不純な喫茶
下駄の間で色を失くした桜葉が踊る。
異国の少年たちが頬を紅らめるのを嘲りながら俺は文字を追いかけた。
ひとり、またひとりと小気味のいい鐘を鳴らして東京の巴里へと吸われていく。
その度、香る物憂い匂いが俺を揺さぶる。
「朔ちゃん!」
大ちゃんが外套をひらつかせて走ってきた。
陽は橙を濃くしながら傾いている。
「……抜け駆けする気かい?」
「あ?」
「立襟に紺絣なんてやるでないか!」
大ちゃんは俺の脇腹を肘で小突く。
「大ちゃんこそやるでねェか。」
「え?」
外套の首元についた米粒を摘んでみせた。
「だけんど朔ちゃん……やっぱしおめェ、スケコマシのくせにいい奴だな!」
大ちゃんは俺の肩をひしと掴む。
俺は生まれたての赤ん坊みたいに柔な頸で激し過ぎる揺籠に耐えていた。
「いらっしゃいまし。」
女給のわざとらしい甘ったるい声と鐘の余韻が怠げに混じり合う。
それだけでもう、胃が灼けた。
蓄音機の三拍子に、どうにも足がもつれてしまう。
前をゆく女の花紺青の着物に掛かる、白い縁飾はまるで冬の夜に立つ波のよう。
言いようも無く、溺れるが如き感覚に襲われた。
「なあ。この子、欣々に似てねえかい?」
大ちゃんが俺に耳打ちする。
「あ? 欣々?」
「声がでけェよ!」
「三美人の……」
「ああ……」
欣々の面影を映したらしい女が振り返る。
「こちらでよろしくて?」
通りのよく見える窓際の席だ。
大ちゃんは耳朶まで真っ赤にして固まっている。
「ええ。」
俺は卓に読みかけの本を置いた。
女給は本と俺との間でいやにゆったりと視線を廻らして、「ちょっと失礼……」と表紙を伏した。
そののち、俺の肩から外套を外しつつ「書生さん? いま少し、デリカテッセを持ってくださいな……」と囁いた。
大ちゃんは恨めしげな瞳で俺を見て、少し乱暴に外套を脱ぐ。
女は大ちゃんの外套を受け取ると、「さあさ、お座りになって。」と促した。
大ちゃんも俺も馴れない。
それこそ、三拍子を五・七・五の踏で踊るような、ジャズを篳篥で演奏ってやるようなちぐはぐとしたぎこちなさ、居心地の悪さを覚える。
「御品書きご覧に……」
「アイスクリームソーダ水をひとつ……」
「まア……学生さん、ずいぶんと思い切りがよろしくって。」
大ちゃんは鼻の下を人差し指で掻きつつしたり顔で俺を見る。
「書生さんは? もうお決まり?」
「じゃあ、同じものをもうひとつ、お願いします。」
「おめ……朔……上原君はァ、ライスカレーが……食い……食べ……? 食べたかったんで……食べたいと言っていたね? そうだね? うん、ここは俺……でなくて……僕? 小生がご馳走しようじゃあないか!」
女給は口元を軽くおさえ、ふふと艶っぽく笑った。
「学生さんがアイスクリームソーダ水、書生さんがアイスクリームソーダ水とライスカレーね……」
女給は帳面に書きつけた。
「いや……俺は水と──」
「よろしくってよ……」
もう帳面は白の縁飾に押し付けられている。
「ねえ、マスター?」
彼女の甘ったるい視線が黒のボウタイの似合う背の高い男と俺の間を揺蕩うた。
大ちゃんは面白くなさそうに「なんだい? 今の。」と唇を尖らせる。
「知らねェよ……」
俺は肩をすぼめ、下唇を指で押した。
「んで、おめェなんだい? その洋書は。」
「これかい?」
俺は今にも頁の崩れそうな本を大ちゃんに差し向けた。
大ちゃんは恐る恐る、覗き込むように紙を繰る。
「艶本でねえか!」
「馬ッ鹿! 黙んねえか……」
俺はあの女給の所在を探る。
「朔ちゃん……おめェよくこんなもん平気な顔して読めたもんだべな……!」
