てため息をついた。
不意に背が温まった。
「ん?」
「貸してやる、その代わり……」
瞬間、頭は凹み、首はひしゃげた。
「懲りない子だね! 次やったら……」
俺の目には、細腕の華奢指が掴む凶悪な石が映っている。
隣では、ひょろりと背ばかりが高い男がひん曲がった眼鏡のまま震えていた。
俺は最前彼がこの肩にかけた温情を、そっくりそのままかけ返す。
男は褞袍で膨れた後ろ姿を右へ左へ揺らしながら階段を登り、襖の裏へと消えていった。
温みを借りそびれた俺は、おずおずと木蓋を落とすとイヨさんはその上にわざとらしくどすっと鈍い音を立て重石を投じた。
言葉なくとも、その瞳の饒舌たるや……
俺は腰あたりからぞくぞくと蟲の脚の駆け登るのを感じ、仰け反らんとする我が身を罰することに必死であった。
盥の水に大根を沈め、ごろごろと転がす。
たちまち指は水風船が如くはち切れんばかりに腫れぼったくなった。
「そうだ、朔ちゃん。あんた今日下高井戸まで行ってもらえるかい?」
イヨさんは鶴翔ぶ小ぶりの風呂敷を器用に結んでいる。
「松沢の婆さんとこ。朔ちゃんも会ったことあるだろ?」
知ってはいる。
あの黒豆と男に目がない婆さんだ。
俺は水風船の手を揉み合わせた。
「自分で行ってきたらどうだい? 外出たら気晴らしにもなるだろうよ。帰りにトーキーでもパーラーでも……」
「……婆さん、ちょっと体調がね、優れないみたいでねェ……」
イヨさんは俺の隣にはりついて跼むと、肩を人差し指でつついて「ねえ……?」と意味ありげな流し目をする。
「んだよ……」
「とにかく朔ちゃん! あんたが行くんだよ! あんたが行きゃァもう病なんか吹き飛んじまうよ! それどころか四十は若返っちまうんじゃないかい?」
ビョウと乾いた風が土間を吹き抜けた。
こんなことならば昨日のうちに外套を──
研究室の長椅子の背もたれに引っ掛けた外套を──
俺は頭を掻きむしった。
「温けェ……」
……否!
頭で暖をとっている場合ではない。
鮮明になりつつある記憶が大根のひげの浮く金盥の銀の水に浮かび上がる。
寝台、それも敷布と布団が逆転した意味不明の寝台の横の学生帽子……
あの男の手に載せられた発禁本……
飛び出してきた手前、奴に合わせる顔がない。
しかし今から下高井戸まで行き、婆さんと……?
いや、俺は一体何を考えているのだろうか。
とにかく早くとも帰宅する頃には陽が沈む。
外套なくば、俺の身は一体どうなってしまうのだ。
あの男が窓から外套も学生帽子も発禁本も、とにかく俺にまつわる一切合切をぶちまけてくれてさえいれば、と願った。
しかしねちっこく丁寧にたたみ、下から順に外套、発禁本、学生帽子と理路整然と積み重なっているさましか想像がつかぬ。
こんなことになるくらいならば、せめて発禁本くらいは大人しく大ちゃんに貸してやればよかった。
俺は半ば押し付けられる形で渡された風呂敷包をぶらぶらさせている。
出てこないでくれ……
いや、開けてくれ……
でも……
相反する心を打ち鳴らしながら、俺は扉の前を右往左往していた。
八角形の硝子天井からは鈍色の光が崩れ落ちている。
どの面を下げてどんな言葉をあつらえれば……
──額に衝撃が走った。
何か布の匂いを感じた。
一瞬、脳が揺れた感覚があり今俺はどうやら背に向けて倒れかけているらしい。
「ああ! ごめんなさい!」
目線を上げると見慣れた帽子の初めて見る顔と目が遭った。
──助かった。
俺は学生に抱き留められたのだった。
「ありが……」
次点、学生の指が静電気でも喰らったかの如く俺の肩を弾いた。
気づけば俺は無様に尻もちをついている。
差し出された指先に触れた。
見上げる俺の瞳を彼は嫌がって、差し出したのと反対側の指で学生帽子を目深に下ろす。
「失敬……」
どこかうわずったような、今にも泣き出しそうな声だった。
「鳴海先生なら今日は学会でご不在のはずです。」
「そうですか。ご親切にどうも……」
「い……いいえ。」
「それじゃあ、俺はこれで。」
つま先はもう、もと来た階段を目指している。
「あ、あの……これ。」
学生は俺の手を取ると、山吹色の小箱をからからと振った。
薄紙に包まれた、小さな二粒のキャラメル。
甘い匂いに包まれる。
どうやら箱は空になってしまったらしい。
「君の分は……?」
彼は外套を翻し、去っていった。
立ち襟に紺絣に袴を引きずり俺も後に続いた。
ただ、彼を追い回すつもりはなかった。
子どもみたいにキャラメルを握りしめ、林檎の皮でも剥くみたいにして階段を駆け降りた。
俺は研究棟を見上げた。
鈍の雲の間からその青を瞳に注ぎ込んでくる。
図書館へと吸われていく黒衣どもの背にたなびく外套が羨ましかった。
キャラメルの薄紙を剥がす。
ひとつ舌に乗せた。
煙のように、甘い匂いは中空へと溶け消えた。
もう一粒を鞄に滑り込ませ、駅へと急ぐ。
立ち枯れたタチアオイと幼子が戯れあっている。
列車の音が薄く耳に届いていた。




