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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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発禁本と、文士と

「やい、色狂気の亭主だな!」

俺は花紺青の夕暮れ空の(もと)、その言葉に絶望したのである。


「文学士よ……命惜しけりゃあその本(、、、)、大人しくこっちへ寄越すんだな!」

大ちゃんは巡査の真似事をして俺に飛びかかる。

「やめねェか、大ちゃん!」

俺は外套を翻し翻し、逃げまどう。

「やめねェよ! おめェみてえな色狂気の男……野放しにしてたまるもんか!」

大ちゃんはゆく手阻みつ俺を嘲る。

「にしたって朔ちゃん……ありゃあおめェ、当たり役だったな!」

──あれは入学した年の創作展覧会で湯島が舞台の心中ものを()った時のこと。

大ちゃんは餅っこ詰まらすじいさんからの餞別のほとんどを本と衣装とに()ぎ込んでやたらと張り切っていた。

「あん時もおめェ……女学生さんたち、おめェ見てきゃあきゃあ騒いでたっけなァ!」

俺の背に回った大ちゃんは袖から一気に手を差し入れた。

「やっぱり俺はおめェが憎い……!」


──ばさりと禁断の洋書は地に落ちる。

大ちゃんはそれをひょいと取り上げる。

「……よろしい。」

俺は地べたに手をつき膝をつき、涙を流し無情な巡査を睨みつけていた。


「おい、そこの若ェの!」

背後の声に俺は振り向く。

大ちゃんはぴたりと前をくっつけて、俺の衿元に直前(さっき)取り上げた本を捩じ込んだ。

「見たところによれば……学生と書生……」

巡査は訝しやかに腕を組み、大ちゃんと俺の周りをぐるりと歩く。

そして歩を止め言うことには、

「近頃は物騒だ、気をつけたまえよ」。

巡査は制帽をかぶり直し、颯爽と夜闇へ……否、巡査の制服の色が空を濃紺へと染め上げていくようであった。


街はしばらく色と音とを失くしていた。

それらが取り戻された頃、大ちゃんは俺にひしとしがみつく。

「怖ェのォ……本当の巡査(おまはり)に捕まっちまうかと……」

どさくさ紛れに俺の衿の内を(まさぐ)っていた。

「朔ちゃん……?」

「ん?」

「おめェ……」

「コレかい?」

俺は左手であの(、、)本をひらつかせた。

大ちゃんは下唇を噛みつつ、何ない(うち)に手を突っ込んだままでいる。


「おめェ、この後どうすんだい?」

「あ?」

「俺の欣々(きんきん)……! 手篭めにする気だべ?」

「しねェって!」

頭上の瓦斯灯の硝子を(ひひる)が打っている。

「おめェ、須磨子(すまこ)はどうしたんだよ」

「朔ちゃん、そりゃあ野暮な質問だな……須磨子一筋に決まってんべ!」

「ほんとかね……」

「んだよ……」

ようやく大ちゃんは俺の身体を解放すると軽く背を押した。

「だども東京の女は恐ろしいもんだな……」

大ちゃんは頭の後ろで手を組みつつ

「あれでさくらんぼ(、、、、、)だもんなァ……」

と嘆息を漏らす。


「朔ちゃん……」

二手に別れた道で、大ちゃんは俺の名を呼ぶ。

「何?」

「やっぱり貸してくんねェか?」

「だめだ。」

言った途端俺は小石につまずいた。

すると大ちゃんは「ざまあ見ろ、色男! 七面鳥の文学士!」とあの頃の劇中言葉で俺を罵り寂しい道へと消えていった。


独りになった俺は、空を見る。

雲は無く、凛とした夜である。


俺は後ろ暗さから、下宿の裏庭へと廻った。

しかし、ちょうど盤の水をぶち撒けに来たイヨさんに捕まる。


「朔ちゃん! あんたまた仕事ほっぽらかしてどこほっつき……」

イヨさんは俺の衿元の着崩れているのに鼻を近づけた。

「いやらしい子だね! 女の匂いがぷんぷんするよ……」

とむくれている。

「女にうつつを抜かしてる暇があったら……」

「なんだい、イヨさん。妬いてんのかい?」


──ドスッ


「莫迦言ってんじゃないよ!」


俺は鳩尾を抑えて、しばし落葉に伏した。


締め切ってあった部屋は、わずかに昼の温みを残している。

俺は小卓の上、燐寸を擦った。

ゆうらり揺れる焔は、端の揃わぬ紙束や古ぼけの辞書の背や万年床の枕の凹みを(あで)やかにする。


四角く切られた窓の外、月は薄紅色に潤む。

掛かり始めた薄い白雲……

眼前の光はヴァニラの如く甘い匂いを漂わせている。

俺は思考の澱みを手繰った。

依然として謎のままのあの男の要求に、髪を毟り、身を捩っている。

答えを本の中に探す俺を、皮膚の記憶が邪魔をする。

首筋をつたい降りた指先に、耳に触れた熱っぽい言葉……


激しく苛立っていた。

答えなき幻想の姿に。

生々しき言の葉の輪郭に。


本は閉ざされたまま転げている。


もぬけの殻の(しとね)

俺はその傍らの毳立つ畳に身を横たえている。

(もた)げるつもりのない頭は朦朧として、物憂げな胸に跨がる薄紅の煌めく粒子を吸い込んでいる。


傍ら、屑籠の内と外とでうずくまる白い影。

俺は肺の最果てから全部吐ききってしばらく肩を揺らしていた。


程なくして睫毛の先を雫がつたい光は閉ざされる。


(あおぐろ)い闇の中に、ひとひらの花びらが舞い落ちる。

水面に映したような滲んだ桜の花が見える。


「置いていかないで……」


俺は自分の唇が動くのを感じる。

しかし、声がひどく少年のようだ。

憂うことしか知らぬ、哀しき声だ。


後ろ姿の姫の隣には栗色に透ける髪の子どもが見える。

そして姫は身重げに、鈍く其の子の髪を指で梳く。


栗の髪の子は滲む桜へと手を伸ばしぴょこぴょこと跳ねている。

姫は子の肩を抑え、撫でている。


その花影に何を見る……?

俺は姫の振り返らんとするのに目を見張り、子の掴まんとしたものをすっかり見落としていた。


ぽつねんと佇む俺の姿はどこにも影を落とさなかったのだ。

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