戦間期 6 明治の中腹
明治29年(1896年)2月。
凍てつくような寒風が吹きすさぶ帝都・東京において、のちの大日本帝国の命運を、そして世界の軍事史を根底から覆すことになる「極めて重大な法案」が、帝国議会において可決された。
『陸海軍参謀本部の常設化、および指揮系統の完全統合に関する法案』である。
史実の日本軍が、のちの太平洋戦争に至るまで決して克服できず、国家を破滅へと追いやった最大の不治の病。それは「陸軍と海軍の絶望的なまでの対立」であった。
予算を奪い合い、情報を隠蔽し合い、陸軍が船を造り、海軍が陸戦隊を抱え込むという、互いを仮想敵国のように憎み合う狂気の組織構造。それが本来の歴史における日本軍の姿である。
しかし、この世界線においては違った。
滝脇慶家が日清戦争において証明した『理戦論』――すなわち、陸軍の諜報(草の者)が掴んだ情報を即座に海軍に流し、海軍が敵艦隊を海上で殲滅し、陸軍が背後から要塞を落とすという「完璧な連携」がもたらした、圧倒的なまでの効率と勝利。
「……次の敵(ロシア帝国)を相手にする時、我が国に陸軍と海軍で手柄や予算を争っている余裕など、一ミリも存在しない」
その冷酷な事実を痛感した政府首脳(伊藤博文ら)と、軍の中枢(川上操六や海軍の伊東祐亨ら)は、日清戦争の熱狂が冷めやらぬこの時期を狙い、軍部内の些末な反発を強権をもってねじ伏せ、「陸海軍の一元化」という奇跡の組織改編を断行したのである。
法案の可決に伴い、三宅坂にあった巨大な洋館『陸軍参謀本部』の看板は取り外され、新たに『大日本帝国・陸海軍参謀本部』という重厚な銘板が掲げられた。
建物をそのまま併用する形で、これまで別の場所(軍令部)で独自の作戦を練っていた海軍の幕僚たちが、大量の海図や書類と共に三宅坂へと続々と入城してきたのである。
作戦室の風景は、一変した。
カーキ色の軍服を着た陸軍参謀と、紺色の軍服を着た海軍参謀が、同じ巨大なテーブルを囲み、同じ黒板を見つめ、一つの兵站を共有して議論を交わしている。
これを可能にしたのは、組織の統合と同時に制定された『陸海軍の完全なる並列化(序列の平等)』であった。
これまでの日本は、成り立ちの歴史から「陸軍が兄、海軍が弟」という暗黙の上下関係があった。しかし新法案により、陸軍と海軍の軍属の階級は完全に「並列」と定められた。
陸軍大将と海軍大将は対等。陸軍中佐と海軍中佐(海軍中佐)も完全に対等。会議の席次や発言権において、一切の優劣や忖度を禁じたのである。
「……素晴らしい。これこそが、近代国家の持つべき軍の姿だ」
陸軍の川上操六と、海軍の軍令部長は、同じ作戦室の長机に並んで座り、互いの情報が一切のタイムラグなく共有されていく様を見て、深い感嘆の息を漏らした。
陸と海。二つの巨大な暴力装置が、一つの脳によって完璧に制御される。
この日、大日本帝国軍は、来るべきロシアとの死闘へ向けて、世界でも類を見ない「最も洗練された殺戮と防衛の機械」への進化を完了させたのであった。
そして、この陸海軍統合の熱気が渦巻く三宅坂の参謀本部において。
一部屋だけ、喧騒から切り離されたように静まり返った執務室があった。
「――滝脇慶家中佐。入室を許可する」
川上操六に呼ばれ、執務室に足を踏み入れた慶家は、いつもと変わらぬ無機質な表情のまま、軍靴の踵を鳴らして端正な敬礼を行った。
川上の机の上には、真新しい「階級章」が置かれていた。
「貴官の日清戦役における作戦指導、および国家戦略の立案に関する功績は、もはや筆舌に尽くしがたい。……本日付をもって、貴官を**『陸軍大佐』**に任ずる」
大佐。
それは、軍隊という巨大なピラミッドにおいて、一つの連隊(数千人の兵士)を直接束ねる権限を持つと同時に、国家の最高機密に触れ、将官(将軍)へと至るための最後の関門である。
慶家が成し遂げた「戦争そのものを設計し、国家を勝利に導いた」という絶大な功績からすれば、将軍(少将)に特進してもおかしくないほどであった。しかし、年齢と年次を重んじる軍の建前上、これが限界の「超・特別昇進」であった。
「……はっ。ありがたく、お受けいたします」
慶家は、その真新しい三つ星の階級章(大佐の襟章)を受け取った。
彼にとって、地位や名誉など何一つ興味のないものである。民衆から「悪魔」と罵られようが、軍から「英雄」と讃えられようが、彼の心は一ミリも動かない。
だが、『大佐』という階級(権限)だけは、どうしても必要であった。
