慾深き文士ども
月は奪われてしまった。
窓下の壁に凭れ、俺を見つめている影に。
俺は蒼褪めたままその影をぼうっと眺めている。
「朔ちゃん、落ち着いたかい?」
未だ開け放れたままの窓を蛾は気儘に往来している。
「今日あたりカフェー、行ってみねえか?」
「学校、どうすんだ?」
せめてもの抵抗として、それを突きつける俺の迂闊な狡猾さ。
「放課に決まってんだろ?」
大ちゃんは影のまま笑った。
結局、大ちゃんと俺はまんじりともせず朝を迎えた。
眠りを忘れた身体は、脳の一点に麻酔薬を打たれたかの如く惚けた挙句、莫迦げた昂揚を招く。
俺たちは性懲りも無く下宿の裏庭の地面に枝で文字を書きつけてはああでもねェ、こうでもねェと履物の底で躙り消す。
すると法曹崩れが中腰気味にやってきて、
「文士様は朝からお元気だね。」
と目の下に悪魔を飼い慣らした面で腰をおろす。
「酒臭ェ……」
俺は鼻を摘んでその男の臭いを手で粉砕した。
奴は頭をぼりぼり掻きむしった後、
「そりゃあ文士様的三欲のお遊びじゃあないかい?」
と自分の顎を指先で摘んで見せた。
随分と胡散臭い名探偵だ。
「お遊び? どういうことだい?」
「文士様の特徴ったらなんだい?」
「孤高! 高尚! 破天荒!」
大ちゃんはそう書きつけて、胸を張る。
比喩ではない。
腰に手を当て、空を目掛けて胸をかっぴらいている。
法曹崩れは鼻で笑ってその下に、「高慢」「傲慢」と書き足した。
「やったな?」
大ちゃんは書き足された二文字と二文字を靴底で混ぜ消した。
書いては消し、消されては書く。
大ちゃんと法曹崩れの攻防戦をしばらく眺めていた。
俺はひどく退屈して縁側に座り込み膝を抱えた。
背を丸め、いよいよ膝を齧らんとした時のこと。
法曹崩れは咳払いをして、厳かに語り始めた。
「文士様といえば……孤高、高尚……」
大ちゃんは満足気に頷く。
「破天荒……」
「そして、高慢、傲慢……」
「おい! 取り消せ!」
大ちゃんの咆哮に構わず法曹崩れは続ける。
「だがその最たるは……」
大ちゃんと俺は喉頭隆起をごくりと落とす──
「……捻くれ者!」
あまりに捻りの無い答えに、げんなりと──
それでいていやに明快かつ簡潔に言い得ていることに、脳溝の一筋一筋を撫で上げられるようなむず痒さを覚える。
俺は心の内で無様に両腕を挙げた。
「だどもその……三……ん? 三美人みてえなのはなんだい?」
「お? 森田さん、あんた誰が好きなんだい?」
「欣々!」
「お目が高いねェ……」
「そういうおめェは誰が……」
「白蓮!」
「ハハッ! 早ェな、法曹様は。」
「朔也、おめェさんは?」
「え?」
「『え?』でねえべよ、朔ちゃん! 得意分野でねえか! 女の話だど?」
「決めらんねえよ……」
ため息混じりに答えた。
すると大ちゃんと法曹崩れは色めきたって、
「よ! さすがスケコマシ!」だのなんだかよくわからない悪魔の名前だのを叫んで盛り上がっていた。
その実俺はその三美人とやらを知らないだけだったのだ。
法曹崩れは咳払いひとつで軌道修正する。
「では、本題。」
大ちゃんは口から卵を産んだみたいな顔をしたまま固まっている。
俺は大ちゃんの肩を叩く。
「文士様的三欲のお遊び、のことじゃねェか?」
「お? 脳漿はご無事みたいで……その通りだ。」
「そりゃあどうも……」
