深淵(アビス)
佑樹はマンションの自宅へと帰ると、買ってきた古着屋のビニール袋を開けた。そして着ていた紺色のシャツを脱いで上体を裸にし、勉強部屋兼ベッドルームの壁一面にあるクロゼットの大鏡の前に立った。
佑樹はまずは、紺地にビーチボーイズの『スマイル』のロゴをプリントしたTシャツを着てみた。細身の体にフィットしていて、美男子の佑樹に良く似合っていた。次には、白地に『エンドレス・サマー』という古いサーフ・ムービーのポスターをプリントしたTシャツを身に着けてみた。これまた佑樹に良く似合っていた。さらにはその上に、スカイブルーのロサンゼルス・ギャラクシーのロゴ入りのトレーナーを着た。これも問題なく似合っていた。佑樹は今日の買い物に満足して、リビングへとやって来た。
ソファのサイドテーブルに充電しておいたVRゴーグルとコントローラーを手に持って、テレビの電源を入れた。続いて、画面に『フリークス2』のTVスティックを選択した。
『フリークス2』を始めて以来、テレビをまったく見なくなっていた。元からバラエティーとかの下らない番組ばかりなので、テレビは見る必要が無いと思っていた。その上、この国のニュース番組は、ほとんどワイドショーのレベルで、専門性を感じられなかった。ネットで日本版『ニューズウィーク』の記事を読んでいる方が、よほど有益だと思った。
加えてスマホも、ネットでニュースに目を通すのと、電話をしたりメールをしたりする以外には、ほとんど使わなくなった。佑樹は『LINE』をするのは、口語の短文だらけで、マジでダサいと思っていた。やるなら余程のことが無ければ足が付かない『テレグラム』に限る。
と言うことで、佑樹はコントローラーを片手に、VRゴーグルを顔に着け、長袖のベースボールTシャツをロサンゼルス・ギャラクシーのスカイブルーのトレーナーに替えて、仮想世界のフリークス出現の大騒動が終わったその夜の、シブヤの街中へとトリップしていった。
時刻は19時過ぎだ。シブヤはすでに夜になっていた。佑樹は利き手の左手に抜き身の日本刀を、PP・2000を右手に構えて、公園通りの線路側の歩道を足早に進んでいった。そして自家発電なのか、照明が活きているファション・ビルの地上階のショー・ウインドウの前にやって来て、夜の闇に包まれた三叉路の周辺を注視して立ち止まった。
次の明かりは、ハーゲンダッツにほんの少しだけ。その先は、タワー・レコードの地上階のウインドウまで闇ばかりが続く。通りには事故車や、事故を回避した車が列になって放置されている。そして頭の無い人間の遺体が所々に横たわっていた。
・・・表参道のビルに避難していた人たちが話していた通りに、夜には怪物の気配はわずかにしか感じられなかった。怪物たちは明治神宮の森の暗闇に集まっているのか?いくらかは、停電したビルの一画に潜んでいるのかも知れない。
佑樹は闇に包まれた街中に、進路を慎重に確認した。それから決意して、神宮通りの歩道を思い切って走り抜けた。すると通りの向こう側のビルの壁面に這い出してきた1体の怪物が、そんな佑樹を反対側の歩道に見つけて、ビルの壁面を素早く四肢で走り抜けた。
佑樹は必死になって歩道を走り続け、やがては少し奥まったタワー・レコードのウインドウの前へと到着した。すると、さっき通りの向こう側に見た巨体の怪物が、ビルの横側から唐突に三角の歯をむき出して現れ出してきた。
佑樹はそれを見て、驚いた。そして慌てて後退りして、ショー・ウインドウにその背中を付けた。すると目前に迫ってきた怪物が、LEDの波長に反応してなのか、突然、キーッとわめいて悲鳴を上げて、身悶えをした。佑樹は咄嗟に右手のPP・2000を発砲した。銃弾が怪物の首から肩を貫いて、怪物がその動きを止めた。
佑樹は素早く足を踏み込み、日本刀を振り抜いた。ところが日本刀は怪物の首の付け根を斬りつけただけで、その首を斬り落とすまでには至らなかった。・・・日本の匠である日本刀は、極めて切れ味は鋭いが、それを使いこなすには鍛錬が必要だった。日本刀の扱い方は容易ではなかった。
佑樹はそれを身に感じて、ならば怪物のアゴから頭を突き刺そうと考えた。そう思って素早く日本刀を引いた。瞬間、怪物の片腕が動き、佑樹の手にある日本刀を弾いた。そして次には、怪物が身の動きを取り戻し、素早く鉤爪を振り抜いて、佑樹の頭に噛み付かんとばかりに猛烈に襲い掛かってきた。
佑樹は咄嗟に、至近距離からPP・2000を連射した。銃弾が怪物の胸から腹を撃ち抜いた。佑樹はそれを見て、重ねてPP・2000を連射した。すると怪物は銃弾を全身に浴びながら、エントランスのフロアにもんどり打って倒れて、身の動きを止めた。
佑樹は、PP・2000を手から離してショルダーベルトに任せた。両手でしっかりと日本刀を構えた。そして、すぐさま動きを無くした怪物へと足を踏み込み、縦一線に日本刀を振り抜いて、怪物のその頭を力一杯に斬りつけた。
その時、日本刀の先端がフロアのタイルに強く当たって、キーンと聞こえる金属音を発して刀の切っ先が欠けた。とは言え、こいつは佑樹にとっての初めての獲物だ。初めての得点だ。・・・仮想空間に表示されている、佑樹のアバターであるジライヤのポイントが、0から2ポイントへと上がった。
現実世界の佑樹は、VRゴーグルにゲームの世界を注意深く見回しながらも、内心、嬉しくて堪らなかった。それでも強烈な緊張感に包まれていた。一方、ゲーム内のアバターのジライヤは、拳を握ってガッツポーズして、そんな喜びを表した。
今回の佑樹のトリップは、怪物たちの夜の時間帯の生態を少しでも理解するところにあった。怪物たちが夜にどんな習性を表して、何を嫌って、どんな行動を好んでするかをチェックしておきたいと考えたのだ。
