ヘリオトロオプの誘惑
得体の知れない、感触を伴う感情はもっともらしくこの身を昂らせた。
微かに開いた唇と、危なげに潤む虚んだ瞳。
彼は俺を蔑むように眺めている。
先程硝子杯を打った指は、小卓を忙しなく叩き続ける。
はなから答えは決まっていた。
もったいつけて、ヴァニラの紫で俺自身を焦らしたかっただけだ。
俺は大小あるうちの小さな硝子杯を選んだ。
すると男はつまらなそうに舌を打つと、言葉はおろか息さえ漏らさず俺の前へそれを差し出した。
透き通る紅の上、ヘリオトロオプの紫が物憂げに揺れている。
俺はつい惚けてしまい、かすれた熱っぽい息を漏らした。
男は俺の熱を奪うが如く冷たい声で言う。
「お前はいつも物語の中に生きようとする。」
彼の輪郭にまとわりつくように流れ込んだ光が俺の胸元を撫でた。
紅湯を飲み込んだ紫は死から醒め、生を滾らせるかのように甘い匂いで俺を蠱惑する。
俺も負けじと息を吹きかけ、その漲る色を拒絶した。
「……聴いているのか?」
男はその整えられた身なりに似つかわしくないインクの染み込んだ指で角砂糖を摘み上げると、硝子杯の内へと落とした。
なみなみと注がれた紅はその姿を甘さの分だけ膨らませる。
いやに腫れぼったいその色を男は口に含んだ。
紅湯を含む瞬間、まるで礼拝堂に飾られた絵画から滲み出たが如き怠げな光を湛えるのに、それが彼の胃に染みる頃にはもう、その瞳は酒場をのたうちまわる詩人そのものと化しているのだった。
肘を膝に乗せ、伸ばす気もないくせに眉間に指を差し入れる。
そして硝子杯の底で木造りの小卓を鈍く鳴らし、ぼちゃぼちゃと角砂糖を落としていく。
その度に硝子杯の半分程まで儚き立方は沈み、そして浮上する最中に溶け崩れた。
──ぼちゃん
という品のない音の周りには煌めく泡沫がきらきらと砕けていた。
男は大袈裟にため息をつく。
「いいか、よく聞くんだ。上原……」
俺は目だけで奴を見遣った。
途端に手の甲をぴしゃりとやられる。
唇につけていた薄硝子が歯を打った。
扉の外に学生の気配を感じ、俺はわざとらしく「痛い!」と叫ぶ。
みる間に奴は蒼褪めて、霞んだ低音で「黙れ」と凄んだ。
俺の目論見は盛大に外れ、学生どもは隣の研究室に入ったらしかった。
俺は痛む手で痛む前歯を唇の上から撫でている。
「なんです? 突然。もうすっかり冷めてしまいましたよ……」
「あのなあ、人が話そうとした瞬間に飲む馬鹿がどこにいるんだ?」
「ここに。」
「確信犯なのか、お前は。」
「そうかも……」
俺は脱力したような笑いを漏らした。
「まあ、いい。」
そう言って男は立ち上がると、窓を背に立った。
「そろそろ教えてくれないか? お前が見つけた答えとやらを。」
奴は手持ち無沙汰だったのか懐中時計を取り出し、かちかちと蓋の開け閉めを繰り返した。
「ええ。」
俺は外套を脱ぎ長椅子の背に掛けた。
「さくらんぼなら持ってきましたよ。」
男は首を傾ぐ。
「先生の机の上に。」
彼は背を白の蕾糸窓帷に殴られつつ、例の洋書へと手を伸ばす。
「ああ……これ。」
男はおもむろに頁を繰り始めた。
硝子杯の中はすっかり冷めている。
紫色のヴァニラの香りは冷たく沈み、俺の呼吸を深くした。
目醒めたヘリオトロオプはぷっくりと熱感を帯び、水面で微睡んでいる。
俺は硝子杯をくるりと回し花ごと飲み干した。
「飲んだのか……?」
本から眼を上げた男が意味不明の笑みを口の端に浮かべる。
俺は小卓に空になった硝子杯を置きつつ、唇を拭った。
そして立ち上がり、男の眼前まで詰め寄った。
舌の上にはまだ花のざらつきが生き延びている。
「ああ、おいしかった……」
ヴァニラの匂いにまみれ、ざりざりとした不愉快な声を彼の胸元へ吐き捨てる。
これは身体格差からくるやっかみで、俺は悔し紛れに頭を擡げ、男の顔を目掛けてふっと偽物のヴァニラの匂いを吹きかけた。
「で? お前は俺にこれを読ませてどうしたいんだ?」
「そこに答えがあるでしょう?」
「質問に質問で返すのか……?」
男は流れるように頁を繰っては鼻で笑っている。
しかし俺は気づいている。
その眼球が微動だにしていないことに。
「先生……あなた、はなからわかっていたんじゃないですか?」
「だから、また質問に質問で返すのか?」
彼は肩を震わせ笑い始めた。
「何がおかしいんですか?」
「すまない……続けろ。」
俺は男を椅子に座らせた。
そして、背後から頁を繰ってやった。
「ここ。ちゃんと読んでくださいよ?」
俺はあの「十五」の項目を舐めとるように指で辿った。
「……下手な芝居はいらないんですよ。」
自分でも驚く程、澱みなく言葉が口をついて出る。
否、ブローカが直に喋っているかのようだった。
「僕ね、行ってみたんですよ。カフェーに。」
使い慣れない一人称に背徳の感すら覚え始める。
「あそこはさくらんぼがあるでしょう……? それも……」
「ソーダ水と女給か?」
「え……」
「お前が言いたいのは、女のそれは摘み取られれば消滅するが、男の場合、よほどのことがなければ消滅しないと──」
奴は俺の腕をほどき立ち上がると、代わりに俺を座らせた。
「……女の蠱惑力の真似事か?」
びゅうと鋭く侵入した風が頁をさらっていった。
男は小卓前の長椅子に腰を下ろすと、ゆったりと脚を組んだ。
「さっきのはお前の頭の中に生きる女か?」
「あれは……」
「まあいい。」
もうあの日感じた熱は冷めきっていて、頭に浮かぶ映像こそ煩悶極まれりというのに脳は芯から冷え切っていた。
「お前が見たのはあくまでもその女の物語部分に過ぎない。」
「それは……」
「つまり、夢だ。目を覚まして見る、夢。女が見せたのは夢。」
「夢……?」
「先生……あなたに一体何がわかるんですか?」
「わからない。」
「え?」
「わからない。まあ、わかりたくもないがな……」
わからない?
わからないくせにわかりきったようなことを言うこの男に俺は心底苛立っている。
「お前は意味を持たないものを無意識に恐れているんじゃないか?」
空の硝子杯を重ねる。
「それでいて、その言葉の真の意味に怯えている。違うか?」
部屋に垂れ込める現実が……あるいはその逆か。
透明な言葉が蜘蛛の糸のように折り重なり、絡まって、白く変わっていく。
襟足を掠めていく白い蕾糸窓帷……
──わからない。
考えるほどにわからなくなっていく。
肺が押し上げられてくる。
嫌な熱が喉奥に滴っている。
微かに開いた唇から、消え入りそうな嗚咽が漏れた。
気づけば俺は部屋を飛び出していた。
学生帽子も外套も、残したまま。
かーんと玻璃を破ったような空の青が痛ましかった。




