第十八話 愛とエゴの境界線
想像主カレンにクロとシロの獣人化を報告し、その「スーパーリアオタ充」ぶりに阿鼻叫喚の呪詛を吐き散らされてから一週間。レンは血の涙を流すカレンを背後に感じつつ、来るべきイクスへの帰還に向けた準備を着々と進めていた。
レンの臨時休暇願いについては、特に大きな問題はなかった。レンは、語学、算術がすでにこの世界ニエフでは大人の標準域を大幅に上回っていたため、すでに大半の授業を免除されていた。
現在、剣術や魔法の授業では十二歳の子供たちに混じり、聖書の授業に至っては十五歳の卒業間近な生徒たちに混じって受講している。
トライアードからビーストテイマーとしての基礎をすべて習得したと墨付きを得た今、レンがこれ以上一年生の教室に留まる理由はなかった。
「ふむ、確かにリビングアウトフィットの噂は聞いたことがある。わしもかつてパートナーたちのために、友人のクリスチャン鍛冶師に打たせたものじゃ。カレン様の推測は正しい。技術や素材が同じでも、信仰を持つ者の手による装備には、数値化できぬ性能差が出るものじゃよ」
賢者トライアードは自身の経験則からカレンの理論を肯定し、学院長への口添えまで約束してくれた。こうして、イクスへの一時帰還に伴う学業上の障壁は速やかに取り除かれた。
この一週間、クロとシロはフィルファとアイナスによる猛特訓を受けていた。二人の適性は驚異的なスピードで開花し、その戦闘スタイルはカレンの予想をなぞるように形作られていった。
クロはしなやかな肢体を活かした、拳や蹴りを主体とする近接格闘スタイル。シロは翼で空を舞い、上空からナイフや槍で狙い撃つ遠距離攻撃スタイル。
武器の選定もスムーズに進み、クロは三本の刃がついたガントレット、シロは風魔法を付加した投擲用のナイフと槍を相棒に選んだ。
魔法の習得速度も戦慄すべきものだった。クロは初級火魔法のみならず、中級火魔法の「エクスプロージョン」までを数日で習得。さらにレンが伝えた電気の物理的性質をイメージに落とし込み、希少な電気属性をも開花させた。天から降り注ぐ落雷「ライトニング」の電圧や位置を正確にコントロールするその姿は、一週間前の彼女たちが動物だったことを忘れさせるほどだった。
シロも同様に、中級風魔法「ハリケーン」を掌中に収め、光魔法においては紅い閃光を収束させた「ペネトレーションライト」を完成させた。鋼鉄をも容易く溶かす熱線貫通攻撃は、彼女の冷徹な狙撃スタイルを象徴していた。
これほどの速度で魔法を扱えるようになったのは、彼女たちが動物時代からレンと高度な意思疎通を行い、知性と自我を発達させていたからに他ならない。マジックコアが発生し、精神にイメージ力が備わったことで、二人は「人間」としての力を瞬時に引き出したのだ。
だが、急速に強くなっていく二人を前に、レンの心には誇らしさと共に「劣等感」という名の澱が沈殿していた。
一週間の準備期間中、技術的な特訓と並行して行われたのは、クロとシロが切望していた「クリスチャンになるための教育」であった。トライアードの書斎、アイナスの助言、そして学院やレイクウォーカーの教会での学び。そこで二人が示した反応は、かつての動物時代の気質を色濃く反映しながらも、人間と同じ魂を持った者としての深い精神性を感じさせるものだった。
二人の聖書に対するアプローチは、驚くほど対照的であった。
感情豊かでストレートな気質のクロは「新約聖書」に。