どうにも舌の上に腥ささがこびりつくようで嘔気がした。
「ではまず、三欲とは何か。それはつまり、性欲、次いで食欲また性欲……」
法曹崩れは地面に欲を書きつけた。
見れば文字は車座になっている。
「朔ちゃん、聴いたことあるかい?」
「は? 俺は……落第生だからわっかんねえや。」
「威張ることかい?」
しかし見れば見るほど違和感のある──
「性欲、食欲、性欲って……」
大ちゃんの言うのに合わせて俺は指折り数えた。
「いんや? そりゃどうも性欲と食欲の二欲がぐるぐるしてるだけだね?」
「ふふん……なかなか鋭いじゃあねェか、上原君。」
法曹崩れは棒切れで俺の痩せ胸を突いた。
「巡るんだ。」
「巡る?」
「モアザンだ。もっと言えば、ダッシだ。」
男は俺の胸を突いた枝で地面に書かれた「性欲」のうちのひとつに「'」を書き足した。
すっかり頭の中がこんがらがってこの酩酊野郎以上に千鳥足が如くなっている大ちゃんと俺を舐視て、
「さすがの文士様もお手上げかい?」と冷笑する。
「何も君らをいじめたいんじゃないんだ……」
法曹崩れは散々俺たちを苦しめた三欲とやらを躙り消すと、「さくらんぼ」と刻んだ。
「桜は花咲き、実を結ぶ……」
「まあ、ぐるぐるしてんな。」
「で、それのどこが文士的なんだ……?」
俺は裏庭をぐるりぐるり歩いた。
──捻くれ文士、冬の桜に身悶えて
古畳の上死してなお、言の葉集め震えたり……
「死んでねえよ! 朔ちゃん?」
「え?」
「おめェ、頭ん中だだ漏れだど?」
「なあ、大ちゃん?」
「なんだい?」
「さくらんぼ、ありゃ食いもんじゃあねェな。」
「あ? 食いもんだべ?」
「甘ェよ。」
「しょっぺえさくらんぼがあってたまるもんか!」
「……」
顔を見合わせたまま、互いの限界を探った。
わずかに俺が早かった。
「俺の勝ちだ!」
「負けだべ!」
「早いもん勝ちだ!」
飛ぶはずもない鳶が頭上をぐるり旋回する。
笑い合いながらも大ちゃんと俺は考え続けていた。
「俺はどれにも当てはまんねえな……」
「は?」
「は?」
法曹崩れの寝顔の上、言葉は行ったり来たりした。
「ほれ、朔ちゃん! 飯よそっておくれよ!」
俺は土間へと急いだ。
「朝っぱらから何話してるんだい? どうせまた女子の──」
欠け茶碗から立ち昇る湯気越しに仏壇が目に入る。
あの奥で朗らかに微笑む名も知らぬ男の笑顔を思い出す。
「イヨさん……」
「なんだい?」
呼びかけたものの俺は言葉を詰まらせる。
「イヨさん……」
大根の糠漬けをつまみ食う後ろ姿。
その名を呼ぶので精一杯だった。
──いや、違うな。
奥歯で糠漬けを噛み潰しながら俺は欠け茶碗を運ぶ。
「大ちゃん……」
「なんだべ? 朔ちゃん。」
海の向こうの少年の部屋、本棚の奥の奥。
俺の部屋の辞書の横。
「さくらんぼ、食いもんでねェなんつったらな、茂吉に怒られっど!」
頭の片隅で開いた本をそのまま閉じた。
「なあ、朔ちゃん? 俺、死んでねえよ?」
「はあ?」
見れば欠け茶碗には高盛り飯の如く米が盛られている。
「いっけね!」
俺は慌てて土間へと戻る。
そして俺の頭の中では……
──花だ……花を揃えろ……
──わかるだろう? 花。花と言ったら花だ。
──とにかく、さくらんぼだ!
あの男の息遣いがぐるぐると巡っているのだった。
裏庭で、残り僅かな葉のうちの、病葉ひとひら舞い落ちた。




