幻想巡査虚言
山際も白まぬうちに起き出して、俺は襷の端を噛む。
澄んだ水で顔を洗い、口を漱ぐ。
米を研ぎ、葉を刻む。
歌人がゆるゆると起き出してきた頃、下宿の食堂には正しき朝餉の湯気が昇る。
睡気眼の黒衣どもは空かしっ腹で寝ぼけた虫を吃驚させては笑っている。
「……イヨさん、ちょっといいかい?」
学生どものおかわり飯をぼこぼこと盛り付ける彼女の耳に囁いた。
「なんだい……朝っぱらから……!」
俺の額を手の甲でぴしゃりとはたく。
「んなもん後でいいだろ?」
しゃもじと木蓋の触れ合う音は温かく心地がいい。
イヨさんの肩は、想像以上に華奢だった。
俺は学生どもが飯に夢中なのを目視して、土間陰にその細身の女を蹲踞ませる。
「なんのつもりだい? 朔ちゃん……」
撥ね返すような目つきとは裏腹に其の身は従順である。
「イヨさん……目、閉じて。」
「は?」
「『は?』でねえよ。目ェ、閉じて。」
「何考えてんだい? あたしは四十過ぎてんだよ……」
「そしたら俺だっていつまでも十六、七でねえよ。」
「じいさんだって見てんだよ……?」
「お空の上からな……?」
箸が茶碗に当たる小気味のいい音、盥に落ちる水の音、お寝坊の椋鳥のさえずり……
俺はイヨさんの口元を見張ったまま跪いている。
「朔ちゃん……あんた、腕上げたね。」
イヨさんは軽く喉を下ろすと、俺の右手から箸を奪う。
そして小鳥がついばむみたいにして左手の小鉢の中身を咀嚼した。
「どうだい? 惚れたかい?」
軽口が過ぎたかもしれない。
次点、俺は土間に額をつけて伏していた。
「ふん! まだちょっと渋いね……!」
そう言いながらも、イヨさんはすり鉢ごと抱えている。
なんだい、なんだいと覗き込む黒衣どもを一蹴して食っている。
柿の白和を。
すっかり空になった鉢を俺は洗う。
軒先では朱い顔した釣鐘が、相も変わらずゆらゆらと風と戯れているのだった。
俺は学生を全部見送ると、さっさと庭を掃き、斜向かいの親父の駄弁りを適当に切り上げ部屋へ戻る。
枯草色の着物を脱ぎ捨てて、立襟シャツの釦をしめ、紺絣に袴を合わせ、外套を肩に乗せ、頭には学生帽子。
目深にかぶれば前までの俺だ。
「でも……」
鍔をわずかに上向けた。
「あれ! 朔ちゃん、お出かけかい?」
イヨさんが珍しく紅差して、めかし込んで飛び出してきた。
「ああ、ちょっと……」
「まァた女ンとこかい? 懲りない子だね!」
「そっちこそ、またやきもちかい?」
俺はまたやってしまった。
鳩尾を突き上げられ、危うく胃ごと真面目な朝が転び出るところであった。
俺は咳払いして反撃を仕掛ける。
「イヨさんこそ紅なんか差して……男んとこかい?」
「あんたこそやきもちかい? 飯食ったばっかなのに……じいさんとこだよ。あんなもん見せつけられたんじゃ、石ぶち破って出てきちまうからね!」
道の角で笑い合う。
イヨさんと俺は反対方向に別れ別れに歩く。
俺は面白くって幾度となく振り返っては肩を震わせた。
彼女の姿はあっという間に見えなくなったが、俺は何度も振り返ってはいつまでも笑い続けていた。
通りへ出る。
掃き残しの枯葉が小気味よく回転して、からから音を鳴らしている。
品行方正とは程遠い、バンカラ野郎の外套が煙草の匂いをなびかせる。
それをどうにも羨ましげに眺める若い巡査が嚔三つして、顔赤らめた。
「なあ、巡査。つかぬことを伺うが……」
「なんだい? 書生さんかい?」
「そんな大それたもんじゃねえよ。昨日ここに突っ立ってたおめェさんみてェな服着た男、あいつ、八田って名でないかい?」
「八田……?」
俺は肩の幅より脚を開いて腕を組み、眉間に皺寄せ、顎を引き、制帽目深にかぶり直して左目顰め、右目だけで若い男を睨みつけた。
「ハハッ! そりゃあ八田じゃねえや。矢田だ。」
巡査はボロ紙をめくる。
「んまァ、最近女に振られて大荒れよ……」
「ほお……女に……?」
「カフェーの女給だかなんだか。ちょうど眉目秀麗……」
巡査は瞬間硬直した。
「やい、書生! おめェ、本当は役者でねェか?」
「はあ?」
男は洋刀に手をかける。
「まあ待て。ああ、そうだ。おめェ、手柄欲しくねえか?」
「あ?」
「おめェがうつつ抜かしたあのバンカラ……甘ェ匂いしてんだ……」
「顔、近ェよ!」
「お? 照れてんのかい?」
巡査は変な虫を噛み潰したみたいな顔して俺を見る。
「ありゃあ罌粟かもしんねえぞ……」
「は?」
「鈍いな……おめェそんなんでよく巡査なんか……」
「口+可+可囉仿謨って言いてえんだろ?」
「んだよ……よくわかってんじゃねェか……」
「まっさか……! あんましはったり言ってっとおめェをひっ捕えんぞ!」
巡査は恐ろしいことを発しつつその実、夢見る少年の目で笑っている。
「なあ、巡査……おめェ、洋刀よりこっちの方が似合いそうだな。」
「そうかい……?」
急に静かになった巡査に手を振り俺はまた下駄をずって行く。
学校の門が見える。
やつれ果てたるつつじの垣が禿げている。
その傍らで門番の渡瀬が消し忘れの手持ち洋燈で陽の光を照らしている。
「やあ」と声をかければ「よお」と返す。
俺は外階段を十五も昇り、意気揚々と八角形の硝子天井へと抜けた。
またあの扉の前に立ち、息をひとつ飲み込んだ。
見慣れた黒衣の学生どもが革靴鳴らして歩いている。
色硝子の、青と赤とが怪しげに混じり合っていた。




