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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
胎動
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7/22

胎動 6

薩長軍が東海道を西から進軍している——。


その確報が駿府の滝脇家にもたらされたのは、清孝が鳥羽・伏見の敗戦と将軍逃亡の報を市之進に語ってから、ほどなくしての事であった。


駿府城は、東海道の要衝であると同時に、徳川家康が晩年を過ごした徳川家にとっての聖地でもある。城代付きの一介の役人である清孝もまた、その城の接収、あるいは軍の通過に対する実務対応に駆り出されることとなった。


そしてこの日、清孝の登城には、数えで十一歳となる市之進が帯同することになっていた。


「あなた、正気ですか!?」


普段は夫に従順な母の菊が、この異常な事態に際しては声を荒げた。無理もない。敵軍とも呼べる薩長の大軍が迫る最前線の城へ、元服前の跡取り息子を連れて行くなど、狂気の沙汰にしか見えないからだ。


「駿府の城がどうなるかも分からぬのです! 万が一の戦になれば……それに、武士の誉れある跡取りを、みすみす敵の前に晒すような真似、どうしても納得がいきませぬ!」


「菊、これは……」


言い淀む清孝の足元で、数年前に産まれた妹の松が、市之進の袴の裾を小さな手でぎゅっと握りしめていた。


「あにさま、いかないで……。こわい人たちがくるんでしょ? とおくに行かないで」


不安からポロポロと涙をこぼす妹の頭を、市之進は優しく撫でた。


(武士の誉れ、か)


家康は内心で小さく息を吐いた。菊の言う通り、かつての常識ならば、名のある武士の嫡男を敗軍の将のように敵の前に引きずり出すなど、家名の恥であり許されざる事である。


しかし、その『武士の常識』こそが、すでに完全に盤上から消え去ろうとしているのだ。


「ははうえ」


市之進は、すっと姿勢を正し、取り乱す母親を真っ直ぐに見据えた。

その瞳には、十一歳の子供とは思えぬ、底知れぬ静謐さと、冷徹なまでの理性の光が宿っていた。


「誉れや意地で、この家と松を守ることはできません」


「市之進……?」


「城は焼けませんし、いくさにもなりません。ですが、私たちの知っている『徳川の世』は、間違いなくここで終わります。目を背けても、過去にしがみついても、それは変わりません」


市之進の言葉は、酷薄な現実を突きつけるようでありながら、どこか雄大な響きを持っていた。


「今、目の前にある物を受け入れて、始めて前に進むことができるのです」


それは、かつて数え切れないほどの敗北と屈辱を味わい、泥水をすすりながらも現実を受け入れ、生き残るために盤面を整え直して最後に天下を掴み取った男の、魂の言葉であった。


「私は、これからの時代を生き抜くために、古い時代が終わるその瞬間を、この目に焼き付けておきたいのです。どうか、行かせてください」


市之進が深く頭を下げると、菊はもはや何も言い返せなかった。


我が子から放たれる、有無を言わさぬ覇気と覚悟。それは、母親の庇護を必要とする子供のそれではなく、すでに一国の命運すら見据えているような、歴戦の将の顔であったからだ。


「……あにさま、かならず、かえってきてね」


「ああ、約束しよう。必ず戻る」


松の小さな手を優しく解くと、市之進は立ち上がり、呆然とする菊に一礼した。

そして、無言で頷いた父・清孝の背中を追い、生まれ育った粗末な屋敷の木戸をくぐる。

向かう先は、己がかつて大御所として君臨した駿府城。


天下人・徳川家康は、十一歳の少年・滝脇市之進として、自らが創り上げた幕府を葬り去る新たな覇者たちの姿を見定めるべく、東海道の朝霧の中を真っ直ぐに歩み始めた。


―――



駿府城に到着するや否や、清孝は己の「監物」としての役目に則り、即座に実務へと没入していった。

城内は、かつてないほどの緊迫感と混乱に包まれていた。書類が飛び交い、足軽たちがせわしなく駆け回り、上役の武士たちが声を荒げながら指示を飛ばしている。 


そんな修羅場とも言える場に、十一歳の童である市之進がちょこんと控えているのだ。すれ違う者たちの幾人かは訝しげな視線を向けたが、咎める者はいない。いや、正確には「他人の連れ子を気にするほどの時間と心の余裕が、もはや誰にも無かった」のである。


「申し上げます! 薩長を主力とする新政府軍、すでに遠江とおとうみに入ったとのこと!」


伝令の悲痛な叫びが城内に響き渡ると、幕臣たちの緊張はついに極限にまで達した。


遠江は駿河のすぐ隣国である。もはや敵は、文字通り目と鼻の先まで迫っていた。


しかし、パニックに陥りかける大人たちの中で、市之進——家康の双眸だけは、極めて冷静に、そして冷徹に駿府城内の動きをつぶさに観察していた。


(……ほう)


市之進は、仏頂面のまま内心で小さく頷いた。


決して、悪くない動きである。


確かに皆、怯え、浮足立ってはいる。だが、指揮系統が完全に崩壊しているわけではない。情報が伝達され、物資の目録が確認され、使者が次々と手配されている。それぞれが己の役職システムに従い、この絶望的な状況下にあっても「組織」として何とか機能しようと必死に足掻いているのだ。


家康は、前世において室町幕府——足利将軍家が崩壊していく様をリアルタイムで見てきた。


あの頃の幕府の末期症状たるや、目も当てられない有様だった。裏切りが横行し、命令は無視され、役人は保身のために逃げ散り、組織としての体裁などとうの昔に消え失せていた。


