季節への叛逆
その男は湯気の上がらぬ珈琲を啜った。
魚の小骨の如くつかえた言葉を押し流すように。
俺は依然としてひっくり返ったまま、もぬけの殻の蜘蛛の巣のわずかな煌めきを眺めている。
「いや、よくないな……お前、なんなんだ? その格好。」
奴は俺を抱え起こすとすぐ後ろの壁に凭せかけた。
そして努めて冷静に語り出す。
耳朶は紅く、栗色に透ける髪の間からは青紫の筋がのぞいている。
「そもそもがだ。なぜその格好で外に出ようと思った? 俺には皆目見当がつかんのだが……」
蔑みとも嘲りとも異なる、俺がまだ知らない貌の色をしている。
「まず、それは寝間着だろう?」
「ああ……まあ……」
「それも、真夏のな。見てみろ、今はもう秋だ。その秋だってもう……」
俺は見た。
今、見える範囲を。
床には麺麭屑、綿埃、干涸びたヘリオトロオプ……
それらにかかる、蕾糸窓帷の透けるような影。
仄かに残るヒアシンスの焦げた匂いのせいか俺の脳は濡れた紅色の細かな萼の画を見せた。
泥溝を薄紅の花弁が汚らしく泳いでいる。
「それから……それ、女の着物だろう? まさかとは思うが……」
俺は首を横に振った。
「ならいいが、そんなに薄着では風邪をひくぞ。お前はその……」
不意に首筋に指が伸びてくる。
黝い指先はひんやりとしていた。
奴は俺の衿元を執拗に狭く整えると、
「いや、いい。」とため息をついた。
珈琲の苦い匂いが薄く漂ってから消えた。
「そんなことよりもだ……」
男は突然立ち上がり、部屋の隅に寄せた乾きかけの草花を引っ掴んだ。
そして俺の方を向き直るとぽつぽつと言葉を並べ始める。
「花だ……花を揃えろ……」
「……花?」
「わかるだろう? 花。花と言ったら花だ。」
「は……はあ……」
俺はありとあらゆる花を一輪ずつ咲かせる。
しかしそのどれもが咲いては消え、ついばまれ、引き抜かれ、踏みにじられていく。
「それから……」
奴は煤け色の草花を嬲るように縛り上げながら続ける。
「さくらんぼだ。」
「さくらんぼ……?」
「知らないのか?」
「……食べたいんですか?」
「そ……! そういうわけでは……」
俺は皆目見当がつかぬの顔で奴の顔を覗き込むようにして見せた。
男は人差し指を俺の眼前に突き出し声を荒げる。
「とにかく、さくらんぼだ!」
そしてその指を俺の額に突きつけて振り絞るように言った。
「その小さい頭でわからなければ……愉快極まりないオトモダチにでも聴いてみればいい……」
気付けば俺は両腕を挙げている。
奴は銃口を床に向けると煤けた花束を放り投げ、代わりに俺の腕を掴み、床板を踏ませた。
そして、地を這うような声で「帰れ」とすごむ。
「は?」
「『は?』ではない、帰れ。」
訳がわからない。
夏の褥を飛び出したような格好の青年に意味不明な要求をした挙句、冬の門前に捨て去るこの狼藉!
俄かに許し難し。
そうこうしている間に俺は八角形の硝子天井の下に投げ出されていた。
無情に響く、研究室の錠の音。
外套で口元を隠すようにして学生どもが通り過ぎていく。
俺は途端に耐え難き恥辱を覚え、駆け出した。
走る程に背は縮み、漏れる声は高くなっていく。
何か黒く大きな影に追われた記憶そのものが迫ってくる。
確か、俺は逃げきれないはずだ。
前も、右も、左も、言うまでもなく背後は塞がれて、声も出ない内に痛みだけが残される。
それでも走った。
過去にあがなうように。
扉が見える。
一縷の望みをかけ手を掛けた。
暗い。
そうだ、俺は絶望も希望も見たくはなかった。
目を閉じているのだ。
身慄いをする。
すり抜けていく風が冷たい。
恐る恐る瞼を上げる。
睫毛で空を押し上げるが如く。
足元を黄金色が転げていく。
その下には十五段の階段が連なっている。
同じ黒衣の奴らが蒼白い顔を外套の襟で隠すようにしてのろのろと動いている。
「朔ちゃん!」
快活そうな青年は脱げんばかりに外套を振り乱し、大銀杏の下からこちらへ向かって駆けてくる。
「おめェ久しぶりでねえか!」
俺は友の幻影でも見ているのだろうか。
目をこすった。
かえって映る姿をぼやかした。
「だどもなんだい? そのぞろっぺえ格好……」
ぽんぽんと肩やら腕やらに触れていく。
どうやら彼が影でも幻でもないことを理解した。
脳より先に皮膚感覚で。
「大ちゃん……?」
「おめェまたそうやって……大ちゃんだ! 森田んとこの大ちゃんだ!」
安堵した俺は脱力した。
膝から崩れ、黄金の絨毯にへたり込む。
大ちゃんは腰を屈め目の高さを合わせると、
「ついに住み着いたのかい?」と背後の建物に親指を差し向けた。
俺はそれを首だけで否定する。
「したっけ、こんな時間にこんなとこでなにを……」
嚔ののち、空咳が呼吸の邪魔をし始めた。
「ああ……朔ちゃん、風邪ひくど?」
大ちゃんは自分の外套を脱ぐと俺の肩に掛けた。
「とりあえず帰れ?」
俺の肩を支え起こすと「今日、そっち行ってもいいかい?」と朗らかに言う。
「ああ……」
「したらまた、夕方にな!」
身軽になった大ちゃんは奥の方へと掛けていく。
その姿が消えるか消えぬかで俺は外套の襟で頬まで覆い、門外へ出る。
門番の渡瀬はそんな俺を上から下まで訝しげに見つめたのち、「もう帰りかい?」と問うた。
「流行病やも知れぬ……」
とだけ言って襟の内でほくそ笑む。
狂い咲きの躑躅が一輪、微かな風に凍えていた。