そして、夜の時間に怪物と遭遇して、これで1つを確認することが出来た。その1つとは、表参道に避難している人たちが言うように、怪物はLEDの照明灯が出す光か波長を苦手にしていると言うことだ。しかし、少しの照明では、嫌いはするものの、その動きを止めるまでには至らなかった。好んでそこには近付かないようにしている程度だった。なので、怪物たちを一定のエリアに完全に立ち入らないようにするには、多くの照明を昼のように明るく灯していなければならない。これも表参道の人たちが話していた通りだった。
続いて佑樹は、イチかバチかで山手通りを横断していって、一帯が停電している、ほとんど明かりが無い、闇に包まれた246の手前の地域や宮益坂方面へと行ってみようと考えた。246まで行くことが出来れば、通りは停電を免れて、明かりが煌々と灯されているはずだ。なので、通り沿いは、ほとんど安全地帯だと言える。246まで到達できれば、今夜の計画は成功だ。こいつは間違いなく、生死をかけた挑戦である。
たとえ怪物に殺られたとしたって、リセットすれば、ゲームはその続きから継続することが出来る。佑樹は決意して、タワー・レコードの角を右折して、暗闇に包まれた山手線の高架下を走り抜けていった。そして山手通りを横断して、上り坂となる美竹通りへと駆け抜けていった。そんな佑樹の後方では、自家発電なのか、宮下公園に連なって作られた飲食店街、渋谷横丁が煌々と明かりを灯して、闇に明るく浮かび上がって見えていた。
闇に包まれた通りの周辺では、夜に心を茫漠とさせて、目的を失った数体の怪物が、あちらこちらで上体をユラリユラリと揺らしながら立ち止まっているのが見えた。
佑樹はそれらを目にして、歩みを静かに、気配を殺して、右手にPP・2000を、左手に先端の折れた日本刀を用心深く構えた。息を潜めて、数歩を歩き出していった。すると唐突に、横から何かが飛び付いてきて、佑樹が感知でき得るすべての世界が真っ暗になった。佑樹はどうやら怪物に、素早くその頭をもぎ取られたようだ。
佑樹は上体を歪めて、強烈な喪失感に苛まれながら現実世界へと戻ってきた。表はすでに夜になって、真っ暗になっていた。佑樹は一旦、ゴーグルを外して、「畜生!」と吐き捨てた。
それから大きく息を吐き出し、頭を振って、ふたたびゴーグルを装着すると、コントローラーにオンをタップして、ゲームを淡々とリセットした。『プレイ』の中から『コンテニュー(継続)』を選んで、佑樹は、さっきまでいた美竹通りへとトリップしていった。夜にも関わらず、佑樹はゲームに熱中して、部屋の明かりを点けることさえ忘れていた。
佑樹は、夜の暗闇の美竹通りに現れると、通りを246方面へと上っていった。そして何かの出現を右手に感じ取った瞬間に、勘に頼って、利き手の日本刀を強く振り抜いた。
次の瞬間、刃が怪物の側頭を叩き割っていた。怪物は刃が脳に食い込んで、かすかに息をしていたが、数秒経って、完全に息絶えて、グラリと倒れて路上へと横たわった。・・・同時にモニターにあるジライヤのポイントが、4ポイントに上がった。
それでも周辺の怪物たちは、佑樹の反撃には何ひとつ反応しなかった。頭を揺らして、ぼんやりと立ち続けているだけだった。どうやら日本刀だけの攻撃では、怪物たちの猛烈過ぎる殺意は目覚めなかったようだ。
佑樹はそう思って、全方向に注意を巡らせて、利き手の日本刀を構えた。そして両手で日本刀を構え、足音を立てずに、佑樹の一番近くにいる、通りの真ん中で茫然と立っている怪物の背後へと回り込んでいった。ところが殺意が、怪物に伝わった。
怪物が背中にあるいくつかの目を不意に見開いて、日本刀を振り上げて、背後へと迫ってきた佑樹の姿をギョロリと見つめた。佑樹はそれを知って驚いたが、力一杯に、横一線に日本刀を振り抜いて、怪物のその首を撥ねた。・・・同時に、ジライヤのポイントが6ポイントになった。
次の瞬間、通りの周辺にいた怪物たちが、日本刀を手に持った佑樹の存在を感知して、佑樹に向かって素早く動き出してきた。・・・どうやら怪物たちは、1体がその目に獲物を見つけると、半径30メートルほどの圏内にいる他の怪物たちにも、そんな獲物の情報が瞬間的に共有されるようだ。・・・見える場所には前方に2体が、左手には1体が、そして後方にも1体がいた。
佑樹は右手に持ったPP・2000で、次から次へと突進してくる怪物たちを続けざまに銃撃した。2体が祐樹の銃撃を受けて、体の動きが急に止まって路上へと転がった。
佑樹は続けて、左手側の公園から出てきてガードレールに引っかかって前のめりになった怪物の上体をPP・2000で銃撃した。それから後方に振り返って、ジャンプして飛びかかってきたもう1体を銃撃した。怪物が首と顔面に被弾して、中空でピタリと身の動きを止めて、勢い余って巨体を路面に叩き付けて転がった。
佑樹はそれを見て、今がチャンスと日本刀を振り上げた。すると彼の背後で、最初に銃撃を受けていた1体が、その身を起こして、素早く路面を踏み切った。
佑樹が、路上に座り込んだ怪物の頭を叩き斬ろうと、日本刀を一線に振り抜いた。ところが瞬間、背後から突進してきた怪物が、佑樹の体を一気に押し倒した。そして佑樹を掴んで、勢い余って路上で2回転したかと思うと、すかさず起き上がって、彼の頭を噛み砕いた。人間の脳ミソの味わいは格別だったらしく、佑樹の頭を食べた怪物が、三日月が浮かんだ夜空を仰ぎみて、目の無いその顔に舌なめずりをした。
