魅惑の病葉
借り物の外套で頭まで覆い、俺は影のふりをして下宿の裏庭へと廻る。
影というのはなかなかに不便なものだ。
黒々と辺りを染め、他人の目にはつくくせをして、自分は何にも見えやしないのだから。
俺はそんな苦々しい想いを前歯の裏で潰し潰し進む。
かさり……かさり……と鳴る足元に、ふと昨日の惰性を悔やむ。
掃き掃除の途中のことだ。
俺は柿の病葉の美しいのに気付いてしまい、箒を放って夢中で集めた。
そののち、ああでもない、こうでもないと一葉一葉比べては選りすぐり、手元に五枚残してあとはそこいらにぶん投げた。
それから麗しき病葉どもを部屋へと運び、しばらく眺めた。
飽き果てると一枚を病巣に沿って、もう一枚を闇雲に破り、三枚目は万年筆で突き回した。
四と五はどうしたか記憶にない。
とにもかくにも影となる前の俺は一時の気の迷いから影を苦しめんとする状況を期せずして作り上げていたということになる。
「どこほっつき歩いてたんだい?」
──何処だ? 声は何処だ?
やはり影は不便だ。
声は近い。
それはわかる。
しかしそれが何処から鳴るものか……
──後ろか!
俺は半回転して蹲み、背を丸めた。
それが早いか否か影布は額からずるりとひかれ、影法師の正体は暴かれてしまう。
「朝餉の支度にも来ない、みんなが食べ終わる頃になっても来ない、いよいよ皿の始末が済んでも来ない……」
背後からとくとくと注がれる言葉を実体として聴いている。
「それで朔ちゃん! あんたの部屋! 開けたらもぬけの殻だよ! 一体……」
かろうじて肩に掛かっていた外套が滑り落ちた。
「いやだね、朔ちゃん……あんたそれ、あたしの浴衣じゃないか!」
イヨさんは俺の前方にまわり込み、呆れるやら笑うやら感情を目まぐるしく入れ替えた。
「全く嫌になっちまうよ! あんたの方が似合ってんじゃないかい? 嫁入り道具にくれてやろうね。」
本気とも冗談とも取れる発言を聴く俺は撫子柄のまま、秋と冬の間の風に吹かれていた。
その後も散々に恨み節を聴かされながら、焦げ鍋を磨き、枯草を薙ぎ倒し、夕餉の大根の皮を剥いた。
もちろん玄関から裏庭までの掃き掃除も徹底的に見張られながらやり切った。
途中幾度となく病葉が妖しく舞い降りては俺を誘った。
その度イヨさんが背をはたいた。
この季節、陽は随分と早く睡る。
大ちゃんを待つ俺も薄く、なりを潜めていく光につられ、うつらうつらしていた。
「朔ちゃん!」
眠りの淵、何者かに背を押された瞬間のことだった。
引き戸は勢いよく開け放たれる。
英雄のごとく現れた大ちゃんの背に外套は翻らない。
「なんだ、大ちゃんかい……」
「なんだとはなんだい? 行くって言ったべ? ほれ、カステイラ。」
包みを受け取った俺は、一切れのそのまた半分の半分を口に放り込む。
大ちゃんはまた、実りの森の栗鼠が如くもごついている。
「だけんど、おめェあんなぞろっぺえな格好で何してたんだい?」
「……ぞ? ぞ?」
「悪ィ、悪ィ……しどけねェだ。」
「しどけなくないだろうよ……寝起きだっただけで……」
「え?」
「……?」
「朔ちゃん? おめえどこで寝てたんだい?」
「ここだ。ここ。」
「ん? だけんどおめェ学校であの格好だったべ? どこにいたんだ?」
「鳴海先生んとこだ。」
「げっ……おめェ男の趣味悪ィな……よりにもよってアオミドロか……」
「あ?」
「え?」
──あんたの方が似合ってんじゃないかい? 嫁入り道具にくれてやろうね。
あの男に嫁ぐ……?
誰が……?
まさか俺が……?
「何ぶつぶつ言ってんだい?」
俺はカステイラ二切れを一気に詰め込んだ。
「あ! 食ったな?」
大ちゃんは「吐け! 返せ!」と大騒ぎだ。
ゲホゲホと咽せながら俺は言った。
「俺は嫁には行かねえ……」
「何言ってんだい?」
「大ちゃん、俺は嫁には行かねえからな!」
「え?」
「行かねえんでなくて行けねえんだべ?」
大ちゃんはカステイラの薄紙を爪でこそげて名残惜しげにその甘さに惚けた顔をしていた。
俺はぼんやりと痺れた母趾を畳に押し付けている。
「なあ大ちゃん?」
「ん?」
「おめェ、花持ってこいって言われたらどうする?」
「何の話だい? 朔ちゃん。」
「先生に言われたんだ。花、揃えて持ってこいって。」
「……まーた、アオミドロかい?」
「鳴海先生。」
「アオミドロでねえか!」
「あと、さくらんぼ。」
「さくらんぼ? こんな季節にかい?」
大ちゃんは疑い深い観察者の瞳で俺を視る。
そして、カステイラでベタベタの指のまま俺の肩をがしと掴み前後に揺らした。
「だども朔ちゃん? おめェは天下のスケコマシで間違いねェな?」
「いんや、間違いでしかねェ!」
「んな訳なかろう、おめェは天下のスケコマシだ!」
大ちゃんは突然目を閃かせた。
同時に俺の身体を吹っ飛ばすと立ち上がり叫ぶ。
「わっかんねェ!」
すっ飛ばされた俺は、大ちゃんの頭の横で揺れる電燈を眺めた。
「だども朔ちゃん、あてはあんのかい? 花とさくらんぼの……」
「いんや? 蓬莱の玉の枝ほどには……」
「ハハッ! そしたら俺が作ってやんべ!」
「すぐ見抜かれそうだな……」
「おお……怖い怖い……アオミドロの姫君……!」
大ちゃんと俺は玉さかるまで笑い、畳に伸びた。
程なくして階下からイヨさんが怒鳴り声と共に駆け上ってくる。
「朔ちゃん? あんた今朝の分と昨日の手抜きの分、しっかり働いておくれよ?」
大ちゃんは相変わらず畳に伸びたまま手をひらひらさせている。
俺はイヨさんに耳を摘まれ転げるように階段を降っていく。
「せめて首根っこにしてくんねえかい?」
「贅沢言うんじゃないよ! ほれ!」
夕餉の間も、皿を洗う間も、学生どものからかいをあしらう間も考えに考えていた。
──花だ……花を揃えろ……
──とにかく、さくらんぼだ!
月が雲隠れして釈然としない晩だった。
「……ちゃん……」
時計の秒針の音を数えていた。
「朔ちゃん……」
大ちゃんの眠れなさを、俺はしばらくそのままにしておいたのだった。




