第二十話 三人であるということ
一週間にわたる慌ただしくも濃密な準備期間が過ぎ去った。マリーが「姉魂」を燃え上がらせて混乱から再起し、レンがオタクの深淵を覗かせながら二人に制服を買い与え、そして何より、クロとシロがクリスチャンとしても冒険者としても驚異的な速度で自分を追い越していく現実にレンが打ちひしがれた、あの数日間である。
一行は今、カシウス家の故郷であるイクスを目指し、一台の魔石車に揺られていた。
この世界ニエフにおいて、魔法科学の恩恵は地球の文明に近い利便性をもたらしている。
通信機器や飛行機こそ開発されていないが、その他の生活道具の多くは魔法的な代替品が存在した。
その中でも「魔石車」は、維持費の高さから貴族や富裕層に限られた贅沢な移動手段である。
車体を動かす燃料となる魔石は、大型化すればするほど指数関数的に消費量が増える。
そのため、一般的には馬車が主流であり、レンたちが初めてファルバへ向かった際も馬車を利用していた。
今回、彼らが特別に魔石車を利用できているのは、ひとえにマリーの存在ゆえである。
若干十二歳にして三教科を兼任するエリート教師である彼女が、往復一ヶ月を要するイクス帰省で戦線を離脱することは、学院にとっても生徒にとっても耐え難い損失だった。
そのため学院側は、「往復の移動時間を短縮すること」を条件に、魔石車利用のための特別手当を支給したのである。
馬車が馬の休息を必要とするのに対し、魔石車は燃料が続く限り、地球の自動車を凌駕する速度で走り続ける。しかし、その利便性の代償として、車内では二人の絶叫が響き渡っていた。
「ね、姉さん……スピード、出しすぎじゃない!? もう少し安全運転を……!」
「マ、マリーお姉さま……もう少し揺れを少なく……うっぷ」
青い顔で座席に縋り付いているのはレンとクロだ。特にもともと犬であったクロは、獣人化してもなお、三半規管が乗り物の揺れに拒絶反応を示していた。
だが、運転席のマリーは止まらない。
「何よ二人とも! 魔石車なんてめったに乗れないんだから楽しまなきゃ! ヒャッハーー!!」
歓喜に満ちた声を上げ、未舗装のデコボコ道をドリフトで駆け抜けるマリー。その背後には、まるで世紀末の荒野を駆ける略奪者のような荒々しさが漂っていた。一方、後部座席で窓を開け、涼しい顔で「いい風」と呟いているのはシロである。カラスとして時速百キロを超える速度で飛翔していた彼女にとって、この程度の加速は心地よい微風に過ぎないようだった。
「姉さん、本当にお願い……休憩しよう……」
「レン……私、もうだめ……うえぇっ」
ついに限界を迎えたクロがリバースしそうになったのを見て、ようやくマリーは「バーサーカードライバーモード」を解除した。小川のほとりに車を止めると、レンは自分の酔いも忘れて必死にクロの背中をさすった。
「うぅ……レンの前で、あんな姿を見せるなんて。恥ずかしい……」
「大丈夫だクロ、誰だって酔う時は酔う。むしろ僕のせいで無理をさせてごめん」
レンはそう宥めつつ、姉を厳しく睨みつけた。
「姉さん、クロも大切な家族だって言ったよね? その家族がこんな目に遭うような運転はしないで。自分の欲望だけで他人を振り回しちゃいけないって、僕を諭したのは姉さんだろ?」
「うっ……正論すぎて、何も言えないわ……」
ぐうの音も出ないマリーから運転席を奪い、レンは代わりのドライバーとしてクロを指名した。
「姉さん、クロと交代して。運転している本人が一番酔いにくいんだ。クロの身長なら、ペダルに足も届くはずだろ」
当初は不安げだったクロだが、ハンドルを握ると意外な才能を発揮した。
「へー、これ面白いね。犬の時にレンを背中に乗せて走ってた感覚を思い出すわ」
クロの運転は、マリーに劣らぬ速度を出しながらも、驚くほど安定していた。乗り物酔いも完全に解消され、車内にはようやく平穏が戻った。