佑樹は驚いて、思わず後退りして、ソファに脚がぶつかって、その上にうずくまった。心臓がドクンドクンと高鳴っていた。佑樹はゴーグルを外して、何度か大きく息を吸って、懸命に呼吸を整えた。外からの明かりだけのリビングルームは、仄かに明るい住宅街の闇に包まれていた。佑樹は強烈すぎる喪失感を堪えて、心に重くのし掛かって感じる疲労感に苛まれていた。
それでも佑樹はソファから立ち上がると、テレビの画面へと向かった。佑樹にはちょっとした考えがあった。そして、ふたたびゴーグルを顔に着け、コントローラーのオンをタップして、『プレイ』に7分巻き戻して、『コンテニュー』を選択した。
佑樹は明かりが灯った渋谷横丁を後方に、放置車両の少ない、夜の闇に包まれた明治通りを一際暗く感じる美竹通りへと渡っていった。佑樹は利き手の日本刀は構えずに、右手のPP・2000だけを近くに見えている怪物に向けて、息を殺して、気配を潜めてその坂を上った。
佑樹は身の動きを静かに、体をユラユラと揺らしている怪物の傍らを横切っていった。そして長身の怪物の脇を通って、怪物の目が開くのではないかと、息を飲み込んだ。
近くですれ違うと、172センチの自分の身長が、大きな怪物の胸にも満たないことが明白になった。それを知って今更ながら、強烈な恐怖が彼の心に込み上げてきた。
深い闇の中では、怪物たちは旺盛だった攻撃性を忘れているようだ。そんな怪物たちなら、自分のような術を知らない新参者でも確実に殺すことが出来る。それでもここでは、怪物の首を斬り落としたいと思う猛烈な願望を根っ子から抑えた。ただただこの道を無事に通り過ぎることだけを考えていた。
殺意を抑えて気配を殺したら、案の定、怪物たちはその目を見開くことをしなかった。佑樹は気を抜かず、足音を低く、2体の怪物たちの間を静かに歩き抜けていった。
それから通りに横たわった労働者らしい男の、首無し遺体のその横に立つと、ある事を思いついた。祐樹は静かに姿勢を低くして、音を立てずに上着のポケットをまさぐった。ラッキーなことに、男のパンツの左のポケットからは銀色のジッポーのライターが見つかった。佑樹はそれを手に取って、自身のパンツのポケットに入れた。
そして佑樹は、停電しているローソンがある交差点を左折して、月明かりだけの路地を歩き抜け、その先に見えている青山パークタワーや渋谷アインスなどの高級マンションが建ち並んだ、一段と深い暗闇に包まれた住宅街を目指した。すると、路地の終わり頃に、こちらを向いている怪物をもう1体みつけた。佑樹はそれを知って息を止め、足音を潜めて、そんな怪物の間近を注意深く通り過ぎていった。
佑樹はどちらを探検してみようかと、通りの左右にある青山パークタワーと渋谷アインスの建物を見渡した。そして祐樹は思案して、どうせ行くなら巨大な建物に行った方が得るものが多いだろうと判断して、右手側に建った、青山パークタワーに行ってみることにした。
佑樹は、電源が落ちて開きっ放しになっている正面ドアを通って、淡い月明かりだけのエントランス・ホールへとやって来た。地上階には、いいや、少なくとも見渡せる場所には、怪物は1体もいなかった。当然、エレベーターも止まっていた。
佑樹は一旦、立ち止まって、上階に向かうべきか、地下へと向かうべきかをじっくりと考えた。そして、より深い暗闇を求めるなら地下に限ると、エレベーターの横側にあったそのドアを開けた。
そして佑樹は右手を壁に付け、一歩一歩を用心深く進め、地下駐車場へと向かう真っ暗な階段を、でき得る限り音を立てずに降りていった。
そして、音を殺してドアを開け、地下の駐車場へと出てきた。地下にある駐車場は際限なく真っ暗で、少し肌寒く、広々として感じた。左手の奥にある地上へと向かう斜路の周辺だけが、ほんの少しだけ外の光の反射を残していた。
佑樹は気持ちを引き締めて、深い、深い闇の空間へと歩き出していった。四方の見えない闇の世界には、奇怪に感じられる、凍りついた静けさだけがピンと張り詰めていた。
佑樹は近くに駐車されている高級外車のボンネットに手を付いて、用心深く、ゆっくりと進み出していった。斜路から空気が流れ入っているためなのか、闇ではかすかに、大気が緩やかに動いているかのように感じられていた。
佑樹はとりあえず駐車場内を一回りしようと、ゆっくりと車道に歩き出していった。
少しすると、どこかでチャリ・・・チャリ・・・と聞こえる小さな物音がして感じた。その音は、現実世界で稀に耳にすることがある、気圧や温度や湿度の変化によって生じる『ラップ現象』かも知れなかった。
佑樹は駐車車両のボンネットに手をやりながら、さらにその先へと進んでいった。チャリ・・・チャリ・・・と、また音がした。すると、唐突に肩の近くを何かがすれ違っていったように感じた。それは、いわゆる錯覚かも知れなかった。深い闇の最中で強い緊張と恐怖を強いられているために、萎縮した彼の心がそんな感触を感じ取ったと勘違いしているかも知れない。
次には正面の闇のただ中で、空気がかすかに、ユラリと動いたように感じた。そこでは何かが静かに、ザワザワと蠢いているかのようだった。
少し進むと、今度は何かが腕に当たったように感じた。次には、左の太腿の辺りに何かが触れて感じた。頬の近くでも何かがかすかにすれ違って感じた。佑樹は足が止まって、心臓がバクバクと鳴って、恐怖にその身をすくませていた。
佑樹は静かに、大きく呼吸した。それから正面とその周辺を狙って、右手のPP・2000を注意深く構えた。そして左手にあった日本刀の棟をその口に咥えた。次には、ジーンズのポケットからジッポーのライターを手に取り出した。そして、音を立てずに蓋を開け、周辺を確認しようとライターを着火した。
