表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葵三つ葉  作者: 丸亀導師
胎動
PR
8/21

胎動 終

眼前に立ち塞がった巨漢——実質的な新政府軍の最高指導者である西郷隆盛の放つ、人を呑んでかかるような圧倒的な覇気を一身に浴びても、十一歳の市之進は微塵も揺らがなかった。


まるで路傍の石を眺めるかのような、ひどく落ち着き払った仏頂面のまま、市之進はすっと背筋を伸ばし、西郷に向かって完璧な作法で頭を下げた。


「お初にお目に掛かります。私は、駿府城代衆が一人、滝脇監物清孝が長男、滝脇市之進と申します」


高く澄んだ、しかし一切の淀みがない童の声が響く。


(なんと……!)


西郷は、内心で激しく驚嘆した。


西郷の体躯と鋭い眼光は、歴戦の薩摩藩士でさえ竦み上がるほどの威圧感を持っている。 

ましてやここは、実質的に占領された敵地の城内である。普通の童であれば、泣き出すか逃げ出すのが関の山。大人の旧幕臣たちでさえ、西郷の前では青ざめて視線を泳がせているというのに。


この童は、声の震え一つ、瞬き一つせず、泰然自若として自らの名と素性を名乗り上げたのだ。


「……見事な挨拶ごわす。肝の据わった、よかお侍じゃ」


西郷は思わず感嘆の息を漏らし、その太い眉を下げて優しく諭すように言った。


「じゃどん、市之進どん。いくらおはんが立派でも、ここは官軍の兵がひしめく陣中。

血気にはやる若か者もおり、いつ何時、刃傷沙汰になるか分からん危なか場所じゃ。早う、父親の元か、母上の待つ家へお帰りなさい」


それは、敵の子供に対する西郷なりの最大限の温情であった。

しかし、市之進はその言葉を聞いても立ち去ろうとはせず、再び深く一礼してこう返した。


「温かなお気遣い、痛み入ります。……なれど、私は帰るわけには参りませぬ」


「何故ごわすか?」


市之進はゆっくりと顔を上げ、西郷の目を真っ直ぐに射抜いた。


「三百年の徳川の世を終わらせる『新しき世の軍』

が、いかなるものか。それが気になって、気になって仕方が無いのです」


「なっ……」


「筒袖の異国風の軍服、肩に担いだ小銃。そして大名行列とは全く異なる、あの整然とした兵たちの歩み……。

あれがこれからの日ノ本を背負う新しい軍隊の姿ならば、私は今のうちに、その陣容から兵站の具合に至るまで、すべてをこの目に焼き付けておかねばならぬのです。どうか、今しばらくの検分をお許しください」


西郷は、三度目の、そして最大の驚愕に見舞われ、言葉を失った。


童の口から出た「新しき世の軍」という言葉。

それは単なる珍しいもの見たさの好奇心ではない。


この十一歳の子供は、今まさに目の前で起きている事象が、単なる政権交代ではなく「一つの歴史の終焉と、全く新しい時代の幕開け」であるという途方もなく巨大な構造を、完全に俯瞰して理解しているのだ。


(こん童……ただ肝が据わっているだけではごわさん。天下のうねりを、あの小さな目で丸ごと見透かしておる!)


西郷の背筋を、武者震いにも似た強烈な悪寒が駆け抜けた。


幕府は腐り落ち、もはや天下を統べる力を失った。それは事実である。


だが、この駿河の地に、徳川の残り香の中に、これほどの底知れぬ器を持った「化け物」が潜んでいたとは。


「……おはん、本当に十一歳ごわすか」


西郷は、無意識のうちに腰の刀の柄に手をかけそうになる己を必死に戒めながら、目前の小さな『大御所』を、呆然と見下ろすことしかできなかった。


―――


それから、新政府軍が東海道を進発し、西郷がこの駿府の地を離れるまでの短い逗留の間。


駿府城内や宿陣の片隅で、信じがたい奇妙な光景が度々目撃されることとなった。


薩摩の巨漢であり、今や天下の権を握らんとする新政府軍の総責任者・西郷隆盛。


そして、没落しつつある旧幕臣の中級武士の息子である、数え十一の小柄な童・滝脇市之進。


全く釣り合わぬ二人が、陣の縁側や庭石に腰を下ろし、まるで長年の知己か対等な軍師同士であるかのように、ぽつりぽつりと語らい合っていたのである。


周囲の薩摩藩士たちは「西郷どんが、また珍しか童を構っておられる」と微笑ましく見ていたが、当の西郷の内心は、微笑ましさなどとは無縁の「戦慄」と「感嘆」の連続であった。


