偽りの書生
扉を叩きかけた動脈を、か細き指に掴まれる。
冷えゆく血潮、痺れゆく指先……
「なんのつもりだ……」
浮つき気味の俺の心は一瞬にして地に突き落とされた。
心ばかりではない。
眼前の扉は開け放たれ、背を蹴飛ばされ、木造りの床に手をついた。
ヘリオトロオプの甘い香り。
昨日まで緑に溶けていた白の匂いはその色を紫に変え水を失くし、綿埃と戯れあっている。
四つ這いで観るこの景色は実に屈辱的である。
「どうした? 床に何か書いてあるのか?」
俺の前に回り込み、跼んだ。
学生帽子が転がっている。
俺の指が死にかけの尺取り虫が如く這いつくばい、じりじりとその鍔に辿り着かんとすると、奴はこれ見よがしに帽子をひらりと摘み上げ、どこへともなく放り投げた。
「あ……」
栴檀を施した金釦の学帽は中空を舞い、卓上瓦斯灯を横倒しにしたのち、敷布と布団が逆転した意味不明の寝台の横へと墜ちた。
「おい! 馬鹿! おめェ火ィ……」
「おい……? 馬鹿……? おめェ……?」
男は俺の前髪をぎりぎりと掴み、頭を背に向け引きつけていく。
顎が上がり、喉が伸び、答えようにも声が出ない。
ただ、呻めきや喘ぎに似た声ならざるものが漏れる。
「『おい』は俺への問いかけ……」
髪を掴む指の力は刻々と軋りを増していく。
「『馬鹿』は俺への罵りだな……?」
冷えた汗が首筋を伝う。
「そして『おめェ』は俺のこと。そうだな?」
彼はその青とも灰ともとれる曖昧な色を宿した瞳孔を露わにした。
「燈は灯っていないのだがなあ……』
最後わざとらしく哀れぶった声で目を伏した。
途端、奴は俺の背に跨り、外套の裾を躙った。
革靴の黒に自分の苦悶が映り込みそうで、俺は目を外らす。
背骨がひしゃげるような鋭い感覚に襲われる。
何か固いものが肋にぐいめり込み神経を潰した。
そして男は容赦なく紺絣の胸元へ手を差し入れる。
立襟の綿布を冷えた指先が這った。
核心を探るような、それでいて狙い澄ました迷いのなさをも感じさせる。
今にも砕けそうな背骨にぞわぞわと気味の悪い悦が走った。
限界の少し手前、かさりと乾いた音と共に饐えた林檎のような甘と酸とをかき混ぜて土に埋めたが如き妙な匂い──俺にとっては嗅ぎ慣れた安堵の匂いが漂った。
「見えるか?」
「……?」
「何とか言ったらどうだ?」
背後から眼前へと垂らされるのは、華奢な指につままれたあの洋書だ。
奴がそれをひらつかせるたびに、匂いは繊維組を奪われた灼け紙の砕けるが如く散った。
ようやく前髪を解放された俺は床に顎を打つ。
奴が横にずれ、立ちあがろうと一瞬眩暈でも起こしたみたいにふらりとしたのを横目に捉えたが、俺も俺でその身を起こさんとして脳が揺れ泳いだものだから放っておいた。
男は件の洋書を二、三頁ほど繰るとちらと俺の方を向く。
そして、ふんと嘲るように鼻で笑った。
「悪趣味だ……」
ぱったりと本を閉じてしまった彼の右の下瞼は、ひどく引き攣っていた。
「それで? お前はこれを読んでなにを思ったんだ?」
俺はようやく頭を起こし、ゆるゆると床に座り直した。
そして、奴に踏み躙られた外套の裾を床に押し付ける。
「……先生でしょう? さくらんぼをもってこいって言ったのは。」
「ああ、言った。」
僅かに引かれた窓から、学生どもの吸い残した風が吹き込み、白の蕾糸窓帷を踊らせている。
「……で?」
彼は机に俺の本を置くと、無関係のことに手を焼き始めた。
「答えが見つかったから、そんな馬鹿げたなりで俺の目の前に現れた。違うか?」
こぽこぽと湯が硬質のものを柔らかにしていく音が響く。
「今日は……何曜日だ?」
あの日、色香の背後に嗅いだ異国の葉の匂い……!
「金曜日だ。」
「あ?」
「あの……そこに金曜日って書いて……」
「見えるのか……?」
「見えますが……?」
奴はずいずいと俺のところまで歩いてくるとおもむろに床に座り込み「どけ」と俺を排すると、視点を陣取ってこの部屋には随分と不釣り合いな古風の引札略歴を睨みつけた。
目をこすっている。
「もしかして……」
俺の中で悪魔じみたものが殻にひびを入れ始めている。
男はまだ目をこすっては睨み、を繰り返していた。
その横顔で飛ぶことを躊躇い続ける烏の翼の如き睫毛……
到底言葉にし得ない感情に襲われ言葉を失った。
彼はかえってぼやけてしまうほどに目をこすり、瞬かせたのち、ぎっと睨みをきかせた。
しかし、程なくしてため息と同時に部屋のそこかしこに置かれた枯花の如く萎みきって、へたりへたりと机のある方へ戻っていった。
白い蕾糸の窓帷は微動だにせず、ただ空の青を写したが如く薄青く煌めいていた。
気づけば俺は小洒落た小卓と対峙して、長椅子に沈み込んでいる。
目の前に、大小二つの硝子杯が置かれた。
「これは……」
紅く透き通るそれはまるで苦礬柘榴石を水としたようだった。
その眼の見張りようときたらもう──息だけで喉が潤うほどである。
大きな硝子杯にはなみなみと紅が注がれている。
一方で小さい方には半分ほどが注がれていた。
しかしそちらには紫の枯葉が浮かべられ、ヴァニラの如く甘い匂いを漂わせている。
男は黝く染まった指で、硝子杯の曇りをかんと叩く。
「さあ、どちらを選ぶ?」
彼の試すような瞳に、不自然に伸びた俺の背骨をまた、気味の悪い悦が走り抜けていくのだった。