賢くクールに物事を分析するシロは「旧約聖書」に、それぞれ大切なことを見出したようだった。
クロにとって、福音書に記されたイエス・キリストの歩みは、そのまま彼女の心に色彩を与える光だった。
彼女が最も心を打たれたのは、主の驚くべき「赦し」の深さだ。かつて動物として生きていた彼女には、人間の裏切りや身勝手さは理解しがたいものだったが、言葉を知り、人の心を知るにつれ、それがどれほど醜く、救いがたいものかを知った。
それゆえに、イエスが十字架の受難を前にして自分を見捨て、逃げ出し、さらには「知らない」と三度も否認した弟子ペテロを、復活したイエスが真っ先に訪ね、変わらぬ愛で包み込んだという記述に、クロは言葉を失った。
「どうして……こんなに酷いことをしたのに、怒らないの? どうして、前よりも優しく抱きしめてくれるの?」
クロは頁を濡らしながら、レンにそう問いかけた。彼女の純粋な魂には、無条件の愛という概念が、痛みを感じるほどの衝撃として突き刺さっていた。
また、彼女はイエスの「弱さ」にも深く共感した。ゲッセマネの園で、十字架を目前に控えたイエスが「苦しみのあまり死ぬほどです」と弟子たちに吐露し、父なる神に「できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください」と血のような汗を流して祈った孤独な姿。
神の独り子でありながら、ひとりの人間として極限の恐怖と悲しみにもがき、それでもなお神の御心に従おうとしたその人間性に、クロは自分自身の「レンを失うかもしれない」という根源的な恐怖を重ね合わせ、嗚咽を漏らした。彼女にとってイエスは、天の遠くにいる神ではなく、自分たちの痛みに最も寄り添ってくれる「愛の人」だった。
一方でシロは、冷徹なまでの観察眼で「神と人間の関係性」の歴史を紐解いていた。
彼女が惹かれたのは、エデンの園における原罪以来、断絶してしまった神と人間との正しい関係を、神がどのように「契約」という形を持って修復しようとしてきたかという論理的なプロセスだった。
「主は最初から、私たち人間が罪を犯し続けることを知っていた。それなのに、どうしてこれほど重い約束を交わし続けるの……?」
シロが深く思索したのは、信仰の父アブラハムの生涯だった。神との約束を信じきれず、自らの身勝手な計画に溺れることもあった一人の男が、それでも主に従い続け、ついには最愛の息子イサクをも捧げようとしたあの壮絶な試練。
感情的な感動よりも先に、シロはその「決断」と「忠誠」の意味を考えた。神が一方的に与える愛に満ちた契約と、それに応えるべき人間の「主を恐れ敬う」という姿勢。イスラエルの民が何度裏切り、罪を犯し続けても、決して契約を破棄することなく忍耐し続ける神の峻厳なまでの誠実さ。
シロにとっての信仰とは、単なる安らぎではなく、支配者である神に対する絶対的な従順と、その秩序の中に身を置くという論理的な帰結だった。彼女は「クリスチャンとしてどう生きるべきか」を、感情に流されることなく、冷徹に、しかし誰よりも真剣に自らの魂に刻み込んでいた。
そんな二人の姿を傍らで見守るレンの心境は、複雑極まりないものだった。
二人が御言葉を素直に受け入れ、目に見える速さで成長していく姿を見るのは、たしかに喜びであった。主がこの二人を確かに選ばれ、愛してくださっているのだという確信は、何物にも代えがたい。
しかし、それと同時に、レンの中には拭いきれない「劣等感」が鎌首をもたげていた。
(俺は、どうなんだ……?)
