日清戦争 10 旅順口攻略戦
明治27年(1894年)11月。
満州の平原から南へ、巨大な楔のように突き出した遼東半島。その最南端に位置する大清帝国の絶対防衛線にして、東洋最大の海軍基地『旅順(Lushun)要塞』。
ドイツの軍事顧問フォン・ハンネケンの指導のもと、十数年の歳月と莫大な国家予算を投じて築き上げられたこの要塞は、海側に向かって無数のクルップ社製・最新鋭大口径砲をハリネズミのように突き出し、陸側も堅牢なコンクリートと石垣の堡塁で幾重にも囲まれた、文字通りの「不沈の要塞」であった。
欧米の軍事専門家ですら「この要塞を落とすには、数ヶ月の包囲と数万の犠牲を要する」と断言していた。
その難攻不落の魔城へ向け、秋山支隊の陽動(瀋陽会戦)によって完全に空っぽとなった遼東半島を、無人の野を行くが如き速度で南下していく一個の軍団があった。
大日本帝国陸軍・第一混成旅団。
率いるのは、乃木希典少将である。
「……旅団長閣下。後方の兵站部より、参謀本部からの『機密文書』が届いております」
荒涼たる遼東の秋風が吹く野営地。天幕の中で作戦図と睨み合っていた乃木のもとに、一人の伝令が分厚い封筒を恭しく差し出した。
乃木は無言でそれを受け取り、封を切った。
中から出てきたのは、何枚にも及ぶ巨大な青焼きの図面と、細かな文字がびっしりと書き込まれた書類の束であった。
ランプの灯りに図面をかざした瞬間、乃木の鋭い双眸が驚愕に見開かれた。
「……これは。旅順要塞の、完全な見取り図ではないか……!」
それは、単なる地図ではなかった。
要塞のどこに何口径の大砲が配置されているか。弾薬庫の位置、兵舎の配置、さらには各砲台の『旋回角度の限界(死角)』に至るまで、センチ単位の精度で克明に描き起こされた、旅順の「解剖図」であった。
数年にわたり、港湾労働者や苦力に化けて潜伏し、命と引き換えにコンクリートの厚さや砲の射角を測り続けた『草の者(警察庁保安部)』たちの血の結晶。参謀本部の中枢に座る滝脇慶家は、開戦の遥か前からこの旅順を丸裸にしていたのだ。
だが、乃木をさらに戦慄させたのは、図面に添付されていた「人間(内情)」に関する詳細な分析レポートであった。
『――現在、旅順要塞の守備兵力は約一万数千。
しかし、その内部指揮系統は完全に分断されている。
要塞の構造を熟知している現地の北洋海軍陸戦隊に対し、北京の中央から急遽増援として送り込まれた部隊(安徽軍など)は、要塞の防衛計画を全く理解しておらず、両者の間には深刻な軋轢が生じている。
特に中央からの増援部隊は、平壌・瀋陽での我が軍の異常な殺戮の噂を聞き及んでおり、士気は【異様なまでに低い(実質的な恐慌状態にある)】』
コンクリートの厚さだけでなく、その中に詰まっている「人間の心の脆さ」までを数値化して提示する。
乃木は、書類を持つ手を微かに震わせた。
この狂気じみたまでの緻密な情報収集と分析。間違いなく、あの男の仕業だ。
「……滝脇中佐」
乃木は、低く呟いた。
脳裏に蘇るのは、かつて西南戦争の折、北九州の血みどろの戦場で共に戦った、あの底知れぬ漆黒の瞳を持つ若き将校の姿であった。
乃木希典という男は、本質的には古き良き武士道精神を重んじる、生真面目で愚直な軍人である。
彼自身の本来の戦術思想は「困難な目標に対し、正面から堂々と兵を連ねて攻め上り、血をもって忠誠と武勲を示す」というものであった。
のちの史実(日露戦争)において、彼が数万の将兵を旅順のコンクリートの前に散らせたのは、その愚直さゆえの悲劇である。
だが、今の乃木は違った。
彼は、あの北九州の戦場で、滝脇慶家という『超合理的な男』の戦い方を間近で見せつけられ、深く感化されていたのだ。
(もし、あの滝脇中佐であれば……この盤面をどう動かす?)
