軋む窓枠
薄月の如く、思考は霞む。
建て付けの悪い窓枠は風もないのに軋んでいた。
俺は微動だにしない月前の雲に、あの男の言葉を書きつけていく。
中空をなぞる指先は染み込んだインクのせいか時折夜闇に紛れてしまう。
背後の衣擦れの音が止んだ。
しかし──
冬に片足を浸すような季の晩に、一体どんな花が咲くというのだ。
春に咲き、夏前実るあの妖しげな紅き輝石がいかにして煤けひらいたような季の朝に実るというのだ。
俺は冷え切った右手を膝の間に挟み、背を丸め、瞼を下ろす。
「朔ちゃん……」
かれこれ十一回目だ。
寝つけぬ友は、吐く息を俺の名にして転がしていた。
「……朔ちゃん?」
「ん?」
発するが早いか、俺の胸は天井を仰ぐ。
「だども俺……」
憂う俺の左の耳朶を人肌ほどの風が撫でた。
「やめろ! 気持ち悪ィ!」
身体が無様にのけ反りたがるのを理性側の筋力で頭を身体を跳ね上げる。
額に衝撃が走る。
鈍い音がして、闇のまま閃光が飛び散る。
その拍子に俺の頭は枕を打ち、そのまま沈んだ。
「痛ェ……」
「耳元で喋んな!」
「だけんど……」
月がぼかす、大ちゃんの顔はわざとらしく眉尻を下げている。
「五十遍も無視されたんじゃあ、たまんねえや。」
……五十?
俺が聴いたのは十一だ。
その実、無視をしたのは六だ。
俺はもう、耐えられなかった。
額をぶつけたあたりからもう、この膨れ上がる臓器の薄皮をさっさと針でも刺して割ってやりたかった。
唇を濁点が掠める。
「うわっ! 汚ねえな、朔ちゃん!」
大ちゃんは夜着の袖を眼前で振り乱している。
お返しだ、そう言ってやりたかったが俺の喉は笑いに支配されそれどころではなかった。
釈然としない白い光を受けた大ちゃんと俺はゲラゲラと笑い合ったのだった。
覆い被さっている大ちゃんを退かし、俺は膝を折り座り直す。
煎餅布団は板の間よりも硬い。
額はまだじんじんと疼いている。
ぶらぶら揺れる電燈を灯さんと手を伸ばす。
その手を大ちゃんが引っ叩いた。
「痛ェな! 何すんだ?」
「おめェ、知らねえのかい? 蛾が硝子ぶっ叩いて割って入ってくんだと……」
「聴いたことねェな……なんだい? またシェークスピヤかい?」
「甘ェよ、朔ちゃん……」
月の薄ら灯が妖しく吊り上がる大ちゃんの口角を浮かび上がらせる。
「おめェ、知らねえのけ? あの男と寝たくせに。」
大ちゃんは余裕綽々の正妻然とした口吻である。
「ええ、さっぱり。」
俺は敢えて、麗しの妾のふりをしてやった。
「講義でおっしゃったのよ。いやね、あなた。その左の耳でお聴きにならなかったのかしら?」
じりじりとした修羅場が冷え込む空気を灼き切っていく。
俺がなかなか返さないのに気をよくした大ちゃんは、
「あら、黙りかしら?」とかなんとか言ってはもう姿の見えない妾をいびり続けていた。
俺は小卓の上の洋燈をひったくってきて、大ちゃんとの間に置いた。
燐寸を擦る。
「大ちゃん、悪ィ……ホヤ外してくんねえか?」
「ん。」
俺は芯に火を寄せる。
「頭も冴えねェのに、目ェばっか冴えて……」
凪いだ水面に小石を落とすが如く、夜の畳を光の波紋が撫でていく。
人と人とが近くなりすぎるこの部屋は、途端に燃え上がるように赫らんだ。
火を見たところで明らかになるのはやたらに擦った床の布や怠惰な無駄死にを丸めた紙屑の哀愁ほどのもの。
──ゲホ、ゲホ!
二人分の咽せ込みを聴く。
鼻の奥から喉へ、悪い蝋がどろりと溶け落ちるような感覚に襲われる。
「朔ちゃん……! おめェ、これ最後にいつ……」
「昨日だ……」
「嘘つけ! それでこんな……」
──臭ェ!
俺は急いで窓を開けんとする。
しかし、軋むばかりで硝子は木枠と懇ろになっている。
茶に煤けた埃の翅がびしりびしりと硝子戸を叩く。
それも一や二どころではない。
五十も……下手をしたら百も……
今にも突き破られそうだ。
光なき六角の瞳に睨まれ俺は怖気づく。
「どけ! 朔ちゃん!」
大ちゃんは俺を窓から引き剥がすと、いとも容易く窓を開け放った。
俺たちは蛾とすれ違いに外へと顔を突き出して、互いに負けじと夜霧を吸い込んだ。
蛾一匹、ふらりと部屋に迷い込む。
窓の硝子は傷ひとつなく、それでいて光をひしゃげる能力ばかりが磨かれている。
「なあ、朔ちゃん。」
「ん?」
「おめェ不精したな?」
「……」
「これっぽっち毎回掃除せんにゃいけねえど?」
捨てそびれた柿の病葉の残骸を光がとらえている。
俺は尻でじり歩き、それをこそと屑籠へ摘み入れた。
蛾は暇を持て余し、大ちゃんの額を叩いては俺の髪にもぐり、もつれては翔び、翔んでは移るを繰り返している。
俺たちは互いの布団に座り、向き合う形で洋燈の光を見つめた。
「だけんどあれだ。カフェーにさくらんぼ、あったべ? ほれ。アイスクリームソーダ水の……」
蛾はホヤに触れ、ぱったりと動かなくなった。
途端に目尻の方からじわじわと冷たく腫れぼったい紅色が迫ってくる。
意地悪く心室をなぞり上げ、挙句三尖弁を掻き回すあの爪の色……
俺の呼吸は深く、遅く、不規則性に変化した。
下唇はがくがくと慄え、色をなくしていく。
頭の芯から熱がくり抜かれ思考ごと身体まで停止してしまった。
──朔ちゃん……
──朔ちゃん……
煤けひらいたような季の朝はまだ遠い。
肩を抱く友の視線が、何となく左の耳朶に注がれているような気がしてならなかった。
蛾はまた勇ましく飛び回っている。
開きかけた大ちゃんの唇に恐る恐る目をやった。
ホヤは煤け始めている。
──炎が倒れた。
俺はまた、月前の雲に、透明インクで文字を書こうと指を伸ばすのであった。