レンは自問する。自分はこれほどまでに、神の赦しに震えたことがあっただろうか。シロのように、神の契約に対して全知全能を傾けて従おうとしたことがあっただろうか。
地球でクリスチャンとして生きていた時からの知識があり、教義としての正解は知っている。だが、その魂の温度はどうだ。
相変わらず自分の無力さや情けなさばかりに目が向き、神によって変えられていく自分自身を信じきれないでいる。自分を「信仰の先輩」と仰ぐ二人の純粋な瞳を見るたびに、自分の魂がひどく汚れた、澱んだもののように思えてならなかった。
二人が聖書を学び、祈る姿は、今やレンよりも神々しく見えることすらある。
マスターとして彼女たちの魂を預かる責任の重さと、自分自身の信仰の脆弱さ。そのギャップが、レンの胸を締め付ける。
二人の救いと成長を願う真実な祈りと、自分を追い越していく者への情けない嫉妬。嬉しさと劣等感が混ざり合い、発酵したような複雑な感情を抱えたまま、レンは二人と共に祭壇の前に立つ。
二人はすでに、自分たちの主を愛し始めている。
そして、そんな彼女たちを「選ばれた存在」として形作ったのは、他ならぬレン自身のこれまでの接し方だったという事実に、レンだけが気づかずにいた。
己の未熟さに悶えながらも、レンは二人の手を引き、あるいは彼女たちに支えられながら、共に「主の道」を歩み続ける。それが今の彼にできる、精一杯の「信仰」だった。
二人がそうやって大幅に前進しているのは嬉しい、だがその背中が遠ざかっていくような、複雑な心境を抱えながらレンは準備を進めた。
今回のリビングアウトフィット製作は、レン自身の時とは状況が根本から異なっていた。動物としての成長過程で集まった素材が絶対的に不足しているのだ。その欠落を埋めるには、レン、クロ、シロの三人が直接魔力を装備に注ぎ込み、魂の結びつきを物質として定着させる必要がある。
そして何より、想像主カレンの指摘によれば、半年間で教師としてさらなる研鑽を積み、魔力操作の精度を極めたマリーと、母レベッカによる「融合のイメージ」が不可欠であった。
しかし、ここで大きな障壁が立ちはだかる。マリーが教師として有能すぎたのだ。
剣術、魔法、さらには読み書き算術までも一手に引き受ける彼女は、学院にとって代えの利かない屋台骨だった。マリーの月給は驚異の七十五万ルン。一般的な教師が二十万から五十万ルンであることを考えれば、十二歳にして彼女がいかに規格外の存在であるかが窺える。当然、学院側も生徒たちも、マリーの一時休職には猛反対した。
だが、その反対を力業でねじ伏せたのは、他ならぬマリー本人だった。
事の発端は、カレンへの報告を終えて帰宅したレンの、一見何気ない一言だった。
「姉さん……二人に、洋服や化粧、女性としての嗜みを教えてやってくれないかな」
その瞬間、自分を追い越して「完成された美貌」を得た二人に戸惑っていたマリーの中で、何かが弾けた。
「……洋服、化粧、女性の、嗜み……」
しばらく虚空を見つめてブツブツと呟いていた彼女だったが、突如としてその瞳に宿命的な炎が宿る。
「分かったわ! 全力でプロデュースしてあげる! クロもシロも、もう私の妹みたいなものなんだから。でも私もまだ完全には大人じゃないから、アイナスさんにも手伝ってもらって、そうすればお姉ちゃんが完璧に仕上げてあげるわ!」
混迷の末に「姉魂」が臨界点を超えたマリー。翌日のスケジュールはすべて、戦場にも似たショッピングに費やされることが決定した。レンに拒否権などあるはずもない。
翌日。トライアードとアイナスが用意した間に合わせのワンピース一着ではしのげないという実利的な判断は正しかったが、街に繰り出したマリーの気迫は尋常ではなかった。普段は氷魔法を操る彼女だが、この時ばかりは背後に炎のオーラを纏っているかのように見えた。