それに比べれば、目の前で右往左往している徳川の幕臣たちは、遥かに「良い動き」をしている。


(伊達に三百年の平穏ではなかったという、明らかな証左であるな)


二百数十年もの間、戦を知らぬ平和な世が続いた。武士は牙を抜かれ、官僚と化した。

だが、その代償として、徳川幕府は世界でも類を見ないほど高度で精密な「行政機構」を作り上げていたのだ。この極限状態にあっても、彼らは見事に文官としての職務を全うしようとしている。


(外の力……異国という理不尽な外圧さえなければ、この徳川の世は、まだまだ十二分に持ったはずだ。わしが築いた盤面は、決して間違ってはいなかった)


家康の胸の内に、己の創り上げた幕府の優秀さに対する静かな誇りと、それ故の深い哀惜が入り混じる。

あと百年、いや数十年でも世界の歩みが遅ければ。


だが、歴史に「もしも」は無い。盤面がひっくり返された以上、どれほど優れた行政機構であろうと、時代のうねりには抗えないのだ。


——諸行無常、か。


形あるものは必ず壊れ、栄えたものは必ず滅びる。 


平清盛が、源頼朝が、足利尊氏が、そして織田信長や豊臣秀吉がそうであったように、自分が築いた徳川の世もまた、ここで一つの終わりを迎える。ただそれだけの事なのだ。


市之進が、深い諦念と覚悟を胸に、城の窓から遠く東海道の空を見つめていたその時である。


「……来たぞ。あれが、官軍だ」


誰かが、震える声で呟いた。


地響きのような、一定のリズムを刻む低い足音が、遠くから風に乗って聞こえてくる。

やがて、駿府の城下へと続く街道の彼方に、砂埃と共に「それ」は姿を現した。


先頭に翻るのは、朝敵討伐の絶対的な大義を示す「錦の御旗」。


そしてその後ろに続くのは、もはや刀や槍を掲げた古き武士の集団ではない。筒袖に細身の袴、あるいは異国風の軍服に身を包み、肩に最新鋭の小銃ライフルを揃えて担いだ、整然たる兵の波。


三百年の徳川の世を終わらせる、新たな時代の覇者——薩長軍の大軍勢が、ついに市之進の視界へとその全貌を現したのである。



―――


駿府城に無血入城を果たした新政府軍。その実質的な頭目である西郷吉之助(隆盛)は、ずらりと並ぶ自軍の兵たちと、それに対峙する駿府城代衆を静かに見渡していた。


徳川家にとっての聖地を敵軍に明け渡す。その屈辱と恐怖、そして混乱の只中にあるはずの旧幕臣たちは、しかしそれを微塵も表に出すまいと必死に堪えていた。


彼らはあくまで「役人」としての矜持を保ち、軍の受け入れや物資の引き継ぎを淡々とこなしている。

その整然とした実務能力は、三百年の長きにわたり天下を統治し続けた「徳川」という巨大な機構の底力であり、西郷の目には、まさに崩れ落ちんとする巨大な伽藍のような、美しき斜陽として映った。


(見事なものごわす。なれど、時代は変わらねばならん)


密かに嘆息した西郷であったが、その悲哀と緊張に満ちた風景の中に、ポツンと、明らかな『異物』が混じっていることに気がついた。


一人の、元服前の童である。


西郷といえば、その尋常ならざる巨躯と数々の修羅場を潜り抜けてきた圧倒的な覇気から、並の武士であれば目を合わせることすら避けるほどの男だ。


しかしその童は、西郷の威圧感を恐れるどころか、据わった深い双眸で頭のてっぺんからつま先までをじっと見つめ、あろうことか西郷という男の器を「値踏み」しているように見えたのだ。


(……気のせいか? あのような小さな童が)


一度は見間違いだろうと思い直し、西郷は接収の激務へと戻った。


やがて陽も西に傾き始めた頃。本日の検分を終え、本陣を構える上伝馬町の宿陣へ戻ろうとした西郷の視界に、再びあの童の姿が飛び込んできた。


童は大人たちの目を盗むように城内を歩き回り、陣を下ろして休息する新政府軍の兵たちを興味深げに観察していた。


立て掛けられた小銃ライフルの構造、兵の顔つきや疲労度、荷駄の馬の数、さらには兵站の要である食料の量に至るまで。その視線の動かし方は、珍しい異国の装備を見る子供の無邪気な好奇心などでは断じてない。


それは、敵の陣容と弱点を隅々まで調べ上げようとする、熟練の将の斥候の目そのものであった。


(あの童……ただ者ではごわさん)


猛将であり、同時に類まれなる「人を見る目」を持つ西郷の直感が、激しく反応した。


西郷はたまらず付き人の制止を手で遮ると、自ら大股でその童——市之進の背後へと近づいた。


「おい、そこのおはん」


太く、腹の底に響くような薩摩訛りの声が夕暮れの城内に響いた。

市之進はピタリと足を止め、ゆっくりと振り返る。


「こんな所にいては危なかど。おはんは、ここの役人の子か?」


見下ろす巨漢の西郷。

見上げる十一歳の童。


西郷は、振り返った童の顔を見て息を呑んだ。


子供特有の怯えも、旧幕臣の子供が持つであろう敵意すらも存在しない。


ただただ静かで、底知れぬ深さを持った『仏頂面』。


まるで、途方もない年月を生き抜いてきた古狸か、あるいは天下を睥睨する大物が、その小さな皮を被って自分を見透かしているかのような錯覚に、西郷は一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


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