中佐や少佐といった「中堅将校」の立場では、いかに優れた作戦を立案しようとも、最終的には上の将官たちの裁可を待たねばならず、政治的な発言力にも限界がある。
しかし「大佐」となれば話は別だ。参謀本部の主要な「局長」クラスに座ることが可能となり、陸海軍が統合されたこの新たなシステムの中枢において、自らの『理戦論』を国家の基本方針として直接叩き込むことができる。
すなわちこの昇進は、慶家にとって「権力欲の満了」ではなく、「ロシア帝国を解体するための、さらに巨大な盤面を操作するための『資格』」を手に入れたに過ぎなかった。
「……滝脇大佐」
川上が、敢えて新しい階級で彼を呼んだ。
「陸と海が統合し、この参謀本部は新しく生まれ変わった。我々は、次なる巨大な脅威に向けて、一枚岩となって戦う準備ができた。……貴官の目から見て、今の我が軍はどう映る?」
慶家は、手元の階級章を静かに軍服のポケットにしまい込み、漆黒の瞳で川上を見返した。
「『器』としては、これでようやく列強と戦うためのスタートラインに立てました。……ですが、中身が伴っていなければ、巨大な頭脳もただの的に過ぎません」
慶家の言葉は、昇進の祝いの席に容赦なく冷水を浴びせた。
「ロシアが満州に敷設しているシベリア鉄道の輸送力。極東に回航されるであろうバルチック艦隊の装甲と火力。……これらを物理的に『すり潰す』ためには、我々にはまだ、圧倒的に【火力】と【兵站】が足りておりません。
大蔵省が立ち上げた『国家産業促進委員会』と連動し、明日から直ちに、新型戦艦の建造と、国産重機関銃の量産、そして新型野砲の開発計画を推し進めます」
川上は、思わず苦笑した。
この男は、本当に息を吐くように「次の戦争(生き残り)」の計算をしている。大佐に昇進したその瞬間に、もはや彼が見据えているのは自分自身の肩書きではなく、シベリアの凍土と黄海の波濤だけであった。
「……頼むぞ、滝脇大佐。この国の未来は、貴官のその冷たい頭脳に懸かっている」
「御意」
「陸海軍参謀本部」という、国家の完全なる『脳髄』が産声を上げたその日。
真新しい大佐の襟章を纏った滝脇慶家は、雪の舞う帝都の空の下、やがて極東を二分することになる世界最大の帝国との決戦へ向けて、その冷酷極まる『理戦論』の刃を、いよいよ国家規模のシステムとして振るい始めるのである。
―――
明治29年(1896年)3月。
陸海軍参謀本部が常設化され、大日本帝国が来るべきロシアとの決戦に向けて『巨大な脳髄』を稼働させ始めたその矢先。
遠くアフリカ大陸の角(東アフリカ)から、世界中を震撼させる一つの戦争の報せが、帝都・東京へと飛び込んできた。
『第一次エチオピア戦争』。
欧州列強の中堅国であるイタリア王国が、アフリカ大陸に残された最後の独立国・エチオピア帝国に対して、露骨な植民地支配の牙を剥いたのである。
「……イタリアが、エチオピアに侵攻を開始しただと。素晴らしいタイミングだ」
参謀本部の作戦室で報告を受けた滝脇慶家大佐は、世界地図のアフリカ大陸を指差しながら、その漆黒の瞳を妖しく光らせた。
「有色人種(非西欧)の国家が、欧州の近代的な白人軍隊の侵攻をいかにして受けるか。……これほど、我々の『対ロシア戦』の参考になる生きた実験場はない」
慶家は直ちに、外務省を通じてイタリア政府に対し「日本軍から観戦武官を派遣したい」と打診した。
イタリア軍の兵站、砲兵の運用、そして未開の土地における行軍速度。それらを間近で観察し、欧州軍隊の「強さ」と「粗」をデータとして収集するためである。
しかし、イタリア政府からの返答は、極めて冷淡で傲慢なものであった。
『――極東の有色人種の観戦など不要である。我々が野蛮人を文明の力で討ち果たす栄光の戦場に、貴国らの立ち入る隙間はない』
日清戦争で勝利したとはいえ、欧州の白人国家から見れば、日本などまだ「運良く勝っただけの東洋の猿」に過ぎない。イタリアは、自らの軍事機密を日本に見せることを鼻で嗤って一蹴したのである。
「……そうか。ならば、仕方がない」
イタリアからの拒絶の電報を読み終えた慶家は、怒るどころか、薄く冷たい笑みを浮かべた。
「イタリア側(撃つ側)から見られないのであれば、エチオピア側(撃たれる側)から見れば良いだけのことだ。……直ちに、エチオピア帝国皇帝・メネリク2世へ使者を送れ。『我が大日本帝国は、独立を守るために戦う貴国に敬意を表し、観戦武官を派遣したい』と」
エチオピア側は、極東で大清帝国を打ち破った日本の武官の訪問を歓迎し、これを承諾した。
