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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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蝿の軌跡、囲われ男

「何をそんなに怯えている?」

男の瞳は無害の色をしている。

そのくせ俺の(ふる)えごといつくしむような唇からは、隠しきれぬ毒牙をちらつかせた。

視界の隅で、ヘリオトロオプと綿埃が揺れた。


「鳴海……清一……先生……」

その名に腫らされた喉からかすれ文字の如き声が漏れる。

ずっと呼びたかった。

理由もわからず呼びたかった名だ。

その名を口にした瞬間、恍惚とは別のえもいわれぬ感情の極に到る。

「ひどい声だな。」

男はそれを鼻で笑った。

そしてもう一段階俺の顎を指で押し上げる。

「もう一度だ。」

奴は床に落ちたあの紙を摘み上げ、俺の眼前でひらつかせた。

酷たらしいと思った。

不思議と腹は立たなかった。

「鳴……海……清一……先生……」

(もた)げられ、仰け反るようになっていたのが悪かったのかいやに舌足らずな甘ったるいような声になった。

それがにわかに俺から発せられたものとは思えず、つい眼球をぐるりさせる。


ビョウと部屋の中を風が抜け、男の指に捕らえられていた紙切れは何処かへ拐われてしまった。

無沙汰になった指先で俺の(あおぐろ)く汚れた指をなぞる。

「……だとしたらひどい話だ。」

湿り気のない、冷たい囁き。

程なくして指を摘み上げられた。

「……お前のせいだろう?」


不意に男の顔が(かげ)り、顎にかけられていた指が離された。

俺はその場でうなだれた。


床を転げるヘリオトロオプと綿埃。

不規則な靴音。

男はふらつきながら物語の狩場へと戻っていく。


俺は(いささ)心許(こころもと)なさを覚え、その背に今一度呼びかける。


「鳴海清一先生……」


返事はない。

俺は安堵の息をつく。

四つ這いなどというひどく品のない姿勢のまま俺は何度でもその名を呼んだ。

舌の上で転がすように、あるいは喉の奥でちりちりと鳴らすように。

あくまでも俺が俺の(かたち)()るために、男の名を呼び続けた。



男の身体は椅子の上に崩れ落ちた。

部屋の中だというのに傍らに置かれた濃緑の中折帽子を目深にかぶる。

まるで別の人間が座ったかのように見えた。

そして、重々しくも浅い息を吐いた。


「鳴海……清……一……先生……」

どの瞬間より、弱い声だった。


返事はない。


奴は椅子に(もた)れたまたま微動だにしなかった。


そんな折、一匹の蝿が奴の顔周りを意地悪く飛び始めた。

奴はそれに構うことなく万年筆の先端でインク壺をかき回している。

平気な顔をしているくせに帽子と髪とで隠したつもりの耳朶(みみのは)ばかりがやたらに紅く染まっていた。


「鳴海先生!」

「なんだ?」

「……なんでもないです。」


男は訝しげな顔で、遠巻きに手の甲でしっしっと(くう)を払う動きを見せる。

蝿は払わぬくせに、離れた俺のことは払いやがる。

極めて意地の悪い男だ。


意地の悪さなら俺も負けてはいられない。

床を這い、音もなく奴の机の真ん前までたどり着いた。


依然として蝿は奴に懐いている。

男は机に肘をつき眉間やら目頭やらを押し込んでは狭い喉から息を漏らした。

反対の指で原稿用紙の右上のマスに万年筆を突き立てている。

その指先は狂ったように震え、万年筆の先端を揺らす。

どうにも紙の方が血でも噴き上げるが如く(あおぐろ)い血泥はベタベタと拡がっていった。


──今だ!


「鳴海先生!」

俺は奴の真正面に顔を出す。

「なんだ?」

「ニブが潰れますよ。」 

奴は尖を自分の眼前に突きつけて、深く頷いてからまた俺をしっしっと払う。

こういう時、蝿はなりを潜めている。


「鳴海先生!」

「なんだ?」

「ええと……」

「用がないなら呼ぶな! せめて何か考えてから呼べ!」

蝿は、ぶぶぶと奴と俺とをその軌跡で囲うかの如く飛んでいた。


怒りに任せて吹っ飛んだ帽子をかぶり直しながら男は言った。

「今日は講義もない。帰れ。」

俺は立ち上がった。


講義もない?

俺にははなからそんなものは存在しない。

そうだろう?


ふと、彼の背面の本棚に目をやる。

どういうわけか、草と花の図鑑の間に突然血生臭いような小説が挟まっている。

俺はまず、血生臭いのを引き抜いてやった。

すると今度はその上の段で、背表紙と小口とがちぐはぐに挿さっているのを見つける。

規則性ならまだしも「背・背・小・背・小・背・背・背・小・小」などと薄気味悪く並んでいるのだ。

俺はひとまずこの題のわからぬものを()り出した。

そして、このちぐはぐの中に一つの規則性を発見する。

未だニブを潰さんとして呻吟するこいつもまた人の子であると妙に納得した。

そしてひとつひとつ詰め直していく。

新たな規則性をもって。


「……おい。」

低い声が腹に響く。

「やめろ馬鹿! 勝手に位置を変えるな!」


男の叫びと時を同じくして、俺は棚の四段目と奴の椅子の背もたれとに足を引っ掛けていた。

今まさに背もたれに立たんとしている。

右の足で四の段を蹴飛ばした次の瞬間──


俺の身体は中空を舞う。

窓の外の青がひっくり返っている。


白の蕾糸窓帷レエス・カアテンが風にそよいでいる……

仰け反る身体、墜ちていく頭……


「おい、馬鹿! 何をしている!」

さっきから人のことを馬鹿馬鹿と実に失礼な奴だ。

そんなことをのんびりと考える余裕があるほどに時空は歪められている。


気づけば床にひっくり返っていた。

しかし、特段痛むところもない。

強いていえば腕だ。

掴まれたままの腕が痛い。


「……也。」


暗い。

過たずして俺は死んだのか?

まさか。

あの程度で?


「朔……。」


俺は目を閉じていたらしい。


奴の髪が近い。

そして俺は何か聴いた気がする。


「あの……」

「なあ……」


同時だった。

しばらく互いに押し黙っていた。

主導権を探り合うが如く。


「お前、その格好でここまで?」

「ええ、まあ……」


男の髪が遠ざかる。


「……いや、いい。」


そう言って奴は目を逸らした。

その耳朶(みみのは)は幾分前よりなお紅みを増しているのだった。

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