↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葵三つ葉  作者: 丸亀導師
日清戦争
PR
82/90

日清戦争 9 情報戦 2

明治27年(1894年)晩秋。


大日本帝国軍の「破竹の勢い」は、連日連夜、帝都の新聞各紙の見出しを熱狂的に躍らせていた。


平壌の陥落、黄海の制覇、そして満州・瀋陽における大勝。極東の小国が、眠れる獅子たる大清帝国を一方的に打ち破っていく痛快なニュースに、日本国民は提灯行列を作って万歳を叫び、主戦論(もっと奥地まで攻め込めという強硬論)が国内を激しく席巻していた。


しかし。


その熱狂の裏側に混じって、各紙の紙面には、ある時期から「極めて異質な記事」が掲載されるようになっていた。


それは、戦場の『悲惨な事実(現実)』を、一切つつみ隠すことなく――ある意味では意図的に誇張して――克明に描写した、凄惨極まる従軍ルポルタージュであった。


従軍記者・正岡子規の絶句

満州、瀋陽近郊。

秋風が吹きすさぶ初代皇帝の陵墓の前に、一人の小柄な日本人記者が立ち尽くしていた。

彼の名は、正岡子規(まさおか しき)。

のちに日本の近代文学(俳句・短歌)に革命を起こすことになるこの男は、当時『日本』新聞の記者として、結核を患う病身を押して戦地へと渡ってきた従軍記者であった。


「……あ、ああ……」


子規の口から、言葉にならない掠れた息が漏れた。


彼の目に映っていたのは、新聞の挿絵にあるような「勇敢な日本兵が、卑怯な清国兵を颯爽と切り伏せる」という勇ましい英雄譚などではなかった。


陵墓の石垣の下。見渡す限りの平原を埋め尽くしていたのは、原形を留めないほどにすり潰された人間の肉片と、膨れ上がった無数の軍馬の死骸であった。


機関銃の十字砲火と榴散弾によって、頭を吹き飛ばされた者、内臓を撒き散らして折り重なっている者。おびただしい数のカラスが空を黒く覆い、死臭と硝煙の入り混じった腐臭が、子規の肺の奥まで容赦なく侵入してくる。


「これが……戦争……。いや、これは、戦争などというものではない……」


子規は、ガタガタと震える手で懐のメモ帳を握りしめた。


彼の同郷(伊予松山)の幼馴染であり、親友である秋山真之(さねゆき)は、今この瞬間も海軍の将校として黄海で戦っている。


そして、真之の兄であり、子規にとっても畏敬の対象である秋山好古(よしふる)は、この陵墓で機関銃を指揮し、眼下の数万の清国騎兵を「屠殺」した張本人であった。


(好古さんは……あの優しくて豪快な好古さんは、この地獄を、一切の感情を交えずに作り出したというのか……)


子規の脳裏に、かつて松山で共に笑い合った秋山兄弟の顔が浮かぶ。

彼らが、そして日本の若者たちが身を投じているのは、名誉や武勲を競う物語の世界ではない。ただひたすらに、人間が人間の形を失い、物言わぬ『肉の塊(数字)』へと変換されていく、絶望的な工業的処理の現場であった。


どれだけの人間が死に、どれだけの血が流れたのか。

この凄惨な現実を前に、文学や詩というものが、いかに無力で虚飾に満ちたものであるかを、子規は思い知らされた。


「……だが、書かねばならない」


子規は、込み上げてくる吐き気を必死に飲み込み、ペンを握る手に力を込めた。


「真之が、好古さんが……日本の若者たちが、いかなる修羅道に立っているのか。勇ましい万歳三唱の裏で、どれほどの地獄が口を開けているのか。……僕には、この筆舌に尽くし難き惨状を、一文字の嘘もなく克明に記し、故郷に伝える義務がある!」


血を吐くような思いで、子規は原稿用紙に向かった。

敵への憎しみでも、味方への賛美でもない。ただ、戦争という化け物の『真の姿』を記録すること。それが、戦場に立つ親友たちに対して、筆一本で同行する子規なりの「従軍の使命感」であった。


―――


正岡子規をはじめとする従軍記者たちが書き送った、戦場の凄惨なルポルタージュ。


通常であれば、軍の検閲(情報統制)によって真っ黒に塗りつぶされるか、発行禁止処分(箝口令)にされるのが当然である。国家の士気を下げるような「死臭の漂う記事」は、軍部にとって最も忌むべきものだからだ。


