爆ぜるということ
俺は冷や水を一気に飲み干すと、畳へぱったり倒れ込んだ。
土間にはひっくり返った籠から飛び出した白菜がごろごろ転がっている。
「なあ、イヨさん? それ、どうすんだい?」
俺は空の湯呑みの底を額に押し付けた。
「漬けるんだよ!」
彼女は忙しなくその細腕を動かしている。
やや緑の濃い外葉が剥がされるたび、梅雨時の丸まった濡れ雑巾みたいな匂いが飛んできた。
俺にとってそれは嫌な匂いでも、好い匂いでもなく、ただ「そういうもの」として鼻の付け根あたりに溜まっていった。
「いつまで伸びてんだい?」
イヨさんは俺の顔の上で赤い実のついた枝を揺らした。
小気味よく、しゃらしゃらと鳴っている。
いつも土間の隅にぶら下げてあった唐辛子だ。
ゆるゆると身を起こし受け取った俺の前に、イヨさんは古新聞を広げた。
瞬間眼前でぱちんっと音が弾ける。
はっと浅く息を飲んだ俺は笑っていた。
「これ、外して頭毟っといとくれ。」
「ん。」
俺は新聞に載っけた唐辛子を長卓子まで運ぶと、襷の端を噛んだ。
時折実が爆ぜ、種子がぱらぱら散らばった。
だんだんと指先が熱を持ち始め、人差し指のささくれがじんと疼く。
済むとまたとんでもない眠気がやって来た。
その間もイヨさんは忙しなく手を動かしていた。
俺は横目に、樽の中へと落ちていく緑と白の塊を見たように思う。
誰もいない長卓子の向こうで、干柿がゆうらりゆうらり揺れるのをぼんやり眺めていた。
五つほど、と鵯に残してやった釣鐘は、まだ瑞々しく冬の空で威張っている。
とうの鵯は素知らぬ顔で誰かの腐らした蜜柑の皮を突いている。
「朔ちゃん? あんた、どこぞの文豪先生の肖像の真似なんかしてないでこっち来な!」
不意を突かれ、俺は顎を打った。
俺はよたよたと土間へと下る。
顎をさする俺に、イヨさんはすり寄ってきた。
「朔ちゃん……?」
イヨさんは、背ごと頭を凭れかけ、首を擡げて上眼に俺を見つめる。
わざとらしい舌足らずの囁きは、嗄れかすれて却って甘ったるかった。
「んだよ、近ェって!」
俺は生な少年になってしまって、彼女を弾き飛ばして背を壁に貼り付けた。
「今夜は寝かさないよ……」
「はあ?」
「言っただろう? さっき……」
「さっき……?」
「あの八百屋のすけべ親父にあんたを貸してやらない理由だよ!」
淡い緑と白の塊は浅い放物線を描いて俺の顔目掛けて飛んでくる。
「っぶね!」
気づけば俺は赤ん坊でもあやすみたいに大ぶりの白菜を抱いていた。
「食いもん投げたらいけねェよ?」
木樽の木蓋の上の重石を退けた。
「これ! 朔ちゃん! あんまし石どかしてると食えるもんも食えなくなるよ!」
「んだよ……別に見てるだけだろ?」
「見てるだけで済まない目ェしてんだよ、あんたって子はね。」
イヨさんは蓋と重石を戻すと、目を閉じた。
「漬物ってのはね、待つんだ。静かに、待つんだ……」
夕餉が済んで、壁も畳も学生どもの声を忘れてしまった刻のこと。
俺は雑誌一冊と文庫二冊、それから万年筆と原稿用紙を毛布で包んで抱えた。
左の中指に卓上洋燈をつっかける。
どの部屋も建て付けの悪い襖から夜の気配を吐き出している。
寝息だのいびきだの、密やかな囁きだの──
俺はその夜の上澄みを掬いあげるように階段を下る。
一段、一段、蹠で軋りを探りながら。
ゆっくり、ゆっくりと。
土間に着いた俺は毛布を解き、包んでいた一切合切を広げた。
今夜はどうにも月が儚い。
「ちょっと借りるよ。」
男の笑顔に声をかけ、燐寸をせしめる。
殻を焼いたような匂いが立ち昇り、洋燈へと火が移った。
ゆらりと影が揺れる。
「おや、朔ちゃん。早かったんだね……」
「ああ……」
イヨさんは欠け茶碗とウヰスキーの壜を並べる。
「あれ、イヨさんって酒飲んむだったっけか?」
「いやだよ、朔ちゃん。あんた、私が女学生にでも見えるのかい?」
酒灼けの少女声だ。
部屋は薄暗い。
「見ようによっては……だな。」
俺は襷を解いて袖で洋燈を隠した。
「なーんも見えねェや。なあ、女学生さん。」
「まア。どうです? そちらも一杯飲みませんこと?」
「酔わせてどうするつもりだい?」
俺は袖をどける。
照らされた互いの顔を見て、ひとしきり笑い合った。
俺は土間へ降り、樽を覗き込む。
「なあ。イヨさん、聞いてもいいかい?」
「なんだい?」
「その……写真、仏壇の。いっつもじいさんって呼んでる。そのわりにじいさんってほどじゃ……」
「旦那。なかなかにいい男だろ?」
「ああ……」
泡沫が樽の縁撫でぷつぷつと弾ける。
その度に白菜が沈んでいくように見えた。
あんまりやっているとまた彼女にどやされる。
俺は元のように木蓋を浮かべ、その上に重石を載せた。
振り向くとイヨさんは長卓子に突っ伏してゆったりと呼吸を繰り返していた。
その細い肩に毛布を載せ、ウヰスキーの蓋をしめる。
そして俺は、洋燈の火を吹き消した。
灯油の煤けた甘い匂いが鼻につく。
俺はよもすがら何をするわけでもなく頼りない月の下、樽の内と外との呼吸に耳を澄ませていた。
その間、自分の呼吸のことはすっかり忘れていたのだった。