地球時代の記憶から、女性の買い物が果てしなく長いことを知っているレンは、開始十分で死んだ魚のような目をしていた。しかし、不安げに服を選ぶクロに縋られ、シロに冷ややかに「ちゃんとして」と一喝され、アイナスには「マスターとしての自覚を持ちなさい」と釘を刺される。
極めつけは、爛々と輝く瞳で自分を急かすマリーだ。怒った表情の姉も悪くない……などと不謹慎な「姉萌えシスコン体質」を自覚しながら、レンは四人の美女と美少女に付き従う下僕、あるいは荷物持ちの奴隷として覚悟を決めた。
家具店での鏡選びは滞りなく終わったが、化粧品や装飾品については、レンの乏しい知識では気の利いたコメントなど出せるはずもない。しかし、洋服店に足を踏み入れた瞬間、封印されていたレンの「オタク趣味」が臨界を突破した。
「……これだ。これしかないんだ」
レンが震える指で指し示したのは、日本ではごく一般的な、しかしレンにとっては憧憬の対象であった女子高生制服を彷彿とさせる、ブレザーとミニスカートのセットだった。
上着にはふたりとも白いラインの入った漆黒のブレザーを。インナーのシャツもおそろいで純白のブラウス。スカートはお揃いの白黒チェックのプリーツスカート。そしてファルバの冷気を考慮し、仕上げに桜色のダッフルコートをチョイスした。
「うわぁ……素敵ね。でも、私には女の子らしすぎないかしら?」
試着室から出てきたクロが、慣れないスカートの裾を気にしながら頬を染める。
「レン、いいチョイス」
対照的に、シロは満足げに鏡の中の自分を見つめている。
「そんなことないぞ。クロ、すっごく似合ってる。シロも、気に入ってくれてありがとう」
膝上十センチ――。クリスチャンの女性としては際どいラインだが、下品さを感じさせない絶妙なミニスカート。マリーやアイナスは当初「短すぎないかしら」と渋い顔をしたが、レンが必死に「これは機能美だ」と力説し、街の流行の一部でもあることをアイナスが認めると、渋々ながらも承認された。
仕上げに二人が選んだのは、レンの治癒魔法を思わせる淡い緑のクロは無難なストレートネクタイ、シロは胸元に小さな可愛らしいリボン。
完成したその姿を視界に入れた瞬間、レンの脳内では感動のファンファーレが鳴り響いた。
「……めちゃくちゃ可愛い。理想の女子高生だ。しかも犬耳に翼……オタクの理想を極めた美少女が、今ここに、現世に降臨している……!」
地球で、海外の学校を転々としたレンにとって、日本の女子高生が纏う制服という文化は、手に入らぬがゆえに神格化された「聖典」にも等しい憧れだった。
そんなレンが今、目の前の光景を前にして、恍惚とした表情で真っ赤な顔を晒し、理解不能なオタク用語をぶつぶつと呟いている。あまりの様子に、クロとシロは戸惑いながらも、真剣な面持ちで店員へ向き直った。
「あ、あの……この服、装備品のベースに使えますか? 魔力の通りは……」
「これはもう買うけど、もし素材が適さないなら、同じデザインでより良い素材のものを作ってほしい」
二人の切実な訴えに、店員はプロらしい誇りを持って深く頷いた。
「ご安心ください、お客様。お選びいただいた品はすべて、魔物由来の一級品でございます。シャツとスカートはコットンプラントの木綿七割にシルクワームの絹を三割。ブレザーとタイは絹百パーセントで、着心地と軽さを両立しております。さらにコートは、ファルバ近郊の希少種ホワイトレパードの毛皮を用いた極上品。どれも驚異的な魔力浸透性を誇ります。染料に至っては、高純度の魔石の魔力を抽出して定着させてありますので、今からの魔力付与も容易でございます」
その説明を聞き、クロが縋るような瞳でレンを見上げた。