乃木は図面に目を落とし、慶家の思考をトレース(同調)し始めた。
(要塞の正面装甲は分厚い。大砲も無数にある。馬鹿正直に正面から歩兵を突撃させれば、無惨にすり潰されるだけだ。
あの男なら、絶対に「強み」にはぶつからない。相手の最も得意とする攻撃を無力化し、陣形の隙間を縫って、最も脆い部分にのみ決定的な打撃を加えるはずだ……!)
それは、将棋の盤面において、相手の強力な飛車や角の射線を完全に躱し、歩と桂馬だけを使って、守りの薄い玉の裏側(死角)へとスルリと潜り込むような、極めて緻密で嫌らしいカウンターアタックの思考であった。
乃木は、図面に記された『中央からの増援部隊(士気が極底の部隊)』が配置されている堡塁と、その周辺に広がる『砲の死角(地形の谷間)』を赤鉛筆で線で結んだ。
「……見えた」
乃木の目が、武人のそれから、冷徹な盤上遊戯者のそれへと変わった。
「正面から血を流す必要はない。敵の弱点(心)を、搦手から一突きの内に瓦解させる」
1894年11月21日、未明。
旅順要塞の攻略戦(旅順口の戦い)の火蓋が切って落とされた。
「敵襲! 倭奴(日本軍)の大軍が、要塞正面に展開!!」
旅順の司令所は騒然となった。
日本軍の野砲部隊が、要塞の正面防衛線に向かって猛烈な砲撃を開始したのである。ドラムロールのような砲声が轟き、要塞の分厚いコンクリートの壁に次々と砲弾が炸裂した。
「慌てるな! 敵の大砲の口径では、この要塞の壁は絶対に抜けん!」
「海側の巨大砲(クルップ砲)を陸側へ旋回させろ! 敵の歩兵が突撃してきたら、榴散弾で平原ごと更地にしてやる!!」
清国軍の将校たちは、恐怖に顔を引きつらせながらも、要塞の堅牢さにすがりついた。
だが、彼らは気づいていなかった。正面で派手に砲弾をばら撒き、土煙を上げている日本軍の部隊が、あえて「要塞砲の射程外(安全圏)」をうろうろと動き回り、ただ騒音と爆炎だけを出している『完全な囮』であることに。
清国の守備隊の目と意識が、完全に「正面」へと引きつけられていたまさにその時。
旅順要塞の北西。
起伏の激しい丘陵地帯に隠され、要塞の大砲が物理的に仰角を下げられず『絶対に撃ち下ろすことのできない死角』。
そこを、乃木希典が直接率いる精鋭・第一歩兵旅団の主力部隊が、音もなく、毒蛇のように這い進んでいた。
「……止まるな。あの正面の騒ぎは我々のための目眩しだ。我々の目標はただ一つ」
乃木は抜刀することもなく、冷徹に部下に進軍を命じ続けた。
彼らが目指したのは、要塞の中で最も防御が固い司令部でも、弾薬庫でもない。
参謀本部の情報が示した『士気が極底にある中央からの増援部隊(安徽軍)』が守備を担当している、北西の二線級堡塁『椅子山』および『案子山』であった。
未明の闇の中、死角を完全に縫って進んできた日本の歩兵部隊が、突如としてその堡塁の目の前に湧き上がった。
「な、なんだと!? なぜこんな背後に、突然敵の大軍が!」
この堡塁を守っていた清国中央の兵士たちは、元々「日本軍は妖怪のように恐ろしい殺戮をする」という噂に怯えきっていた。
彼らは、要塞の構造も熟知しておらず、味方との連携も取れていない。そんな彼らの目の前に、突如として銃剣を煌めかせた日本兵が雪崩れ込んできたのだ。
「ひ、ひぃぃぃっ! 倭奴だァァッ!」