ライターの小さな炎の明かりを受けて、駐車場内の周辺が浮かび上がって見えた。するとそこでは、数百体の怪物たちが音を静かにうねるように蠢いていた。・・・何と言うことだ。高層マンションの地下に広がった駐車場は、夜に動きを鈍くする怪物たちの巣窟になっていたようだ。
佑樹はそれを見て、驚いて、心底怯えて、「あーっ!」とわめいて、右手のPP・2000を盲滅法に撃ちまくった。 20から30体ほどが体のどこかに銃撃を受けて、瞬間、身の動きを止めた。ところがそれ以外の怪物たちが三角の歯をむき出して、すぐさま佑樹を目掛けて、我先にと飛びかかってきた。目にも止まらない速さだった。次の瞬間、佑樹のすべての感覚が真っ暗になった。どうやら佑樹は、その中の1体に、やにわにその頭をもぎ取られたようだ。
佑樹は愕然となって現実世界へと戻ってきた。短い電子音のメロディと一緒に、テレビの画面には、『ゲームオーバー』が表示されていた。佑樹は腰の力が抜けてしまって、その場所へと座り込んだ。今回の『フリークス2』からの離脱は、初めての感覚を伴っていた。言葉にしがたい喪失感や空虚感を感じると言うよりは、ただただ底なしの恐怖に転がり落ちていって愕然としていた。頭のてっぺんから足のつま先までが恐怖に怯え切って、ガタガタと震えていた。
佑樹は思い出したかのようにゴーグルを外した。それからコントローラーを傍らに置いた。佑樹は強烈すぎた驚きに全身が固まって、その目を大きく見開いていた。頭の中には、ライターの炎に浮かび上がった、さっきあった一場面が猛烈にこびり付いていた。何10体もの怪物たちが、一度に自分を目掛けて襲いかかってくる光景を、何度も、何度も思い返していた。思い出したくもないのに、そんな場面がくり返し蘇っては消えていった。
リビングの大窓から入った月明かりの下で、佑樹は全身の力が抜け切ってしまって、ソファへともたれた。そしてテレビの画面に映った『スクリーム・オブ・フリークス2』のタイトルと、自身が離脱した場所を示している美竹通りの付近のシブヤの地図をぼんやりと見つめた。佑樹は力尽きたと感じてしまって、二度とその場所には戻りたくないと思った。闇に目にしたその場面が怖すぎて、その瞬間の心の痛みが強烈すぎて、しばらくはこのゲームはやりたくないと思った。
翌日、佑樹は朝に目覚めると、近くにある馬事公苑まで出かけていって、しばらく当てもなく散歩した。そうして朝にジョギングしている人たちや、愛犬を散歩している人たちをぼんやりと眺めていた。佑樹は朝の清々しい風景やそんな健康的な人々に目をやって、小鳥のさえずりを耳に感じて、それらを少しでも微笑ましく感じられるようにと努力していた。昨夜の恐怖が、頭のどこかに強くこびり付いて感じていたからだ。
部屋に帰ると、インスタントの黒ラベルのホットコーヒーを飲んだ。それからソファに座って、テレビに朝の情報番組を見た。リモコンを片手に、時々チャンネルを変えながら30分ほどそれらを見ていたが、やはりテレビの番組はどれもつまらなかった。
結局は、ネットTVに番組を選んで、お気に入りのセクシー・アニメ『夢見るビッチ』を見ることにした。そのアニメは、公開された一昨年前からすでに何十回も見返している。ストーリーも、場面場面も、セリフの一つ一つもすべて残らず記憶しているが、メイドのローラがその家にやって来る初回から改めてそれを見ることに決めた。祐樹は、昨日『フリークス2』で感じた強烈な恐怖を、何とか少しでも消し去りたいと考えたのだ。
『夢見るビッチ』とは、天然キャラで、小まめでご奉仕好きな、何事にも「いや」と言わないメイドのローラと、一応、大学生だが、試験日以外は大学に通わない、オタクで、ニートで『インセル』なヒロちゃんが無軌道に送る非日常的な日常を描いて、世界的にヒットしている日本のアニメだ。12話構成の物語には、ズボラで臆病で、妄想癖のあるヒロちゃんの、些細だが少し図々しい欲望や様々な願望に、セクシー・メイドが時に素直に、時に茶化して面白おかしく対処してゆく毎日が描かれている。中でも、両親が日本に帰ってきて、ローラが家から出てゆく最終回は極めて感動的である。
ちなみに『インセル』とは、インターネット時代の現代に表出した『望まない禁欲者』、『非自発的な独身者』の意味で、簡単に説明すると、女性と交際することが出来ない『非モテ』の男のことを言う。そしてメイドのローラは、オッパイが大きくて、脚が長くてスタイル抜群だが、少し幼い顔立ちをした、ショートヘアの年上の女性で、とても美的で、頭の回転が速く、シャレが効いていて、同世代の女性が見ても愉快で嫌悪感を感じさせない、キュートでオシャレなエロ可愛いキャラである。そんな難あり男のヒロちゃんが、両親が海外転勤した札幌の高級住宅街の一軒家で、住み込みのメイドのローラと2人きりで生活をする。また、2人が口にする「だべさ」や「なまら」や「したっけ」や「しばれる」などの札幌弁の言葉が、若者たちの間で「ちょい可愛い」と話題にもなっている。
ローラのキャラはニッチだが、世界的にも人気があって、彼女のポスターやフィギュアなどは、佑樹のベッドルームにも飾られている。日本製のそのアニメは、いずれはハリウッドで実写映画化されるのではないかとも噂されている。
佑樹は食感の軽いギザギザポテトの大袋を食べて、メロンソーダのグミやファジーネーブルのアイスクリームを口に入れながら『夢見るビッチ』を観て、テレビの前で昼の日中を過ごしていた。ところが最愛のアニメを観ていると言うのに、そして話が途中だというのに、やがてはそれを観ていることに、ちょっと退屈さを感じるようになってしまっていた。脳のどこかで刺激が足りなく感じてしまっている。と言うより、人生でこれまでに経験したことがない強烈な恐怖を味わったと言うのに、なぜか体がムズムズして来て、今一度『フリークス2』の暴力的かつ破壊的な世界にトリップしたくなってしまっていた。
