小生、わかりかねまする
全く変化のない景色が無尽蔵に続いている。
あと何段だ?
暗がりに目が沈むたび、白漆喰の壁に刻まれた大人のする幼稚な落書きが浮かび上がる。
もう幾度目だろうか。
単調、単一……否。
同一。
そろそろその意味を理解できてもいい頃だろうに、どうにも脳がそれを拒否している。
同じことを繰り返していると、徐々におかしなことになってくるものだ。
外階段は折目正しく十五段。
ただひとひら貼り付いた銀杏の枯葉に惑わされ、足がもつれて左の下駄が転げていった。
俺はしばらく座ったまま、学生の往来をただ虚ろに眺めていた。
俺の瞳は或る五人一塊の学生どもを捕えた。
四人は肩を並べ、一人は二・三遅れてついていく。
後ろに続くそいつは小難しそうな文庫を読み読み危なっかしく歩いている。
すると、前をゆく四人は不意に悪い顔を見合わせ立ち止まる。
するとこの間抜けな読書家はそのまま真ん中の大男に身ごと突っ込んだ。
「あ……」
本は男の手を離れ、中空を舞う。
その屈強な背に弾かれた男は無様に尻もちをついた。
彼を取り囲む学生どもはどっと笑い声を上げる。
しかし次の瞬間にはもう、彼は肩を抱かれ半ば引きずられる形で立たされている。
四人が笑う。
すると彼も笑う。
彼が笑うと、四人は益々おかしそうに声を上げて笑う。
その口角のいやらしい歪みに俺は目を伏せた。
何がそんなに面白いのか──
俺には皆目見当もつかなかった。
へらへらと襟足を掻くあの男も、真のことは解していなかったのやも知れない。
四人と一人の笑い声が俺の頭の中でウワンウワンと遠巻きに響き続けている。
「わからない……!」
俺の叫びは寒空のもと白く霧散していった。
すっかり冷え切った左足で下駄をつっかけて、俺は門へと急いだ。
消し忘れなのか、ふざけているのかわからない街灯が午前の空を照らしている。
光の粒が黄色の輪を作っていた。
「おう! 今日はまたいつにも増して随分と早ェお帰りで。」
渡瀬に背を叩かれた気がして、俺は振り向いた。
しかし男はその時すでに深い眠りの底に沈んで久しいようだった。
彼は番小屋の中の椅子に腰掛け、頭を擡げ、大口開けて眠りこけている。
口の端から下顎角に向け、白けた小径が続いていた。
空はやはり、ただただ青のべた塗りである。
「白雲なくば、凪いでいるやもわからぬ……」
目の前を、ボサ髪のバンカラ野郎が通り過ぎた。
やたらに重いタールが不意に俺の肺底に沈んだ。
奴の外套の裾は、足にまとわりついている。
歩き煙草の煙がべた青の空へと細く、垂れ落ちるかの如く昇っていった。
奴の鼻唄の残骸らしきものが掻き消えると、街は頓に黙ってしまった。
荷車は小石を轢き砕き、東西屋は鐘を叩き、幼子たちはその周りを飛び回る。
しかし、何ひとつ聴こえない。
まるで弁士を失くした活動写真だ。
あの若い巡査がバンカラ野郎に転がされている。
それを野次馬どもが取り囲み、その周りを茶色のやたらにつやつやした犬っころが走り回っていた。
振り上げられた腕の先で握られた拳。
口元を抑えて目をそらしつつもちらちら見遣る御婦人方。
瞳に映る街はこんなにも騒がしいというのに──
「わからない……」
俺は学生帽子を失くした頭をひどく掻きむしっていた。
見慣れた角を曲がると聴き親しんだ声がする。
「朔ちゃん! 朔ちゃん!」
イヨさんがその背中よりも大きな籠を背負って手を振っている。
「ちょうどよかった、朔ちゃん! あんたちょっと付き合っとくれよ! どうせ暇だろ?」
「んだよ……俺にだって都合ってもんが……」
「へえ……また女かい……?」
そう言ってイヨさんは俺の肩に手を添えぐるりとひとまわり。
胸に頭を凭れると悩ましげに上眼して、
「いやだよ、朔ちゃん……今度は男かい? 見境のない子だね……」
と囁いた。
「そんなんでねェよ!」
俺は叫び叫びイヨさんのあとを追いかけた。
元来た道を途中まで戻り、左だったか右だったかに曲がると八百屋が立派に店を構えている。
奥から店主と思しき男が揉み手して出てきた。
それはあくまで寒さに慄いてのことらしかった。
「いらっしゃい!」
気前の良さそうな四十男である。
「こんな若ェ色男連れて、イヨちゃんも隅に置けねェな!」
「なに馬鹿言ってんのさ! 私に惚れたのはこの子の方だよ!」
イヨさんは八百屋の親父の鳩尾を突き上げた。
「おお、おお……これはこれは……」
「いやあ、それにしたって早いもんだね。今年もあとちっとで終わっちまうんだもんな……」
「なにじいさんみたいなこと言ってんだい! 萎れるにはまだ早いんじゃないかい?」
「ハハッ! んだな! じゃあ今晩この可愛い書生を貸しておくれよ?」
「何言ってんだい! このすけべ親父が! だめだよ、朔ちゃんは忙しいんだ!」
二人はどやどや盛り上がり、どさどさと俺の背の籠に白菜を放り込んでいく。
その度に俺の背骨は軋んだ。
親父はふぅふぅと浅く呼吸しつつ、俺に耳打ちした。
「なあ、書生さんよ。悪ィこたァ言わねェ。やめとけ。あンの女だけはやめとけ?」
そして俺の手に立派なさつまいもを一本握らせると、「これはおっちゃんの気持ちだ。景気付けに一本持ってけ!」と言う。
「こ……こりゃどうも……」
どうにも無礼な言葉しか言えないのを、肩に食い込む紐の痛みのせいにしておいた。
前をゆく、やつれ細った女の背で赤子が泣いていた。
女は左へふらり、右へゆらりと足元がおぼつかない。
ついに女は均衡を失くし、ひざまずく。
ひっくり返った竹籠からはごろりごろりとじゃがいもが転び出た。
俺は背の籠を下ろし、芋を拾った。
底の方にあのさつまいもを埋めておいた。
芋を拾い終え、あの親子のところに戻ると、
赤赤と泣いていた赤子は女の背ですやすや眠り、女の蒼い涙は頬の辺りで乾き始めていた。
今、俺の背には物言わぬ白菜がおとなしく眠っている。
肩を軋らせる確かな重みは、俺の腑を随分と落ち着かせたのだった。




