表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/71

爆ぜるということ

俺は冷や水を一気に飲み干すと、畳へぱったり倒れ込んだ。

土間にはひっくり返った籠から飛び出した白菜がごろごろ転がっている。


「なあ、イヨさん? それ、どうすんだい?」

俺は空の湯呑みの底を額に押し付けた。

「漬けるんだよ!」


彼女は忙しなくその細腕を動かしている。

やや緑の濃い外葉(そとば)が剥がされるたび、梅雨時の丸まった濡れ雑巾みたいな匂いが飛んできた。

俺にとってそれは嫌な匂いでも、()い匂いでもなく、ただ「そういうもの」として鼻の付け根あたりに溜まっていった。


「いつまで伸びてんだい?」

イヨさんは俺の顔の上で赤い実のついた枝を揺らした。

小気味よく、しゃらしゃらと鳴っている。

いつも土間の隅にぶら下げてあった唐辛子だ。

ゆるゆると身を起こし受け取った俺の前に、イヨさんは古新聞を広げた。

瞬間眼前でぱちんっと音が弾ける。

はっと浅く息を飲んだ俺は笑っていた。

「これ、外して頭(むし)っといとくれ。」

「ん。」

俺は新聞に載っけた唐辛子を長卓子まで運ぶと、襷の端を噛んだ。


時折実が()ぜ、種子(たね)がぱらぱら散らばった。

だんだんと指先が熱を持ち始め、人差し指のささくれがじんと疼く。

済むとまたとんでもない眠気がやって来た。


その間もイヨさんは忙しなく手を動かしていた。

俺は横目に、樽の中へと落ちていく緑と白の塊を見たように思う。


誰もいない長卓子の向こうで、干柿がゆうらりゆうらり揺れるのをぼんやり眺めていた。

五つほど、と(ヒヨ)に残してやった釣鐘は、まだ瑞々しく冬の空で威張っている。

とうの鵯は素知らぬ顔で誰かの腐らした蜜柑の皮を突いている。

「朔ちゃん? あんた、どこぞの文豪先生の肖像の真似なんかしてないでこっち来な!」

不意を突かれ、俺は顎を打った。


俺はよたよたと土間へと下る。

顎をさする俺に、イヨさんはすり寄ってきた。

「朔ちゃん……?」

イヨさんは、背ごと頭を(もた)れかけ、首を(もた)げて上眼(うわめ)に俺を見つめる。

わざとらしい舌足らずの囁きは、嗄れかすれて却って甘ったるかった。

「んだよ、近ェって!」

俺は(うぶ)な少年になってしまって、彼女を弾き飛ばして背を壁に貼り付けた。

「今夜は寝かさないよ……」

「はあ?」

「言っただろう? さっき……」

「さっき……?」

「あの八百屋のすけべ親父にあんたを貸してやらない理由だよ!」

淡い緑と白の塊は浅い放物線(パラボラ)を描いて俺の顔目掛けて飛んでくる。

「っぶね!」

気づけば俺は赤ん坊でもあやすみたいに大ぶりの白菜を抱いていた。

「食いもん投げたらいけねェよ?」


木樽の木蓋の上の重石(おもし)退()けた。


「これ! 朔ちゃん! あんまし石どかしてると食えるもんも食えなくなるよ!」

「んだよ……別に見てるだけだろ?」

「見てるだけで済まない目ェしてんだよ、あんたって子はね。」

イヨさんは蓋と重石を戻すと、目を閉じた。

「漬物ってのはね、待つんだ。静かに、待つんだ……」


夕餉が済んで、壁も畳も学生どもの声を忘れてしまった刻のこと。


俺は雑誌一冊と文庫二冊、それから万年筆と原稿用紙を毛布で(くる)んで抱えた。

左の中指に卓上洋燈(ランプ)をつっかける。

どの部屋も建て付けの悪い襖から夜の気配を吐き出している。

寝息だのいびきだの、密やかな囁きだの──

俺はその夜の上澄みを掬いあげるように階段を(くだ)る。

一段、一段、(あしうら)(きし)りを探りながら。

ゆっくり、ゆっくりと。


土間に着いた俺は毛布を解き、包んでいた一切合切を広げた。

今夜はどうにも月が儚い。

「ちょっと借りるよ。」

男の笑顔に声をかけ、燐寸(マッチ)をせしめる。

殻を焼いたような匂いが立ち昇り、洋燈ランプへと火が移った。


ゆらりと影が揺れる。


「おや、朔ちゃん。早かったんだね……」

「ああ……」

イヨさんは欠け茶碗とウヰスキーの(びん)を並べる。


「あれ、イヨさんって酒飲んむだったっけか?」

「いやだよ、朔ちゃん。あんた、私が女学生にでも見えるのかい?」

酒灼けの少女声だ。

部屋は薄暗い。

「見ようによっては……だな。」

俺は襷を解いて袖で洋燈を隠した。

「なーんも見えねェや。なあ、女学生さん。」

「まア。どうです? そちらも一杯飲みませんこと?」

「酔わせてどうするつもりだい?」

俺は袖をどける。

照らされた互いの顔を見て、ひとしきり笑い合った。


俺は土間へ降り、樽を覗き込む。


「なあ。イヨさん、聞いてもいいかい?」

「なんだい?」

「その……写真、仏壇の。いっつもじいさんって呼んでる。そのわりにじいさんってほどじゃ……」

「旦那。なかなかにいい男だろ?」

「ああ……」


泡沫(あぶく)が樽の縁撫でぷつぷつと弾ける。

その度に白菜が沈んでいくように見えた。

あんまりやっているとまた彼女にどやされる。

俺は元のように木蓋を浮かべ、その上に重石を載せた。


振り向くとイヨさんは長卓子に突っ伏してゆったりと呼吸を繰り返していた。

その細い肩に毛布を載せ、ウヰスキーの蓋をしめる。

そして俺は、洋燈の火を吹き消した。

灯油(オイル)の煤けた甘い匂いが鼻につく。


俺はよもすがら何をするわけでもなく頼りない月の下、樽の内と外との呼吸に耳を澄ませていた。


その間、自分の呼吸のことはすっかり忘れていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