佑樹は『夢見るビッチ』を観るのを止めてしまう前に、まずは考えた。・・・『フリークス2』を続けてゆくには、何か他にも自分に有利な、あるいは自分に有益な武器か、強い味方が必要だと思った。
佑樹はテレビのアニメをスチルにして、手にしたスマホをテレビにリンクして、スマホの画面をテレビ画面に大写しにした。それからスマホに電話帳を開いてみた。・・・思っていた以上に佑樹には、プライベートな相談が出来る、信頼できる友達が少なかった。いわゆる本当の友達についてだが。・・・共通の話題を探して、わざとらく話をしたり、くだらない冗談に同調し合うような上部だけの友達ではない。・・・実家がある、都会人になりたい田舎者の集まりである名古屋には一人も友達がいなかった。従兄弟や鳩子も妬みが多くて、付き合い自体がバカバカしく思えて、親しくはなかった。
佑樹はそれならと、通話履歴をさかのぼってみた。テレビの画面にジョージの顔写真が大写しになった。次もジョージだった。その前は母親だ。その前も母親だ。その前はジョージ。その前は父親だった。母親。母親。母親。父親。その前が、またジョージ。するとその次に、川崎市内に住んでいる、幼なじみの長谷川瑛太の顔写真と電話番号がテレビ画面に大写しにされた。
長谷川瑛太は子供の頃には佑樹と同じ名古屋の千種区に住んでいた。佑樹とは小学校の同級生だった。運動神経が抜群で、ケンカが強くて、幼い佑樹は、同級生にイジメられそうになっていたところを、何度か彼に助けてもらったことがあった。それが縁で、親同士が友達になった。そして瑛太の父親の転職の際には、佑樹の父親が口利きをして、瑛太の父親は、初当選した自民党の若手の代議士の地元を守る私設の秘書となって、家族で川崎へと引っ越していった。
瑛太は高校生になってもケンカが強いままで、生まれながらに格好が良くて、ちょっとしたカリスマ性があって、何10人もの先輩たちを差し置いて、神奈川県の一帯を傘下にする暴走族の総長になっていた。
佑樹は瑛太の顔写真をテレビの大画面に見つめて、閃いて、その目を輝かせた。・・・そして瑛太とスマホで10分ほどを話すと、ふたたびソファでくつろいで、『夢見るビッチ』の続きを観ることにした。1話45分のアニメをトータルで6話まで観ることが出来た。
ローラはやはり最高の女性だった。佑樹はアニメを改めて観返して、世界がどれだけ広いとしても、自分が本気で心から愛せる女性は、名古屋に住んでいる自分の母親と、『夢見るビッチ』のローラだけだと思った。
その日の夕方の5時前。佑樹は改めて決心すると、コントローラーを手に、テレビに表示したグーグル・マップに、行く先を表参道と明治通りの交差点に定めた。それからVRゴーグルをその顔に着けて、『フリークス2』の仮想世界へとトリップしていった。
夕暮れの表参道では、配送用のトラックだけが246から表参道へと上がってきて、人工灯に明るく浮かび上がった静かな通りを走り抜けていた。通りを上ってきた3台のトラックは、次から次へと通りの要所となる商業ビルの路側へと駐車していた。そしてビルから出てきた住民たちや自警団の者たちに周囲を守られて、割り当てられた食料品と飲料をそれぞれのビルの地上階へと搬送していった。
そして、それらのトラックは神宮前の交差点でUターンして、同じように下りの通り沿いにある要所のビルへとインスタントやレトルトや冷凍食品を搬送していった。すると佑樹がPP・2000と日本刀で武装して、そんな表参道のやや上方にあたる明治通りとの交差点の真ん中へと現れ出してきた。
佑樹は交差点の周辺の物陰に注意を傾けて、交差点の角にある『オモカド』へと歩き出していった。そして、地上階にあるトミー・ヒルフィガーのショップの店内をウインドウから覗いた。佑樹は店内に、以前に話を聞いた大人の1人を見つけると、その男と顔を見合わせ、頷いてみせて、電源を切っている自動ドアを彼に手動で開けてもらった。
日本刀を下ろして店内に入ると、佑樹は白髪の男に、「マモルはどこにいますか?俺はマモルに会いに来たんです」と、以前にこの街で出会った少年の居所を尋ねた。
それに男が、「マモルなら、ケガ人が運ばれてきたってことで、ヒルズに行っているはずだ」と答えた。佑樹はそれを聞いて、医者でも看護師でもないのに、どうしてマモルがケガ人に会いに行っているのかが分からなかった。皆目、見当がつかなかった。
すると男が、「マモルに会いたいなら、ヒルズに行ってみると良い。きっと今なら、マモルのことを知ることも出来る」と続けた。佑樹はその言葉に少しだけ戸惑ったが、すぐに頷いて、「そうですね。そうしてみるつもりです」と応えた。それと同時に、ここの人たちは、一体、マモルの何を知っているのだろうかとも勘ぐってもいた。
地上階のショップから出てくると、表参道は夕焼けのオレンジ色のグラデーションに鮮やかに染まっていた。佑樹は通りの周辺に見えている物陰や暗がりに注意を傾けて、PP・2000と日本刀を両手にしっかりと構えた。念のために身の安全を考えて、歩道から降りていって、あえて表参道の下り車線の真ん中を歩いた。
神宮側の地平にゆっくりと傾いてゆく夕陽を背にしながら、佑樹は表参道を慎重に下っていった。放置された駐車車両の陰や路地の茂みに何かが動いて感じることがあったものの、結局は何事もなく、無事に表参道ヒルズのエントランスにまでやって来ることが出来た。
ヒルズのエントランスのドアのガラス越しに、佑樹は門番を買って出ている3名の高校生たちに、「マモルって男の子に会いに来たんだ。どうか、中に入れてくれ」と話した。