「レン、ヨシュウさんたちに作ってもらう装備、これをベースにしたいな。素材もレンの装備に似ているみたいだし……何より、レンが選んでくれた服だから。……だめ?」
少し屈み込み、上目遣いで放たれたその「だめ?」の一撃に、レンの理性は音を立てて砕け散った。
「……そんな破壊力抜群のポーズでお願いしないでくれ。精神が持たない……。クロ、自分の可愛らしさをもう少し自覚してくれ。その姿が男性にどんな影響を及ぼすか、あとでマリー姉さんやアイナスさんにしっかり教わるんだぞ。帰ったら届く鏡で、自分でも確認するんだ。……もちろん、これをアンダーウェアに採用しよう。ファルバの一級品ならヨシュウたちも納得するはずだ。あとで想像主に伝えておくよ」
「そ、そうね……報告、しなきゃね。私、可愛いの……? レンに、どんな気持ちが……。か、鏡……はっ、早く帰らなきゃ……」
クロが赤面して混乱する傍らで、シロは満足げに微笑んだ。
「ん、気に入った服が装備になるのは嬉しい。……ふふふ。またペアルック」
「シロ、お前……その『ペアルック』なんて言葉、どこで覚えたんだ?」
「アイナス」
レンが視線を送ると、アイナスは平然と肩をすくめた。
「ちょっと聞かれたから教えただけよ。トライアード様と装備を作った時だって、私とフィルファは素材を揃えたもの。連携を重視するなら、ペアルックは理に適っているわ」
「……まあ、そうなんですけどね。さて、店員さん。他に必要なものはありますか?」
「そうですね。お勧めしたいのは、ストッキングやニーソックスといった足元の下着です。こちらも一級品をご用意しております。それから靴も……何かご希望は?」
店員の問いに、レンの思考は光速で回転した。「ニーソックス」という単語が、彼の脳内で「ミニスカート」と化学反応を起こす。
「靴はお任せします。ですが、足元は……ニーソックスでお願いします!!」
フルバーニング状態に陥ったレンの暴走は、もはや趣味の開示というレベルを超えていた。
「か、畏まりました……。靴はシロ様のご希望通りレン様とお揃いの、マックスブルの皮を用いた動きやすい女性用を。では、ニーソックスの色はどうされますか? お二人の容姿に合わせるなら、クロ様には黒を、シロ様には白を……」
「ぜひ! それでお願いします!!」
数分後。店員が選んだニーソックスと皮靴を履き、二人がレンの前に現れた。
そこに現出したのは、まさに「神の比率」であった。
「……黄金率がここに存在している。言葉を失うほどの、完璧な絶対領域だ。チラリズムの究極が、現世に顕現するなんて……。革靴が学生靴風なのも最高だ、ますます理想の女子高生じゃないか……」
レンの鼻からは、凄まじい勢いで鮮血が噴き出した。
「レ、レン!? どうしたの、まだ血の魔法は必要ないわよ!?」
「ふふふふ……やってやった……ニヤリ……」
止まらぬ鼻血をクイックエイドで無理やり抑え込みながら、レンは恍惚の表情を浮かべた。
膝上十センチのスカート丈。それは男性が最も好み、かつ下品さを感じさせない「聖域」の境界線だ。そこに黒と白のニーソックスが重なり、僅かに覗く太ももの柔らかな肌が「絶対領域」となって、レンのオタク魂を総攻撃していた。
しかも、現在は店内のため二人はコートを脱いでいる。クロはその豊かな胸がブレザーを押し上げるように強調され、無意識の誘惑を振り撒いている。
一方のシロは、なぜかブレザーすら羽織らず、シャツ一枚でスレンダーなプロポーションを誇示していた。一見少女のような華奢なラインだが、その薄着は明確な意思を持ってレンの視線を奪おうとする、計算され尽くした誘惑だった。
レンの理性は、今や風前の灯火。煩悩と欲望、そして美しさへの純粋な感動が、レンという若きマスターを完全に圧倒していた。