「西郷様。官軍の兵たちは、一日に進める距離をあえて短く抑えておられますね。それに、荷駄の馬の数が兵の数に対して異常に多い」


ある日の夕暮れ、市之進は茶を啜りながら、極めて自然な口調でそう指摘した。


「……ほう。それが何故か、市之進どんには分かるごわすか?」


「兵站と、民の心のためです」


市之進は盤上の駒を指差すように、東の空へ視線を向けた。


「東海道の宿場を急ぎ足で踏み荒らせば、必ず街道の民から反感を買い、物資の調達に滞りが生じます。

だからこそ、新しき世の軍は『決して民から奪わない』という姿勢を見せつけながら、大量の物資を自前で運び、ゆっくりと威風堂々進まねばならない。……見事な行軍です。

戦は、兵の強さではなく、米と道の確保で決まるのですから」


西郷は、息を呑んで童の横顔を見つめた。

まさにその通りであった。


今回の東征において、西郷が最も腐心していたのが「略奪の厳禁」と「兵站の維持」である。旧幕府軍との違いを民衆に知らしめるための高度な政治的行軍。


それを、前線で槍を振るうことしか頭にない血気盛んな若手将校たちでさえ理解しきれていないというのに、目の前の十一歳の子供は、一目見ただけでその意図を完璧に看破したのだ。


(こん童の目は……兵卒の目でも、将校の目でもなか。まるで天から日ノ本全体を見下ろしておるような、王者の『俯瞰』じゃ)


西郷は、己の人生でこれほどまでに深く納得させられ、恐れ入った視点の持ち主に出会ったことはなかった。


そして、西郷が駿府を発つ前日のことである。

江戸での決戦を前にして、西郷の顔には微かな緊張と、同胞同士で血を洗うことへの深い憂いがあった。


それを見透かしたかのように、市之進はいつもの仏頂面で、淡々と、しかし恐るべき「予言」を口にしたのである。


「西郷様。憂う必要はありませぬ。江戸で戦は起きません。幕府は必ず、江戸城を無血で開城いたします」


「……何と?」


西郷は太い眉を寄せた。


「慶喜公が恭順したとはいえ、江戸には主戦派の幕臣がまだ山のように残っておる。彰義隊などの不満分子も火薬庫のようなものじゃ。血を流さずに城を明け渡すなど……」


「開城します。西郷様が、そうさせるからです」


市之進は、小さな手で西郷の巨大な膝を軽く叩いた。


「考えてもみてください。もし江戸で火の手が上がれば、得をするのは誰か。……仏蘭西フランス英吉利イギリスといった、海の向こうの異国です」


「……!」


「慶喜公が大坂から逃げたのは、内乱を長引かせて異国に付け込まれるのを防ぐため。

その『盤面を捨てる』という大きな決断を、西郷様ほどの御仁が読み取れぬはずがありません。

そして江戸には今、幕府の軍艦奉行であった勝海舟殿がおられますね」


家康の頭脳は、手に入れた情報からすでに勝敗のその先——戦後処理の道筋を完全に弾き出していた。


「勝殿もまた、異国の脅威を誰よりも知る男。西郷様と勝殿が直に顔を合わせれば、必ずや『江戸を灰にしては、日ノ本は異国に喰われる』という一点で合意なさるはず。

……故に、江戸城の扉は、一滴の血も流れることなく開かれます」


静寂が降りた。

西郷隆盛という傑物は、ただただ目の前の童を凝視していた。


(何という……何という天性の才か)


背筋が震えた。


どれほど世界を高くから俯瞰して見ることができれば、これほどの思考を持てるというのか。


局地的な勝ち負けや、武士の意地や、恨みつらみ。そういった地べたの感情をすべて飛び越え、ただ純粋に「国家の生存と未来」だけを計算し尽くした、恐るべき透徹な論理。


それはまさに、乱世を終わらせるためにあらゆる泥を被り、非情な決断を下し続けた大御所・徳川家康の魂が導き出した、究極の「平和への道筋」であった。


だが西郷には知る由もない。西郷の目にはただ、神仏がこの新しい日本のために遣わした、途方もない『未来の怪物』にしか見えなかった。


「……市之進どん」


西郷は、ゆっくりと居住まいを正し、十一歳の童に対して深く頭を下げた。


「おはんの言葉、胸の奥底に刻み込ませてもろうた。……もし、おはんの言う通りに江戸が無事に開城し、新しか日ノ本が産声を上げたなら」


西郷は、大きな手で市之進の小さな肩を包み込むように掴んだ。


「その時は、どうかその恐るべき才を、日ノ本のために使ってくれ。おはんのような若か者がおるなら……この国の未来は、明るか」


「……」


市之進は、仏頂面のまま、ただ黙って静かに頷いた。


(言うまでもない。わしが創り、そして手放したこの国だ。異国の連中などに、好き勝手にさせてたまるものか)


翌日。


西郷隆盛率いる新政府軍は、駿府を後にし、江戸へと向けて出立した。


そして市之進の「予言」通り、それから一ヶ月後。江戸城は西郷と勝海舟の会談により無血開城され、二百六十余年続いた徳川幕府は、ここに完全にその歴史の幕を下ろすこととなるのである。