1人が、「ちょっと待ってて。大人の人を呼んでくる。すぐに戻ってくるからさ」と応えた。佑樹がそれにちょっと焦って、「早くしてくれ」と頷いて返した。
1分ほどで、さっきの高校生が大人を連れてエントランスへと戻ってきた。そして佑樹を指差して、「この人だよ」と言って、連れてきた女性に頷いてみせた。女性は佑樹の日本刀とサブ・マシンガンを持った装備に目をやって、すぐに「大丈夫よ。この人はプレイヤーだわ。入れてあげなさい」と告げて、高校生たちにガラスのドアを開けさせた。
佑樹は日本刀を下ろして、PP・2000に安全装置を掛けた。そして女に案内されながら、ヒルズ内を歩いた。女は途中、フロアを246方面へと歩きながら、佑樹に「あなたはマモルに会いに来たそうね。何が目的なの」と話した。
佑樹は女の言葉を聞いて、少し困ったような顔付きになった。なぜなら、こうしてマモルに会いにきたのには、大した意図もなく、これと言った確信もなく、少年と話をしてみたら『フリークス2』の何かを知ることが出来るのではないかと直感しただけだ。初めてマモルに会った時に、マモルはそんな不思議な存在感を称えていた。佑樹は単に、ワラにもすがる思いで、ゲームの対処法を少しでも知るために、彼に会いに来ただけだ。
何より『フリークス2』の世界で何かが分からなくなった場合には、佑樹は必ずこの街に戻ってくるつもりだった。意図せず、この街にやって来た際に、この街にいる大人たちが彼にそんな知恵を授けてくれたからだ。ようするに、佑樹は勘の良い、抜け目のない、とても利口な青年だ。佑樹は、実力者の父親の言動を常に近くに見て育ってきた。そんな父親の姿を頭に刻み込んできた。なので、意図をしなくても、彼は集団の中では、自然に父親の言動を模倣して成功をくり返してきた。
女は、頭を捻ってみせた佑樹に目をやって、「面白い人ね。プレイヤーがマモルに会いに来るなんて、本当に珍しいことなのよ」と続けて、鼻で笑って彼を案内して、地上階にある奥まったショップへと彼を連れていった。
ショップのその中は、簡素な診療室と処置室を一体にしたような施設に改装されていた。いわゆる救急処置室のような場所だ。フロアがひどく鮮血にまみれていて、簡素な手術台に横たわった患者の男は、モルヒネを投与され、失った左腕と肩に作られた鉤爪による深い裂傷を消毒されて、丁寧に縫合されて処置された後だった。患者はどうやら怪物に襲われて、なんとか死ぬことを免れて、ここまで逃げ延びてきたらしい。
医師と看護師たちは医療用の手袋やエプロンを血まみれにして、まるで野戦病院のような様相になっていた。そんな室内の診療室にある1脚の回転椅子に、マモルは奇妙に平然と座っていた。佑樹はそんな室内の状態と、手術台にいる重傷を負った患者と、血まみれになった医師たちと、マモルの姿を目の当たりにして、呆然となって絶句した。
医師が患者の切断された左の上腕に包帯を巻き終えると、大きく息をして、一息をついて、注射器を手に、マモルの前へとやって来た。そしてマモルに頷いてみせると、マモルはすべてを承知しているような顔付きをした。
医師はそんなマモルの内腕静脈に注射針を入れ、ゆっくりとマモルの血液を注射器に採血した。そして手術台に横になっている、強いモルヒネで眠りと無意識の間を朦朧とさまよう男の傍らへと戻ってきた。医師は男の失った左腕の上部のその肩に注射針を入れて、男自身の免疫能力を無理なく高められるよう、彼の体にマモルの血液を的確に注入した。
佑樹はそうした医師の奇怪な行動を目の前にして、ここでは一体、何が起きているのだろうかと、訳が分からなくなった。
するとマモルが、その店の入り口近くで呆然としている佑樹に気付いて、少年らしくニッコリと笑った。そして椅子から立ち上がって、佑樹の前にやって来て話した。
「どうしたの、お兄ちゃん。・・・懲りずに、この街にやって来たんだね」
佑樹はその言葉に、我に返ってマモルに頷いてみせた。それから「何ひとつ定かじゃないけどさ。・・・君なら、この世界のことを、何か特別に知っているんじゃないかなって思ってさ」と、少年に尋ねた。
「どうしてさ。どうして、そんな風に思うのさ」
「うーん。・・・何でかな?」
佑樹はそう言って、その首を傾げた。それから少し考えて、真顔になって話した。
「そうだな。何となくって感じかな。・・・君はあの時、僕に建物に入るようにって誘ってくれた。世界のほとんどの人たちは、そんな人助けはしないだろ?だって皆、自分のことだけで精一杯だ。他人のことを考える余裕なんて、どこにもない。クーポンやらポイントやらって、年中暇なく自分が得することばかり考えている。・・・だけど、君だけは違ったんだ。だろ?」
佑樹はマモルに案内されて、日本刀とPP・2000を両手に構えて、夕闇に包まれて車が1台も通らなくなった、街の明かりに鮮明に浮かび上がった246との交差点を注意深く渡った。そうして通り沿いのショップのウインドウの明かりを傍らに、周辺を包み始めた闇のその中に懸命に注意を凝らし、青山墓地の方面へとその道をまっすぐに進んでいった。
まっすぐな通りの突端辺りには、ショップの明かりが煌々と見えている。しかし、そこから先は住宅地になっているらしく、急激に明かりが少なくなっている様子だ。佑樹はその道を進み、次第に明かりが少なくなってゆく通りの前方を不安そうに見つめ、心臓がバクバクと高鳴っていた。ところがマモルはそんな佑樹を促して、ショップの明かりから次のショップの明かりへと上手く通りを渡り歩いて、意外なほどに整然としていた。