「……店員さん。このコーディネートは、私の命に代えてもすべて購入します。ですが……ここはファルバでも最高級を謳う洋品店。これだけのはずがない。他にも、もっと、珍しい商品があるのでしょう?」
レンは低く、地響きのような声で店員に詰め寄った。その瞳には狂気的な熱量が宿り、獲物を追い詰める捕食者のような威圧感さえ漂っている。
「ひっ、は、はいぃ!? も、もちろん、種類は充分にございますが……ご、ご覧になりますか?」
「すべての、商品を見せてください」
退かぬ、媚びぬ、顧みぬ。決然とした表情で、もはや怯えきっている店員を無視し、レンは店内の商品を隅々まで吟味し始めた。
それは完全なるオタク魂の暴走モード。シンクロ率が限界を超え、感情が暴走するどこぞの汎用人型決戦兵器に呑み込まれた少年さながらの没入ぶりだ。
クロはその異様な熱気に圧倒され、シロに至っては「ふふっ」と楽しげに目を細めてニヤニヤしているが、アイナスとマリーの視線は氷点下まで冷え切っていた。
「おしゃれなんてよく分かりませんので、お任せします」
店に入る前に、殊勝な顔でそう言っていた少年はどこへ消えたのか。二人は揃って眉間に深い皺を刻み、重い溜息と共に目頭を押さえていた。
結果としてレンが最初に選び抜いたのは、ニエフの日常生活では到底お目にかかれない、レンの地球での欲望、オタク魂が結晶化したような「コスプレ衣装」の数々だった。
妖艶なラインを強調するチャイナ服。ヴィクトリア朝を彷彿とさせる、シックな黒のロングワンピースに純白のフリルエプロンを合わせた本格的なメイド服。そして、東方の神秘を体現したような巫女装束。
もちろん、辛うじて常識の範囲内に収まりそうな、活動的なホットパンツやタイトなロングパンツ、知的な女性用のパンツスーツなども選んではいた。
さらに、トライアードやアイナスから贈られたものに近い、上品な色合いのワンピースを色違いで数着。厚手のセーターやカーディガン、裾の広がった優美なロングスカート。肌触りの良いロックゴートの羊毛Tシャツ、そして冬の厳しさに備えたダウンコートやピーコートまで。
バリエーションとしては非の打ち所がないセレクションではある。あるのだが……その総量は、明らかに常軌を逸していた。
「レ、レン……こんなにたくさん買うの? お金、大丈夫……? それに、私にこんなにたくさん着こなせるかしら……」
不安げに尋ねるクロに対し、レンは迷いのない口調で言い放った。
「大丈夫だ、問題ない。私は最高のものを選んだ。すべてクロとシロに似合うと確信している。資金なら、アイスランサーの報酬も、これまでの稼ぎもたっぷりある。金など、二人が美しく輝くための対価に過ぎない。もし足りなければ、ファルバ周辺の魔物を根絶やしにしてでも稼ぎ出すまでだ」
その言葉は、あながち誇張ではなかった。試着室から新たな装いで現れる二人を見るたび、レンの鼻からは凄まじい勢いで鮮血が噴出し、その都度、彼は無表情にクイックエイドで止血しては次の獲物を探すという作業を繰り返していたからだ。
優秀な冒険者としての経済力は確かだが、愛ゆえに生態系を壊滅させようとするその発想は、もはや狂気の沙汰である。
「ふふっ……レンがやる気を出してくれた。嬉しい。……私たちを好きなように着飾らせて。そして……ふふふ。いくらでも、好きにして?」
シロが、妖しく濡れた瞳でそんな危うい言葉を囁く。獣人となって人間の感性を得てからまだ数日、実年齢に至っては一歳半とは思えぬ、底知れない執着と愛を孕んだ「女」の顔だった。
だが、ここでブレーキをかけたのはマリーだった。
「レン? 女の子が綺麗になりたいと思う気持ちは大切よ。でも、男性の個人的な趣味や欲望だけで、女性に恥ずかしい格好をさせるのはクリスチャンとして感心しないわ。……特にこれ。このメイド服って、何?」
マリーが指差したのは、慎ましくも洗練されたメイドの衣装だった。
