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殴り殴られ詩人酒場  作者: よもぎ


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呼べぬ名、呼ばぬ師

万年筆を放り、頭を掻き毟る。

苦悶する男は蒼褪めたり紅潮したり、目まぐるしく色を変えた。

白眼(しろめ)には(くれない)の稲妻が走り、下瞼には暗雲がたち込める。

彼は俺の()に構うことなく脳の疲労と精神の衰弱を露わにした。


俺は残りの麺麭(パン)を含み、床に落ちたヘリオトロオプの紫の花破片(はなびら)を摘み上げ、開け放たれた窓の外に(ほう)った。

ぽつ、ぽつと歩く学生どもの帽子に落ちたか否かは知る由もない。

それでも妙におかしくなって、喉奥がむず痒かった。


窓を背にすれば、机に突っ伏して慄える男の姿が見える。

その慄えは俺の身に(うつ)り、肝を冷やしながら胸の熱を上げていく。

奴の呼吸の乱れに合わせ、俺の肺も捩れていた。


物語に逃げられた人間の絶望と焦燥……

俺はもっと近くで感じてみたくなった。

近過ぎて視ることも触れることもできなかった心の(かたち)

それが、かろうじて人型を保ち、俺の前で慄えているのだ。

衝動とも呼ぶべき慾は無尽蔵に膨れ上がっていく。


獲物を前に垂涎せし狼より、屍肉を待つ鬣狗(ハイエナ)の心持ちであったが、俺は男の伏している机の正面に(かが)み、その息遣いを見つめていた。


呪いを受けたかの如くのろのろと首を(もた)げた男は間抜けな程に眠げな(まなこ)で俺を視る。

もう紅き稲妻は止み、蒼白く潤んでいた。

その内のぼやけた色に俺はたじろぐ。

ずっと昔から見知ったような不気味な色だ。


俺は俺自身の唇が色を失くしていくのを感じた。


上原朔也(うえはらさくや)……」


男は(うめ)くように俺の名を呼ぶ。


途端に嗜虐狂(サディズム)じみた昂りは(しぼ)み、骨の髄を抜き取られるような脱力を覚えた。

焦点の合わぬ瞳に囚われたまま、俺は床を這う。

木造の床にすがる指の()を、綿埃とヘリオトロオプの干涸びた紫が絡み合い転げていった。

見上げれば白の蕾糸窓帷(レエスカアテン)が外界に吸い出されている。


「……遅いぞ。」


男を避けるようにして光が差し込んでいる。

その手に握られた紙束が、今にも高窓から飛び立たんと悶えている。


「火曜日の夜だ……」

「なんの……話ですか……?」


男はふっと鼻で笑う。

そして俺の前に回り込み身を(かが)めるとその紙束をカサリと鳴らし、

「言わせるな、提出期限だ。」

そう俺の額に言葉を降らせた。


俺の海馬はすまし顔で平気で(うそぶ)く。


俺は襟元を探る。

何もない。

──あの時抜き取られたのは……


俺は瞬間「スムルホ・クツロヤシ」だった。

脳が閃光を放ったかのような晴れやかさ……

しかし一度の(しばた)きの後、俺は再び明るい闇の中へと堕ちる。


男は再び窓の前に立つ。

奴の手元は風任せだ。

逆光(さかびかり)に浮かぶ奴の口元が妖しく動く。

笑っているのか……?

その笑いは嘲りか、それとも?


風が止んだ。

蕾糸(レエス)窓帷(カアテン)はまるで踊り疲れ寝台に(もた)れ睡る貴婦人のドレスのよう。

奴の手元の紙もおとなしくなった。


男は椅子を引く。

木と木のこすれる鈍い音が響いた。

いやにゆったりとした動きだ。

それに比べ俺の心臓ときたら、随分と()いているようだ。

ようだ、というのもおかしな話だが、あくまでも「そのよう」なのだ。


俺は襟元に手を差し入れる。

皮膚の先の脈打つ塊を掴むが如く。

その拍子に懐中時計が床に転げた。


その針の動きと男の動きとの間で忙しなく視線を走らせる。

秒針の刻む音と針の(めぐ)りの勘定の合わないことに気づく。

音が遥かに余るのだ。

そして俺の心臓は秒針の音と数をほとんど同じくしている。

一方で廻りと男の動きの速度とは妙に馴染んでいた。


これの意味するところを理解するにはあまりに俺は愚か過ぎた。

しかし、時の刻みも、奴も、そして俺も、異常なものは何ひとつ無く、それと同じく全てが異常だとも言えるということだけは了解した。


俺はもうどこへともなく視線を投げ出している。

男が机の端の紙束をちぎり、万年筆で引っ掻いている。

その音がいやに心臓を抉る。


程なくして俺の鼻先で歪んだ紙きれが揺れた。

喉でも切れたかと錯覚するような匂いに咽びつつ、俺は床に落ちたそれを摘み上げる。


──契約書


上原朔也(うえはらさくや)


本日付、当該研究室所属トスル。


鳴海清一(なるみせいいち)──


網膜に灼きついたその名は喉元でかすれた。

まるで、その名の方が俺に呼ばれるのを拒むかのように。


「さあ、どうする?」

その男、……………………はさっき俺がしたのと同じように正面に跼み、挑発的に薄ら笑いを浮かべる。


奴の指が顎を押し上げる。

「さあ。」


俺の瞳は枠に切られた空を泳ぐ。

空の蒼にはいくつもの水脈(みお)が走る。


毳立(けばだ)つ喉を掻き毟り、俺は大きく息を吸った。


「どうする……?」


再び咽せ込む俺は指でその名をなぞる。

ああ……

もどかしい。


俺は今一度呼吸を整える。

()えたインクが喉奥に垂れこめていた。


その名は、声になることを未だ拒んでいるのだった。

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