マモルは佑樹を案内して、夜の闇に包まれるようになった、骨董通りから続く明かりの少ない根津美術館前の交差点へとやって来た。マモルは交差点の歩道に立ち止まると、その顔を引き締めて、傍らで闇に向かってPP・2000を構える佑樹に頷いてみせた。
そして佑樹に、「それじゃあ、行くよ。ここからは全力で走るからね」と知らせて、全速力で走り出していった。佑樹も頷き、それに遅れずその後を追った。
2人が交差点へと飛び出してゆくと、1体の怪物が背後になったビルの暗闇を唐突に踏み切って、金切り声を上げながら2人に向かって飛びかかってきた。佑樹は驚いて振り返り、右手のサブ・マシンガンで怪物の胸と目の無いその顔を銃撃した。怪物は中空で身の動きを失って、路上に落下して巨体を乱暴に転がした。佑樹はそれを見て慄いて、通りを横切って走ってゆくマモルの後を追って、訳も分からず通りの向かい側にあった大きな建物のエントランスへと走り込んでいった。
ドアが閉まると、そこは根津美術館内のエントランスだった。その場所は日本と東洋の古美術コレクションを展示する、都会の真ん中に日本庭園を擁した、瀟洒な美術館だった。広々とした空間を備えたエントランスのその先では、白衣の林香澄博士が、2人の到着を待ち受けていた。林香澄は、図らずもこの世界に怪物を創り出してしまった、『つくば』のタカラダ生化学研究所の出身者だ。遺伝子操作による人類からのガンの撲滅を研究して、歳月を重ねてきた。
この美術館が何なのか?どうして少年が自分をこの場所に連れてきたのか?佑樹は理由がまったく分からないでいた。そんな風に思いながらも、言葉少なく微笑を称えた香澄に連れられ、古美術品が点々と展示されている、大きな窓の向こうに庭園を見晴らす美しいホールを歩き抜けていった。途中、マモルがニコリと笑って、どことなく不安そうな佑樹を横目に、「博士は生化学の実力者だよ。ここでは、この世界に隠蔽されてきた重要な秘密を解き明かそうとしている。どうして怪物が誕生したのかってさ」と打ち明けた。
館内に展示されている多くの芸術作品は、半分ほどが欠けている。どうやらそれらは地下にある収蔵庫に収められ、徹底して管理されている様子だ。そして香澄に案内されて、佑樹とマモルは館内を歩き抜け、第一展示室へとやって来た。
建物内で一番広い第一展示室には、デスクや作業用のコールドテーブルや、次世代遺伝子解析装置や、生化学のための各種の機器が中央部分に整然と並べられていた。そして、それらを取り囲んで、実験動物用のガラス・ケースが広いホールの展示ケースの前に沿うように、縦に3層に、総計400個ほどが並べられていた。
加えてそこには、ガラス・ケースの中の様子をチェックしている白衣の生化学博士と、デスクでコンピュータに検査結果を精査しているもう1名の生化学博士がいた。デスクにいる方は、『つくば』の生化学研究所で『アンチ・キャンサー・プロジェクト』を担当していた水沢茂久だ。そしてガラス・ケースの近くにいるのが、同プロジェクトの責任者だった永井満である。
2人は目の前の仕事に集中しているらしく、香澄と一緒に展示室の入り口にやって来たマモルと佑樹に振り返って、淡々と会釈した。佑樹はそんな2人の大人たちを見て、単なるプレイヤーの1人でしかない自分は、どうやらこの場所には歓迎されていない様子だと悟った。
案の定、3名の中のリーダー格である永井博士が、先端の欠けた日本刀とサブ・マシンガンを両手に持った佑樹の姿に目をやって、眉をひそめて、「どうやら、君は何10万人の内の1人のようだな。この場所に部外者がやって来るのは久しぶりのことだ。・・・それで?君は何が知りたくて、この場所にやって来たんだ?」と尋ねた。
マモルが、佑樹を擁護するように博士たちに話した。
「お兄ちゃんには、責任ないんだ。・・・わざわざ僕に会いに来たからさ。だって、普通はスルーされちゃうでしょ。街で生き残っている市民のことなんてさ。プレイヤーたちは何とか自分が生き残るだけで精一杯だ。後はフリークスを殺して、ポイントを稼ぐことばかり考えている。・・・だから、そこで考えたんだ。ちょっとだけなら、この世界の秘密を教えてあげても構わないかなってさ。・・・ゴメンね。これは僕が勝手にしたことだ」
実験動物用のガラス・ケースには、それぞれに1匹ずつのマウスが入れられている。ここでマウスが実験用に使われているのは、マウスが繁殖能力が高く、世代交代の期間が短いために育種改良や実験用個体数の確保が容易で、ゲノム情報も豊富に蓄積されているからだ。
ケースに飼育されているマウスたちは、すべてがマモルと同じ遺伝子操作が施されたものたちだ。そんなマウスたちの体内にはガン細胞が移植され、免疫機能が強化され、活性化されている。ほとんどのマウスたちには細胞のガン化が無くなっていた。骨組織と筋肉が増強されて、それらは健康そのものの状態にあった。中には途中で免疫力が低下して、ガン細胞が増殖してしまって、悪化して、あげくは体内に転移して、死にゆくものたちがいた。
次に並んだケースの中には、石油液化ガスが一杯に張られて、そこには遺伝子操作されて健康かつ強靭になったマウスたちが、2週間の期限付きで沈められている。多くは生体に有害な液化ガスのプールに落とされて、怯えて暴れて早々に液化ガスを飲み込んで、液体の中へと溺れてゆくものたちがいた。あるいは懸命に泳ぎ続けて、泳ぎに泳いでも岸が無く、それでも泳いでやがては疲れ果て、液体を飲み込んで溺れてゆくものたちがいる。そんな中でもいくらかは、無駄に足掻かず、過酷な環境に適応するかのように肺呼吸を止めて、仮死状態となって液化ガスのただ中へと沈んでゆくものたちがいた。溺死したのか、溺死していないかは、その時点では定かでなかった。