「無理だ、こんなの聞いてない! 逃げろ!!」
一突きであった。
乃木の放った搦手の刃は、防御施設のコンクリートではなく、その中にいる兵士の『恐怖心』という最も柔らかい部分を正確に抉り出したのだ。
中央部隊の兵士たちは、まともに銃を撃ち返すことすらせず、パニックを起こして持ち場を放棄し、要塞の内側へと向かって一目散に逃げ出し始めた。
この「一陣の崩壊」が、難攻不落の魔城にとっての致命傷となった。
「おい、どうした!? なぜ味方が背後から逃げてくる!?」
「北西の堡塁が抜かれたぞ! 倭奴が要塞の内側に入り込んできたァァッ!!」
要塞というものは、外側からの攻撃に対しては無敵の強さを誇るが、一度内側に敵を侵入させられると、大砲の向きを変えることもできず、極端に脆弱になる。
逃げ惑う中央部隊のパニックは、伝染病のように他の陣地を守る兵士たちへと瞬時に広がった。現地の北洋軍の将校が必死に剣を抜いて逃亡を阻止しようとしたが、恐慌状態に陥った数万の群衆の流れを止めることなど不可能であった。
「司令官が逃げたぞ!!」
「もう駄目だ、海へ逃げろ! 船を出せ!!」
指揮系統は瞬時に瓦解。
大砲の弾は有り余り、城壁には傷一つついていないにもかかわらず。
大清帝国が百年の計をかけて築き上げた東洋一の要塞は、内部から勝手に崩れ落ち、自壊していったのである。
11月22日、昼。
総攻撃の開始から、わずか『一日半(数十時間)』。
欧米の観戦武官たちが「数ヶ月は落ちない」と断言していた旅順要塞の空に、日章旗が高々と翻った。
「……要塞内の制圧、完了しました。敵の残存兵力は武器を捨てて降伏、あるいは半島南端の港から小船で逃亡を図っております」
副官からの報告を受けた乃木希典は、弾痕一つない巨大なクルップ砲の冷たい砲身を撫でながら、静かに息を吐き出した。
日本側の損害は、死傷者合わせてわずか数百名。その大半も、混乱した敵との偶発的な白兵戦によるものであり、要塞砲による被害は事実上「ゼロ」であった。
難攻不落の神話は、圧倒的な情報戦と、人間の心理を突いた冷酷な誘導によって、文字通りあっけなく消滅したのである。
「……勝った、のか」
乃木の呟きには、大要塞を陥落させた将軍としての高揚感は微塵もなかった。
あるのはただ、底知れぬ空虚さと、東京の作戦室でこの盤面を支配している男への、背筋が凍るような畏怖だけであった。
(滝脇中佐……貴方という男は、兵士の血どころか、戦争における『勇気』や『奇跡』といった物語すらも、不確定なノイズとして完全に排除してしまうのだな)
血みどろの激戦の末に城に旗を立てる。それが武人の誉れであったはずだ。
しかし、この戦場には英雄はいない。ただ、参謀本部が引いた「情報」という名の完璧なレールの上を、乃木たち現場の将兵が機械のように進み、指定された敵の弱点を押しただけ。
相手は勝手に狂い、勝手に崩れ去った。
「……恐ろしい男だ。だが、これこそが……『負けない』ということなのだな」
乃木は、秋の青空の下、沈黙した旅順要塞の頂で深く目を閉じた。
かくして。
平壌、黄海、瀋陽、そして旅順。
すべての軍事拠点を極めて短期間、かつ圧倒的な非対称の損害比をもって喪失した大清帝国は、自国を守るための『手足』も『牙』も、そして『戦う心』すらも完全にへし折られた。




