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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
明治の帳
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明治の帳


江戸城の無血開城という奇跡的な幕引きも束の間、時代のうねりは決して血に飢えた軍神を完全に宥めることはできなかった。


振り上げられた新政府軍の巨大な矛先は、矛を収める場所を求め、北へ——すなわち、旧幕府に最も忠烈を尽くした会津へと向けられたのである。


「……会津が、朝廷より逆賊の汚名を着せられ、官軍の総攻撃を受けているとのことだ」


駿府の粗末な屋敷の縁側。父・清孝は、絞り出すような声でその凶報を市之進に伝えた。その顔には、かつての同胞が理不尽な討伐の対象となったことへの深い絶望と、言いようのない怒りが色濃く滲んでいた。


しかし、市之進はその事を父より聴いても、存外驚くような顔を微塵も見せなかった。


いつもの仏頂面のまま、ただ静かに庭先の土を見つめている。 


(当然だろう)


市之進——家康の明晰な頭脳は、この残酷な結末をすでに盤面の上で読み切っていた。

国を纏めるためには、誰かがその「咎」を受けなければならない。


薩摩や長州をはじめとする新政府軍は、倒幕という大義名分のもとに巨大な兵力を動員してしまった。


膨れ上がった軍事力と兵たちの熱狂は、江戸城が無傷で手に入ったからといって、そのまま「はい、ご苦労様でした」と故郷へ帰れるような性質のものではない。


どこかで血を流し、誰かを完全なる「悪」として討ち滅ぼすことでしか、新しい国家の権威を内外に示すことはできないのだ。


そして、国を二分する程の泥沼の大戦を避け、江戸百万の民と日ノ本の未来を救った徳川慶喜の判断の「贄」として、最も都合が良く、最も矢面に立たされたのが、最後まで愚直なまでに幕府への忠誠を貫いた会津藩であった。


「……大を得るために、小を切り捨てられたのです」


市之進の口からこぼれたのは、氷のように冷たく、しかし重い真実であった。


「ちちうえ。上様(慶喜公)とて、会津の忠義を知らぬはずがありません。しかし、上様が腹を切り、徳川が完全に消滅すれば、日ノ本は統治の要を失い、異国に喰い破られます。

故に、徳川という『大』を恭順という形で残し、新政府の矛先を会津という『小』へ向けるしかなかった」


合理の上の決断をした慶喜が、どれ程の血の涙を流すような想いを抱いているのか。


それは、かつて織田信長との同盟を維持する(大を得る)ために、自らの正室・築山殿と嫡男・信康を死に追いやる(小を切り捨てる)という凄絶な決断を下した家康にしか、真に理解できない苦しみであった。


「……上様は、日ノ本を残すために、会津を犠牲になされたと、そう申すか……っ」


清孝は、膝に置いた両手をギリリと固く握りしめた。

市之進の説く通り理屈は分かる。しかし、太平の世に武士としての義と誉れを叩き込まれてきた清孝の心は、どうしてもそれを納得したくはなかった。


忠義を尽くした者が報われず、逆賊として無惨に蹂躙されていく。そんな理不尽な「合理」を、どうして易々と受け入れられようか。


だが同時に、清孝の胸の中には、市之進の言葉によって「慶喜の真意を理解してやらねばならない」という脅迫的な観念もまた、重くのしかかっていた。


誰かが泥を被らねば、国が滅びていたのだと。


清孝の苦悩に満ちた横顔を見上げながら、市之進は静かに目を伏せた。


元より、誰のせいでこうなってしまったのか。


会津が悪いわけでも、慶喜が冷酷なわけでもない。ましてや、薩長だけが責を負うべきものでもない。


外圧という未曾有の国難に対し、国を上手く纏められなかった幕府の硬直。そして、二百六十余年という長すぎる平和にどっぷりと浸かり、世界の変化から目を背け続けた諸藩の責任。


そのすべての「ツケ」が、歴史の転換点において、会津という一角に押し付けられたのだ。


(……そして、その太平の世を創り、武士から戦の危機感を奪い去ったのは、他でもないこの『わし』よな)


家康は、胸の奥底でチクリと刺すような鈍い痛みを感じていた。


自分が盤石に組み上げたシステムが、時を経て自らを縛る鎖となり、忠義の者たちをすり潰していく。それが、歴史というものの容赦のない残酷さであった。


「ちちうえ」


市之進は、重苦しい沈黙を破るように、凛とした声を上げた。


「会津の悲劇を、ただ嘆いてはなりませぬ。彼らが流す血は、旧き時代が終わり、新しき明治という時代が産声を上げるための陣痛です。我らが為すべきは、彼らの犠牲の上に立つ新しい国で、二度と異国に阿ることのない『真の強さ』を身につけること」