そして、死んでしまったものたちが廃棄され、焼却炉で灰にされてゆく。また、そんな過酷な過程を経ても、極めて少数だが生き残っているものたちがいた。
今度は2週間が経って、液化ガスのプールから取り出したものたちを陸へと戻し、それらには呼吸が無いものの心拍があることを確認して、そんなものたちの蘇生の過程を注意深く観察した。そして少しずつ、段階的に怪物へと変化してゆくその過程を確認する。
美術館内を本拠地とした3名の生化学博士たちは、ここにはこの世界の深淵があると説明した。この場所は、それを確認するための施設だと言うのだ。
そして3名は、まずは佑樹と一緒にいるマモルのオリジナルが、この世に何のために、そしてどのように作られたかを説明した。
それは多くの人類が直面している、ガンによる衰弱と死を根絶するためだった。そして、そのオリジナルは体内の免疫機能を強化するべく遺伝子操作されて、この世に生み出されてきた。赤子は人類の希望を具現化する存在だった。
マモルは強くて、丈夫で、健康に育っていた。ところが8才になると、不幸が彼を苦しめることになった。母親の過去が原因で、学校内で陰惨なイジメの被害に遭うようになったのだ。
マモルは、体は人一倍に丈夫だったが、心はどこにでもいる少年たちと何も変わらなかった。ガラスのように脆かったのだ。そしてある時、マモルはひどいイジメに耐えられなくなって、自らの死を選んだ。誰にも知られずに死ぬことを望み、石油液化ガスが満杯に近かったガスタンクの中へとひとり飛び降りたのだ。
マモルは2週間の間、石油液化ガスのプールのただ中に溺れ、その底へと沈んでいた。発見された時には、石油の成分に溶解されて、その顔からは眼球がなくなっていた。さらには肺呼吸をしていなかったので、貴重な実験体である少年は、すでに死んだものだと思われていた。ところが少年には心拍があった。
生化学者たちは、研究所の中に少年のためのベッドルームを作り、注意深く少年の経過観察をして、彼が蘇生することを心から願っていた。少年の存在は、それほどまでに世界にとって貴重だったからだ。
ある時、少年は身体中から石油のような汗とヨダレと涙を流して、肺呼吸を取り戻すようになった。それでも少年は眠り続けたままだった。
それから3ヶ月ほどが経過して、少年の毛髪が唐突に伸び始めた。耳の先端が尖って伸び、その口が少しだけ裂けて大きくなっていた。加えてその歯が三角になって、少年の可愛かった容姿は、ひどく醜くなってしまっていた。さらには体が急激に大きくなって、両腕と両脚がそれよりも長くなり、全身のバランスが奇妙な状態になった。
次に、少年の全身には小さな瘤が出来るようになった。加えて四肢がさらに伸び、自殺を図った当時は130センチほどだった少年の身長が、失踪してしまうその前には180センチを超えるようになっていた。
後に、失踪した当日の監視カメラの録画映像を確認すると、少年はさらに大きく口が裂けていた。加えて、手足の爪が鉤爪になっていて、全身にあった瘤が突然見開いて、驚くことにそれらが一つ残らず目になっていることが分かるようになった。
それから数日後に、研究所があるのと同じつくば市内で、心を凍り付かせる猟奇殺人事件が起きた。それは幼い兄弟がほとんど骨だけにされると言う凄惨な事件だった。
研究所の生化学者たちは、事件を担当したつくば署の刑事たちに依頼され、事件があった現場近くの録画映像を確認した。すると、それに映っていたマモルの体長はすでに2メートルを超えるまでに伸びていて、全身の皮膚が灰緑色に変色して、今見る怪物に近い様態へと変化していた。加えて生化学者たちは、現在の怪物たちのあの様態はあくまでも暫定的な形状であって、いつか将来には、怪物たちがもっと違った様態へと変化してゆくのではないかと言った可能性を指摘した。
3名の生化学者たちは、マモルが生化学研究所から失踪して以来、歯止めもなく少年の体内で暴走する免疫システムの研究に没頭するようになっていた。生化学者たちは何百匹ものマウスを使って、マモルの誕生から怪物に化体するまでの過程をくり返し再現し、そこに生じる個々のかすかな変調を納得できるまで精査していた。免疫システムの破壊的な暴走が『フリークス』と呼ばれる怪物をこの世界に創り出し、世界を危険で残酷な地獄へと変えてしまっていたからだ。
そんな世界を再生するには、怪物の誕生の謎と成長の謎をひとつひとつ紐解いて、怪物の弱点なり、限界なり、秘密なり、宿命なりを見つけ出して、怪物たちを1体残らず死滅させる必要がある。彼らは生化学が発端となって創り出された怪物なら、必ず生化学の力で死滅させられると考えていた。
永井博士が説明の最後に、佑樹に付け足して諭した。
「このことを知ったからと言って、君がフリークスの弱点を知った訳じゃない。良いね。勘違いするなよ。世界の背景を知ったからと言って、急に強くなれる訳じゃない。君はフリークスに出会ったら、とにかく全力で戦うしかない。死に物狂いでね。フリークスは自分が生き残るために人類を食べている。わずかに残った人類だった頃の記憶を懸命に保つために、人類の脳を食べ、大きな体を俊敏に動かしてエネルギーを過度に消費する体を回復するために、人類の肉を食べている」
ニヤリと笑って、水沢が続いた。
「10分なのか15分なのか、上手く長期戦に持ち込めたら、フリークスの動きは少しだけ鈍くなるはずだ。あえて言うなら、それが彼らの最大の弱点かも知れないね」
それに香澄が苦笑して、付け加えた。
「だけど、フリークス相手にそんなに持ち堪えるのは、ほぼ不可能。通常の人間にはそれだけの運動能力が無い。日常的に体を鍛えているアスリートだって、それは無理だと思うわ」