ニエフの世界において、美少女メイドという概念は極めて稀だ。多くは身寄りのない年配の女性の仕事であり、王宮や大富豪の邸宅にいる若いメイドは、往々にして性的な搾取の対象とされている。それゆえ、熱心なクリスチャンにとってメイド服は、不当な支配や罪の象徴として忌避される傾向にあった。
店に並んでいるのは、客の要望であれば断らぬという商売上の理屈に過ぎない。淫らな目的の輩はもっと露出の激しいフレンチメイド風を好むが、レンが選んだのは、重厚な気品漂う正統派のヴィクトリアンメイド服であった。
「姉さん。メイド服は……文化なんだ。『萌え』なんだ。私は、二人に奉公させたいわけじゃない。卑猥なことを強要するつもりもない。この服は、二人の高潔な美しさを完全に引き出してくれる、一種の芸術なんだよ」
「文化……? もえ……? よく分からないけど、これらすべての服は、純粋に二人を綺麗にしてあげたいという一心で選んだのね?」
「はい、姉さん。私は、二人に誰よりも美しくなってほしい。それだけです」
レンの言葉は、半分は真実で、半分は自分への言い訳だった。
大切なパートナーを最高の装いで彩りたいという願いは本物だ。だが、その根底には前世で果たせなかった「オタクとしての理想の具現化」という強烈なエゴが渦巻いている。二人の美しさを愛でたいという純粋な欲求と、着せ替え人形のように扱いたいという支配欲が混在していた。
そこへ、アイナスの静かな、しかし重みのある言葉が突き刺さる。
「レン。私たち、マスターの手で獣人に変えられた者は、確かに主人に従うわ。それが契約よ。けれど、それは自由な意思を奪われたということではないの。中には主人との契約を拒絶し、反旗を翻す獣人だっている。……二人を自分の欲望を満たすための着せ替え人形にすること。それは、彼女たちの心を置き去りにしていないかしら?」
アイナスの言葉は、熱に浮かされていたレンの脳髄に冷水を浴びせかけた。
自分の都合、自分の趣味、自分の充足。
二人の喜びを願うという大義名分の影に、醜い独占欲を隠していなかったか。
レンは自らの愚かさに気づき、呆然としたまま、深く顔を伏せた。
「クロ……シロ……ごめん。俺のわがままで自己中心的な欲望を満たすために、二人によくない服を選んで、無理やり着せてしまって……」
アイナスの鋭い指摘を受け、レンは深く頭を垂れた。熱に浮かされていた脳が急速に冷えていく。自分がしでかしたことは、愛するパートナーを自身の歪んだ欲望の道具にすることではなかったか。猛烈な自己嫌悪がレンを襲った。
しかし、そんな彼に温かい声がかけられた。
「ううん、大丈夫よ。確かに買う量には驚いたし、レンの様子が普段と違いすぎてびっくりしたけれど……。でも、レンが選んでくれた服は、どれも本当に可愛く見えるわ。……その、ちょっとだけ恥ずかしいものもあるけれど、そういうのは、家でレンの前だけで……ね?」
クロが頬を赤らめ、はにかむように微笑む。続いて、シロがいつもの冷静な、しかし揺るぎない熱を持った声で告げた。
「レン、謝る必要はない。レンの見立ては正しい。マスターが選んだものなら、どんなものでも身に纏う。レンが私を着せ替え人形にしたいのなら、それでも構わない。むしろ、もっと私を飾って。レンが好む姿になりたい」
二人のあまりにも献身的な言葉を聞き、アイナスは呆れたように、しかしどこか感心した様子で息を吐いた。
「まったく……トライアード様も多少そういうところがあるけれど、パートナーの獣人に助けられることこそが、ビーストテイマーの本来あるべき姿なのかもしれないわね。トライアード様から聞く『悪いテイマー』たちは、動物が獣人となってもその意思を認めず、道具のように扱い続けるらしいし。彼らは獣人の言葉に耳を傾けない。……そう考えると、私の心配は杞憂だったようね」