―――



慶応四年三月。


江戸・田町の薩摩藩邸において行われた、新政府軍の実質的総大将・西郷隆盛と、旧幕府陸軍総裁・勝海舟による極秘会談。


かつてより知己の間柄であった二人である。それぞれが背負う立場の重さゆえに話は長く、張り詰めた空気が漂っていたが、その見据える「意思」は初めから一つであった。


すなわち、江戸を火の海にしてはならない。内乱を長引かせれば、必ずや背後の異国(英吉利や仏蘭西)が軍事介入し、日ノ本という国そのものが植民地として喰い物にされる。


その一点における強烈な共通認識のもと、西郷は自軍の主戦派を抑え込む泥を被り、勝は主君・慶喜の命を保証させるという形で、ついに奇跡的な合意が結実した。


ここに、江戸城の「無血開城」が決定したのである。


「……これで、江戸百万の民が火の海に焼かれずに済む。あんたの肚のデカさにゃあ、心底恐れ入るぜ、西郷どん」


会談を終え、張り詰めていた糸が切れたように深く息を吐いた勝海舟は、江戸っ子特有のべらんめえ調で、目の前の巨漢に深く頭を下げた。


「いや、勝先生。おいの方こそ、幕府の全権を背負って一人で乗り込んでこられた先生の覚悟に、頭の下がる思いごわす」


西郷もまた、深い敬意を持って礼を返した。

歴史的な大役を果たした安堵感の中、ふと、西郷は部屋の窓から西の空——遠く駿河の地を見やった。


(『江戸城は開城します。西郷様が、そうさせるからです』)


脳裏に鮮明に蘇るのは、ひと月前、駿府城で出会った一人の小さな童の姿であった。


あの時、市之進と名乗った十一歳の少年は、まるで歴史の結末をすでに見てきたかのような静かな口調で、この無血開城の顛末を言い当てた。


「江戸を灰にすれば異国が得をする」「西郷様と勝殿が直に顔を合わせれば、必ず合意に至る」と。


あの予言が、今、寸分違わず現実のものとなったのだ。


西郷は改めて、滝脇市之進という少年の底知れぬ深さと、その見据えていた盤面の巨大さに背筋が震えるのを感じた。


「……勝先生」


西郷は、ふと口元に微かな笑みを浮かべて言った。


「実は……この会談が血を流さずに終わり、江戸城が無血で開城されることを、ひと月も前に『予言』しておった者がおりもした」


「ほう?」


勝は、意外そうな顔をして目を丸くした。


「そりゃあ、どこの軍学者だい? 俺たちでさえ今日この日まで首の皮一枚の綱渡りだったってのに。余程、世界と日ノ本の現状が上から下まで見え透いてる奴じゃねえか。名前は?」


「……駿府城代衆が一人、滝脇監物の倅で。数えで十一の、小さな童ごわす」


「はっ?」


勝海舟は、間の抜けた声を上げた。

天下の勝海舟でさえ、一瞬、西郷が何を言っているのか理解できなかったのだ。


「童、だと? 冗談だろう、西郷どん。十一の子供が、異国の脅威だの、俺とあんたの腹の探り合いだのを見抜いてたってのかい?」


「嘘ではごわさん。おいも初めは目を疑いもした。

じゃどん……あの童は、東海道を進む官軍の兵站の意図を見抜き、内乱が異国の介入を招く事の理を、まるで天から盤面を見下ろすように語ってみせた。

……あれは、日ノ本の行く末を背負って立つ、恐ろしか『天の才』じゃ」


西郷のひどく真剣な、そして何処か畏敬の念すら込もった口調に、勝は絶句した。


西郷隆盛という男が、決して世辞や誇張を言う人間ではないことを、勝は誰よりも知っている。その西郷が、一介の幕臣の子供をここまで高く評価しているのだ。


勝は、呆然としたまましばらく虚空を見つめていたが……やがて、肩を震わせ、腹の底からこみ上げるような大笑いを爆発させた。


「はははっ! あっはははは!!」

「勝先生?」

「いや、痛快だ! 痛快すぎて涙が出てきらぁ!」


勝は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、膝を叩いた。


「どうしようもねえくらい腐り切って、いよいよお取り潰しになるってこの幕府の、しかも大御所様(徳川家康)のお膝元である駿府の地から! そんなとんでもねえ化け物が産み落とされてたとはな!」


勝は立ち上がり、西郷と同じように西の空へ顔を向けた。


その横顔には、徳川の世が終わる事への寂寥感と共に、それを吹き飛ばすような強烈な希望の光が差していた。


「……三百年の徳川はここで終わる。だがな、西郷どん。どうやらこの国は、まだまだ面白くなりそうだぜ」


「全くだ。新しい時代は、あのような若か者たちが切り拓いていくのでごわしょう」


二人の傑物は、顔を見合わせて深く頷き合った。


勝海舟は知る由もない。西郷が畏怖を込めて語ったその「十一歳の化け物」の正体こそが、勝が心底敬愛し、何とかその血脈を残そうと奔走した幕府の創設者・徳川家康その人であるという事実を。


激動の幕末が終わりを告げ、明治という新しい時代が、今まさに幕を開けようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