「クロ、運転うまいな。本当に、あの頃を思い出すよ。……まあ、今のクロの方が美人で嬉しいけどさ」
レンがふと漏らした本音に、クロの動揺がハンドル操作に直結した。
「ちょ、ちょっとレン! 運転中に変なこと言わないで! ……嬉しいけど!」
「レン、私にも運転させて。あと、私にも美人って言って」
シロまでもが対抗心を燃やし始め、車内は妙な甘い空気に包まれる。マリーは後部座席で
「……なんだか、昔カレン様のところへ相談に行った時と同じ疎外感だわ」としょんぼりと縮こまっていた。
翌日にはシロも運転を交代した。彼女の技術はさらに特異だった。マリー以上の速度でありながら、クロ以上の安定感を保つ。空を飛ぶ者が持つ天性のバランス感覚が、四輪の鉄塊さえも従わせていた。
「ん、悪くない。でも、やっぱり自分で飛ぶほうが好き」
そう呟きながら、シロは二日かかると予想された距離を一気に短縮し、お昼前には懐かしきイクスの町へと一行を送り届けた。
「パパー、ママー! ただいまー!」
玄関を開けるなり元気よく飛び込んだのはマリーだ。弟への説教のショックも、放置プレイの寂しさも、実家の温もりで上書きされたようだった。
一ヶ月ぶりの帰省に驚くウィリアムとレベッカ。レンは落ち着いて、二人に新しい家族を紹介した。
「父さん、母さん。紹介するよ。クロ、シロ。二人に挨拶して」
「お、お久しぶりです……ウィリアム父さん、レベッカ母さん。クロです」
「人として会うのは初めて。私はシロ」
数瞬の沈黙。そして認識が追いついた瞬間、レベッカは二人を力強く抱きしめた。
「二人とも、人間体になれたのね……!」
あふれる涙とともに二人を包むレベッカ。一方、ウィリアムは呆然と立ち尽くしていた。
「二人とも……女の子だったのか?」
ウィリアムは、かつての愛犬と愛鳥の性別を勘違いしていたらしい。シロはともかく、クロまでオスだと思っていた父の鈍感さに、一同は苦笑を禁じ得なかった。
「レベッカ母さん……優しい匂いがする。温かい」
「これが、レンが言っていた人間の母親の温もり……」
女性三人が抱擁し合う横で、ようやくウィリアムが「おめでとう」と絞り出した。クロとシロは、それぞれの性格そのままに言葉を返した。
「ウィリアム父さん、びっくりさせてごめんなさい。私も、レンのように家族になれますか?」
「ウィリアム、マリーとよく似てる。びっくりしすぎ」
ウィリアムからかけられた実直な祝福に対し、クロとシロはそれぞれの個性が際立つ言葉を返した。
「あ、ああ、クロ、シロ。もちろん二人は家族だ。人間になれたからじゃない、以前からずっとそうだったよ。でも、こうして言葉を交わせるようになる日が来るなんて……。シロ、先ほど君はマリーが私に似ていると言ったが、何か思い当たる節でもあるのかい? 私としては、あの子は母親似だと思っていたんだが」
ウィリアムが戸惑いながらも尋ねると、シロは淡々と、しかしどこか楽しげに暴露した。
「私たちが変身したとき、マリーは今のウィリアムよりもずっと驚いていた。あれは、父親譲りだと思う」
「ちょ、ちょっとシロ! それは言わない約束でしょ!」
マリーが慌てて抗議するが、シロは涼しい顔で受け流す。
「ふふ、背は低いけれど、私の体はもう大人。つまりマリーよりお姉さん。だから、事実をありのまま父親に告げる義務がある。ふふふふふ」
勝ち誇るシロの様子に、レンが釘を刺した。
「こら、シロ。あんまり姉さんに意地悪しちゃだめだ。事実であっても、言っていいことと悪いことがある。アイナスも言っていたことだろ。それにシロは実年齢ならまだ二歳にもなっていないんだ。十歳も年上のマリー姉さんに対して、お姉さんぶってからかうのはやめなさい」
「むぅ……レンがそう言うなら、仕方ない。やめる。……マリー、ごめんなさい」
レンに諭されると、シロは素直に引き下がった。マリーはため息をつきながらも、どこか誇らしげに胸を張る。