十一歳の少年の目は、すでに会津の雪野原を越え、その先にある近代国家としての冷徹な未来を、真っ直ぐに見据えていた。


―――


会津が血祭りにあげられ、凄惨な最期を遂げた後も、戦火が完全に消え去ることはなかった。


主君である徳川慶喜が恭順の意を示し、すでに水戸から駿府へと退去して謹慎の身となっているというのに、徹底抗戦を叫ぶ旧幕府の交戦派たちは決して降伏しようとはしなかった。彼らは軍艦を奪って北へ逃れ、ついには蝦夷地の箱館、五稜郭に立て籠もり、「新国家」すら作ろうとする始末であった。


駿府——徳川宗家が移封され、名も「静岡」へと改められようとしているこの地で、北の果ての凶報を聞いた市之進は、深い、心の底からの溜め息を吐いた。


「ちちうえ、北へ逃れた者たちは、上様(慶喜)のため、そして幕臣の行き場を創るためだと大義を掲げているそうですね」


「……ああ。彼らにも武士としての意地があるのだろう。徳川の恩義に報い、新しい世で禄を失う者たちのために、自らの命を懸けて新たな国を拓こうとしているのだ」


清孝の言葉には、無謀と知りつつも彼らの「武士としての矜持」に微かな同情と称賛が混じっていた。


しかし、市之進の冷ややかな眼差しは、微塵も彼らを肯定しなかった。


「愚かなことです」


市之進はピシャリと言い放ち、手元の書物をパタンと閉じた。


「主君である上様が、日ノ本を戦火から救うために全ての泥を被って恭順したのです。

それなのに『主君の命に従う』『徳川のため』と口にしながら、己の意地を満たすために戦を続け、むざむざと兵の命を散らす。それは忠義などではなく、ただの自己満足に過ぎません」


(そうだ。全くもって呆れた奴らだ)


家康の胸中には、冷ややかな怒りすら湧いていた。


かつて彼もまた、天下人となった豊臣秀吉に対し、圧倒的な兵力差を前に臣従を誓った。三河武士たちは泣き叫んで徹底抗戦を主張したが、家康はそれを力ずくで押さえ込んだ。


なぜなら、主君の最大の務めとは「格好良く死ぬこと」ではなく、「泥水をすすってでも家臣を食わせ、生き残らせること」だからだ。


「ちちうえ。もし本当に、行き場を失った幕臣たちを食わせたいと願うのなら、彼らが為すべきは城に立て籠もって大砲を撃つことではありません」


市之進は、畳をじっと見つめながら、かつて己が実践してきた非情なる合理の哲学を口にした。


「新政府の連中に跪いてでも、地に額を擦りつけてでも……たとえ薩長から『腑抜けの腰抜け』と嘲笑われようとも、泥に塗れて交渉し、彼らの居場所を乞うべきなのです」


「市之進! それはいくら何でも武士の面目が……!」


「ちちうえ!!」


市之進の鋭く、覇気に満ちた一喝が、清孝の言葉を断ち切った。


十一歳の童から発せられたとは思えないその重圧に、清孝は思わず息を呑んで硬直した。

市之進は、射抜くような目で父親を見据え、一字一句、噛み含めるように言った。


「……恥などで、腹は膨れませぬ」


その言葉には、戦国という地獄を生き抜き、生き残るためにあらゆる屈辱を呑み込んできた男の、血を吐くような実感が込められていた。


「見栄で、矢弾は防げないのです」


「……っ」


「武士の誉れだの、意地だのというものは、腹いっぱいの飯を食い、安全な城の中で暖を取れる者が口にする『贅沢品』です。

今、幕臣たちに必要なのは誉れではない。明日を生きるための芋であり、凍えないための着物です。それを確保するために頭を下げることの、一体何が恥だというのですか」


清孝は、何も言い返せなかった。


息子の言う通りであった。蝦夷で凍えながら玉砕を待つ兵たちに残されるのは、見栄えの良い「武士の死に様」だけであり、後に残された家族の腹を満たすものは何一つないのだ。


(死んで花実が咲くものか。生きて、生きて、生き汚く生き延びて……最後に盤面を支配した者が勝者なのだ)


市之進は窓の外、遠く北の空を忌々しげに睨みつけた。


新しい時代の幕開けに際して、あまりにも多くの血が、無意味なプライドのために流されようとしている。


「……五稜郭は、いずれ落ちます。異国に阿らぬための上様の決断を、あのような形で台無しにする者たちに、未来などありません」


家康は、過去の幻影に囚われて死に急ぐ旧幕臣たちを冷徹に切り捨てた。


彼の目はすでに、その死の先にある「明治」という全く新しい盤面——富国強兵という過酷な生存競争の舞台へと向けられていた。


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