「いえ、アイナスさん。僕は確かに自分の欲望に突き動かされていました。それを二人を綺麗にするためだと自分自身に嘘をついて誤魔化していたんです。これからはもっと二人の意見を聞いて、三人で助け合っていこうと思います」
レンの決意に、アイナスは「大事なことに気づいたようね」と頷いた。だが、その直後、彼女は小さく呟いた。
「……でも、三人一緒。それこそが、一番の心配事だわ」
それは、トライアードやカレンが抱いているものと同じ、あまりにも強すぎる絆への危惧だった。
「さて、二人とも。本当にごめん。……今度は二人の意見も聞きながら、もう一度選び直そう」
レンがそう促すと、クロが困ったように眉を下げた。
「ええと……私もレンと同じで、服のことはよく分からないから。さっきも言った通り、レンが選んでくれたものは全部可愛いと思っているわ。少し……その、変わったのもあるけれど、お家でなら大丈夫」
「アイナス、忠告は感謝する」
シロがアイナスを見つめ、静かに言い切る。
「けれど、私たちは自らの意思でレンに従っている。彼が行うことを不快だとは感じない。だから心配は無用。レン、選び直す必要はない。十分な量と種類がある。これでいい」
「そ、そっか……。かなり僕の趣味に走っちゃったけれど、気に入ってくれてありがとう、二人とも」
ようやく顔を上げたレンは、恐縮しながらも店員に向き直った。
「店員さん。……色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。かなりの量になってしまったので、家まで配達をお願いすることはできますか?」
「は、はい! もちろんでございます! これほど高額な商品をご購入いただけるのでしたら、配送料はサービスさせていただきます。こちらにご住所の記入とサインをお願いいたします」
平身低頭な店員に礼を言い、レンはだいぶ冷静になった手つきでペンを走らせた。
会計の総額は、実に200万ルンに達していた。
最初に選んだ制服風の衣装がそもそも高価であったことに加え、レンのオタク趣味を刺激するニエフでは希少なデザインの服を次々と買い込み、さらに膨大な量の普段着を揃えた結果、額は尋常ではない領域に跳ね上がっていた。
マリーの全身ミスリル装備が500万ルンであることを考えればその半分以下ではあるが、七歳の子供が衣類にかける金額としては、この世界の常識を遥かに逸脱している。
しかし、レンは動じることなく20枚のミスリル製金貨を差し出し、店員を絶句させた。
首都ファルバの物価はイクスよりも高く、生活費も嵩むが、レンには十分な蓄えがあった。到着早々にアイスランサーを討伐した報酬に加え、休日を利用した魔物ハントで週に十万ルンほどを安定して稼いでいたからだ。食材や魔石も自給自足しており、支出が極端に少なかったことも功を奏していた。
また、レンはクリスチャンの習慣に基づき、収入の一割を教会に献金し続けていた。アイスランサー討伐時には五十万ルン、その後も毎月四万ルンを献金し、姉のマリーもまた七万ルンを捧げていた。七歳の男児と十二歳の少女から届けられるあまりに巨額な献金に、受け取るレイクウォーカーが、喜びと困惑の入り混じった複雑な表情を浮かべるのは想像に難くない。
レンがミスリル製金貨を所持していたのは、金貨では枚数が嵩みすぎて持ち運びに不便なため、手数料を払って貨幣交換所で替えていたからだ。一枚十万ルンの価値を持つミスリル製金貨は、より高価な伝説級金属に比べれば流通量は多いものの、それでも一般人が、ましてや子供が持ち歩くような代物ではない。
最後まで店員の度肝を抜き続けたレンは、ようやく洋品店を後にした。
こうして日常の準備は整った。
――このあと、対談所へと向かう。