大ちゃんは初手の咆吼で本を俺の方へすっ飛ばしていた。
程なくしてまたあの女給がやって来た。
盆にはアイスクリームソーダ水が二つとライスカレーがひとつ乗せられている。
「はい、書生さん。」
俺の前に脚の長いすらりとした硝子杯が恭しく置かれた。
そこになみなみと注がれた緑の水宝石はきらきらと光を弾いている。
そして頭重げにヴァニラの丸いのを乗せて最後に例の──さくらんぼでおめかししていた。
「あの、俺……」
「いいのよ、お気になさらないで。」
女給は俺の唇の前に人差し指を当てがった。
次いでライスカレーが置かれ、盆の上のもの全てが卓に並んだところで俺はようやく、さくらんぼの毒々しい紅越しの大ちゃんの恨めしやかな眼が自分を捕らえていることに気がついた。
同時に女給の指先が俺の指の上を滑る。
「……だめよ。こういうところで開く本じゃないわ。」
ほとんど形の崩れた吐息でそう言うと、またあの本を閉じ、表紙を伏してしまった。
すると今度は俺の伸び過ぎた横髪を指で退ける。
その指は首筋を降って衿元へ差し入れられた。
「その本、貸してくださらない……? でも私……学がなくって読めないわ。その……読んでほしいの……」
熱っぽい声だった。
その熱のせいだろうか──
ヴァニラの急ぎ溶け落ちた孔からいじらしい紅色が硝子杯の底に映っている。
実こそ目の前にあれど透かしの紅が真のものと錯覚され、いやに遠く感ぜられた。
やがて指が抜かれ、女給がゆるゆると盆を抱えなおすと俺の胸はかさりと鳴る。
まだ女の熱の残る胸に手をやると薄紅の紙ひとひらが卓へ舞い落ちた。
──Je suis une cerise.
Maria──
俺は唇でその文字の輪郭をなぞった。
女給が潤み眼で一寸先から俺を見つめている。
大ちゃんが身を乗り出す。
歯をぎりぎりと鳴らし、薄紅の紙を俺の前から掴み拐った。
アイスクリームソーダ水が揺れ、紅色の実がぼっとりと卓に墜ちる。
──Je
──suis
──une……
──cerise……?
「朔ちゃん……」
「あ?」
「俺は益々おめェが憎い……!」
「え?」
「あれで……あれでceriseだど?」
大ちゃんは麦藁を前歯で噛み潰す。
硝子杯のヴァニラがゆるく沈んだ。
女給の眼はいよいよ俺を絡め、縛り上げている。
俺は伏せられた本に手を掛けた。
紙を繰り、「十五」の項目を大ちゃんへ差し向けた。
「ん? 朔ちゃん……なんだい? グ、グロ……? ビッガ……?」
「gros bigarreau rouge……これがさくらんぼだ……」
「だけんどそれがなんだい?」
要領を得ない様子の大ちゃんは卓に落ちたさくらんぼを摘み上げ、口に放り込む。
「言わせんな……」
麦藁に頬を突かれながら硝子杯を傾けた大ちゃんの眼前に俺は扉絵を突き出し、その一点に触れた。
一瞬、妙な間があって──
「まア! 大丈夫?」
女給は駆けてきて大ちゃんに白木綿を差し出した。
大ちゃんは受け取ると、きまり悪げに顔を拭い始める。
俺は女給に顔を拭き回されている。
女はヴァニラやソーダ水でべたつく卓をすっかり拭き上げると、濡れ歪んだ口絵を開いたままにして俺の前に置いた。
そして跼みこんで、
「だからこんなところでだめよって言ったのに……」
と上目に俺を見る。
袴と布巾が擦れた。
大ちゃんは湯気をなくしたライスカレーを頬張っている。
女給は椅子に凭れたまま言った。
「ねえ、書生さん……?」
手つかずの硝子杯をぼやけた焦点で眺めている。
白が緑を濁し、内に秘めたる紅を曖昧にする。
掴みどころのない紅は沈まぬまま、底でひとり揺れていた。