しかし、それは派遣される日本の将校たちにとって、文字通り『死と隣り合わせの任務』を意味していた。
安全なイタリア軍の後方から優雅に双眼鏡を覗くのではない。圧倒的な火力を持つ欧州軍隊の大砲と機関銃の雨を、装備に劣るエチオピア軍の陣地(最前線)で、直接その身に浴びながら記録しなければならないのだ。
「誰か、行く者はいるか。……生きて帰れる保証はないぞ」
慶家の問いかけに対し、参謀本部に集められた若き将校たちは、誰一人として目を逸らすことなく、一歩前に出た。
「行かせていただきます、滝脇大佐!」
「欧州の軍隊が、いかなる陣形で、いかなる弾幕を張るのか。この目で見て、必ずや持ち帰り、対ロシア戦の礎としてご覧に入れます!」
彼らの目には、死への恐怖など微塵もなかった。あるのは、自国を救うためのデータを一つでも多く持ち帰ろうとする、真剣で、狂気じみた『愛国心』だけであった。
のちに、エチオピア軍はアドワの戦いにおいて、地形と数、そして巧みな戦術を用いてイタリア軍を包囲・殲滅し、白人列強を打ち破るという歴史的快挙を成し遂げることになる。
その戦場の泥まみれの塹壕の中で、日本の観戦武官たちは「欧州の軍隊とて無敵ではない。兵站が伸び切り、地形の罠に嵌めれば、必ず崩壊する」という、慶家の『理戦論』を裏付ける決定的なデータを、血塗れの手帳に克明に記録し続けることになるのである。
エチオピアの戦場から血生臭い報告が届き始めていた同年、明治29年(1896年)4月。
欧州のギリシャ・アテネにおいて、もう一つの「歴史的な世界大会」が幕を開けた。
『第一回 近代オリンピック』である。
平和の祭典。スポーツによる国際交流。
欧州の貴族や知識人たちがそんな美しい理念を掲げて開催したこの大会に対し、大日本帝国は極めてドライで、軍事的なアプローチをとった。
「スポーツの祭典などには興味がない。だが……欧州の兵士たちの『個人の技量』を測る物差しとしては、悪くない舞台だ」
日本政府は、陸上競技や水泳などの一般的なスポーツには目もくれず、『射撃部門』にのみ、陸軍から選りすぐりの狙撃手(選抜者)を密かに派遣した。
欧州の白人たちが、どの程度の精度で銃を扱い、どの程度の動体視力を持っているのか。それを、国際大会という名目を借りて「堂々と偵察・測定」しようというのである。
結果として、日本の陸軍選抜者は、欧州の猛者たちがひしめく中で『4位』という成績を収めた。
「……4位、か」
報告を受けた慶家は、数字の書かれた紙を眺めながら呟いた。
「個人の射撃技量においては、我が国の兵士も白人に引けを取らないレベルに達していることが証明された。これは評価に値する。
……しかし、実際の戦場において、五輪のメダルなど何の役にも立たない。近代戦の勝敗を決するのは、個人の狙撃手の腕ではなく、一分間に何百発という弾をばら撒く『機関銃』と、それを前線へ絶え間なく運び続ける『兵站』だ」
慶家は、その報告書をファイルに綴じ込んだ。
アフリカでの死闘。欧州での平和の祭典。
日本は、その両方から「来るべき戦争」のためのデータを冷酷に吸い上げ、国家という巨大な機械の調整を淡々と進めていた。
藩閥が消滅し、陸海軍が統合され、すべてが最も合理的に、最も順調に回転しているかのように見えた。
盤面を嘲笑う「大自然の牙」
――だが。
この明治29年という年は、人間たちの営みや、緻密な計算だけで終わるほど、穏やかな年ではなかった。
どれほど滝脇慶家が完璧な『理戦論』を構築し、数万の敵を盤面で手玉に取り、世界中の情報を掌の上で転がしたとしても。
人間が創り上げたシステムなど、この地球という星が持つ「絶対的な暴力」の前には、吹けば飛ぶような砂上の楼閣に過ぎない。
春が終わり、初夏を迎える頃。
帝都・東京の参謀本部で、慶家がシベリア鉄道の敷設速度に関するダイヤグラムを引いていたその時。
遠く、日本の東北地方(三陸海岸)の沖合深くで。
何百年もの間、静かに、しかし途方もない圧力を蓄積し続けていた二つの巨大な『大陸プレート』が、その限界を迎え、音もなく限界点を超えようとしていた。
誰も、まだ気づいていない。
完璧な情報網を誇る警察庁保安部も、欧州の動向を睨む外交官も、そして極東の覇王・滝脇慶家でさえも。
自然は、時に冷酷な人間の計算すらも嘲笑うかのように、何の予兆もなく、その圧倒的な「牙」を剥く。
人間の殺し合いなど児戯に等しい、真の『破滅』が、暗く冷たい深海の下から、大日本帝国の国土へと向かって、静かにその大顎を開き始めていた。