「いいわよ、もう。私が混乱しておかしくなっていたのは事実だし。でも、私はクロとシロのお姉さんのつもりなんだから。レンみたいにしろとは言わないけれど、それなりの対応をしてよね」
「ん、了解。マリーから学ぶことは多そう。手本にする」
「マ、マリー姉さん、私も! マリー姉さんは綺麗で強くて、とっても尊敬しているわ!」
クロの純粋な称賛に、マリーは照れくさそうに頬を掻いた。
「クロ、そんなに持ち上げなくていいわよ。……シロも、女性として、何よりクリスチャンの先輩として、私が手本になれるように頑張るわ。ちょうど移動時間が短縮できたから、十日間くらいは実家にいられるはず。その間に、ママから一緒に色々と学びましょう。いいでしょう、ママ?」
マリーの問いに、レベッカは慈愛に満ちた表情で頷いた。
「もちろんよ。クロ、シロ。ファルバでは、神様と聖書の勉強を少しはしたの?」
レベッカの問いに、クロが少し恥ずかしそうに答える。
「は、はい。私はあまり頭がよくないので、難しいことは分かりませんでしたけど……。でも、イエス様がすごく優しくて、私たちのために苦しい思いをしてくださったことは、ちゃんと覚えています」
続いてシロが、理知的な瞳を向けた。
「……神様は、変わらぬ愛と契約を人間に授けた。人間がどれほど愚かな裏切りを重ねても、決して見捨てない。それは勉強した」
二人の答えを聞き、レベッカは目を見開いた。
「あら、結構ちゃんと本質を理解しているじゃない。これなら、イエス様を信じて救いを受け入れるのも難しくはないかもしれないわね。二人とも、心から救われたいと願っているのよね?」
「はい。まだよく分からないことも多いですけれど、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださった……その優しさに応えたいんです。それに、レンが救われているなら、私も同じようになりたい」
「……イエス様は、アブラハムの時代から続く契約の救い主。救いそのものがどういうものかは、まだ模索中だけれど、私もクロと同じ。救われて、レンと同じ道を歩いていきたい」
二人の言葉には、一点の曇りもない決意が宿っていた。
しかし、レベッカの胸には、微かな、しかし拭いきれない不安が兆した。
「……そう、救われたいのね。でも、動機が『レン』……」
レベッカは小さく呟き、視線を落とした。
「決して、他のクリスチャンを見て憧れることが間違いなわけではないけれど。……少し、心配ね」
二人の「主なる神様を学びたい」という動機さえも、根底には「レンと同じ道を歩みたい」という、あまりにも一途で盲目的な愛情が透けて見えた。
やはりレベッカもまた、カレンやトライアード、そしてアイナスと同じ「危惧」を抱かずにはいられなかった。
子供たちが実家に足を踏み入れた瞬間の喜びの裏側で、母親としての、そして信仰者としての鋭い感性が、三人の間に流れる「あまりにも純粋で、それゆえに危うい熱量」を感じ取っていた。
「ママ? どうしたの? 十日間、よろしくね。二人とも神様や聖書のことを学びたいって意欲満々なんだから。ファルバを発つ前の一週間、クロとシロがどれだけ必死に勉強していたか、私ずっと見ていたんだから」
娘マリーの明るい声に、レベッカはハッと我に返り、努めて穏やかな微笑みを浮かべた。
「ええ、そうね……。クロ、シロ、私ができる限りのことを教えるわ。空いている時間はなるべく教会へ来て、他のクリスチャンの人たちとも接して、生きた信仰を学んでちょうだい。……そうね、動物時代もたくさん手伝ってもらったけれど、人間になった今、何かお願いしてもいいかしら?」
どこか元気のない、心ここに在らずといった様子のレベッカに、クロが元気よく応えた。
「はい! 馬鹿ですけれど力だけはあるので、犬の時と変わらず力仕事は何でも任せてください!」
「ん、了解。読み書きと算術はまだ勉強中だけれど、空を飛ぶことは今もできる。言葉が通じるようになった分、前よりも正確な連絡係になれる」
シロの頼もしい言葉に、レベッカは少しだけ表情を和らげた。
「ええ、相変わらず頼りになるわね。……そうだわ、人間の女性になったのだから、お料理も勉強しましょうか。私が困っている人たちに振る舞う食事作りを手伝ってほしいの。きっとレンも……あなたたちの手料理を食べたら、喜ぶわよ」
「レンに、料理を作ってあげられる……」
クロがパッと顔を輝かせる一方で、すぐに不安げに眉を下げた。
「でも、レンは料理が上手だから。私の作ったもの、気に入ってくれるかな……」
「ん、アイナスも言っていた。男性は女性の手料理に弱い。ぜひ教えてほしい。レンに、最高の料理を食べさせる」
二人の反応を見、レベッカは内心で溜息をついた。
(やはり、すべてはレンのため……。いや、これはレンが注いできた無垢な愛情の結果なのだけれど……。けれど、二人とも……)
「ママ、やっぱり変よ? 少しベッドで横になってきたら?」
マリーの気遣いに、レベッカは「大丈夫よ」と首を振った。
「少しお祈りをしてから、一応カレン様に相談に行ってくるわ。クロ、シロ、パパとママができる限りのことはするから安心なさい。……あなた、あとはよろしくね。少し出かけてくるわ」
「あ、ああ。任せてくれ。マリー、レン、クロ、シロ。長旅で疲れただろう。今日はまずゆっくり休み分。明日から色々と手伝ってもらうからな」
女性陣の間に流れる微妙な空気を察しきれないウィリアムだったが、その不器用な優しさは、再会の場に温かな安堵をもたらしていた。
そのしばらく後。対談所の重厚な空気の中で、レベッカはホログラムのように映るここに実体はない想像主に向き合っていた。
「カレン様……神様にはもう祈りました。ですが、どうしても不安が消えないのです。レンとクロ、そしてシロ。三人は確かに、尊いほど強い愛情と絆で結ばれています。ですが、このままだと……一体どうなってしまうのでしょうか」
カレンは、かつてないほど沈痛な面持ちでレベッカを見つめ返した。
「レベッカさん……申し訳ない。無力な僕も、今は神様に祈ることしかできないんだ。人間には未来を見通すことはできないし、どうしようもないことが多すぎる」
カレンは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「……レンがいつか、どちらかを選ばなければならない時。その時、彼にはあまりにも残酷で、辛い決断が待っているだろうね」
「そうですね……。まだ先の話です……」
レベッカの瞳に、苦悩の影が濃くなる。
「そもそも二人がレンをこれほど愛しているのは、レンが二人を救い、献身的に愛を注いできた結果。その愛の報いとして捧げられた心のうち、どちらかを切り捨てる……。それは、選ぶレンにとっても、選ばれなかった一人にとっても、あまりに酷な結果になります」
「レベッカさんの苦悩は痛いほどわかるよ……けれど今は、主なる神様にすべてを委ねて祈るしかない。僕たちにできるのは、それだけなんだ」
「そうですね……。カレン様、ありがとうございました」
レベッカは、入ってきた時と変わらぬ、胸を締め付けられるような表情で対談所を後にした。
静まり返った室内で、カレンは天を仰いだ。
「はぁ……。やっぱり、母親であるレベッカさんには分かっちゃうよね。……神様、再度祈ります。どうか、レンレンを正しく導いてください。クロちゃんも、シロちゃんも。三人が、どうかこのまま、愛情という名の絆で壊れることなく結ばれていられますように……」
三人の周囲にいる「大人」たちが一様に抱く危惧。
一途すぎる愛が孕む「独占」と「排他」の危うさ。
それを、彼らは知っている。
はたして、幸せな未来は三人に訪れるのか。それとも、大人たちの危惧が的中し、その純粋すぎる絆が誰かを傷つける刃となってしまうのか。
その答えを知っているのは、万物の主である神、ただ一人であった。