しかし。


東京の陸軍参謀本部は、それらの凄惨な記事に対して、一切の箝口令を敷かなかった。


いや、黙認したのではない。参謀本部の中枢に座る一人の男が、意図的に検閲をすり抜けさせ、むしろ「大袈裟なほどに報道しろ」と各新聞社へ裏から手を回していたのである。


「……滝脇中佐。よろしいのですか」


参謀本部の執務室。部下の情報官が、朝刊に掲載された『瀋陽の地獄絵図』という見出しの記事を不安げに見つめながら尋ねた。


「このような惨状をそのまま国民に見せれば、軍に対する嫌悪や、厭戦気分が蔓延しかねません。国内の主戦派(強硬派)の怒りを買う恐れもありますが……」


滝脇慶家は、手元の珈琲をゆっくりと飲み下し、薄く笑った。


「それでいいのだ。いや、そうでなければ困る」


慶家は、机に広げられた新聞記事を指先で弾いた。


「平壌や瀋陽の勝利に酔いしれ、『このまま北京まで攻め込んで、清国を完全に占領しろ』などと息巻いている国内の愚かな主戦派どもに、現実(地獄)を見せてやる必要があるのだ。

戦争を、芝居小屋の痛快な活劇か何かと勘違いしている連中に、『お前たちが望んでいるのは、この見渡す限りの内臓と腐臭の山だ』という冷水を浴びせかけろ」


もし、国民に「輝かしい勝利」だけを見せ続ければ、大衆の熱狂は際限なく膨張し、やがて政府や軍の統制を振り切って「無限の戦争継続(底なし沼への行軍)」を強要してくる。


のちの昭和の軍部が陥るその『大衆迎合の罠』を、家康の魂を持つ慶家は完璧に予見していた。


だからこそ、彼は国民の胃袋を裏返させるような凄惨な記事を、あえてノーカットで流し込んだのである。


「これ以上戦争を続ければ、次は自分たちの息子や夫が、この肉片の山に加わることになるぞ」という強烈な恐怖を植え付けるために。


「そして、もう一つ。重要な任務がある」


慶家は、情報官に向けて氷のように冷たい視線を向けた。


「国内の新聞各社、および欧米の通信社に対し、『この一方的な殺戮の盤面(地獄)を設計し、指揮しているのは、参謀本部の滝脇慶家である』という事実を、大々的に宣伝させろ」


情報官は、我が耳を疑った。


「な、中佐殿!? それでは、貴方お一人が、国内外から『血も涙もない悪魔』として、すべての非難と憎悪を浴びることになりますぞ! 将来の軍歴にも致命的な傷が……」


「構わん。やれ」


慶家の声には、一切の躊躇いがなかった。


戦争の悲惨さを国民に突きつければ、当然「誰がこんな残酷な殺し方をしたのだ」という怒りや倫理的な批判(ガス抜き)の矛先が必要になる。


その矛先が、現場で命を張っている秋山兄弟のような前線の将兵に向かうことだけは、絶対に避けねばならなかった。彼らはただ、生き残るために与えられた命令(システム)を遂行しただけの、国の宝である。


「兵たちを、殺人鬼(英雄)にしてはならない。

国民から憎まれ、後世の歴史家から『悪魔の如き冷血漢』と罵られるのは、安全な帝都の作戦室で算盤を弾いている私一人で十分だ」


慶家は、窓の外に広がる帝都・東京の穏やかな空を見上げた。


「軍とは、本来忌むべき暴力の装置だ。国民が軍(私)を恐れ、忌み嫌うくらいで丁度いい。……私が悪名を一身に背負うことで、前線の将兵の心が守られ、国内の狂熱が冷め、国家が『適切な落とし所(講和)』へと軟着陸できるのであれば、安いものだ」


極東の覇王は、自らの名誉や保身など、とうの昔にドブに捨てていた。

彼は『理戦論』という無機質な方程式の中に、最後の一つとして「自らをスケープゴート(悪役)として盤面に組み込む」という、究極の自己犠牲のパラメーターを打ち込んだのである。



数日後。


正岡子規の血を吐くような凄惨なルポルタージュと並んで、各紙の紙面には一つの名が不気味に踊るようになった。


『――この地獄の如き殺戮の図面を引きたるは、参謀本部の異端児・滝脇慶家中佐なり』


人々は、新聞を読みながら身震いした。


何万という人間を感情一つ交えずに処理し、自国兵の犠牲を極限まで抑え込む、正体不明の『参謀本部の化け物』。


主戦派の政治家たちでさえ、その残酷すぎる合理性の前に言葉を失い、「これ以上の進軍は、あの男に国家を売り渡すようなものだ」と、急速に声のトーンを下げていった。


戦場で血のインクを使い、戦争の真実を文学として刻み込もうとする正岡子規の「熱きペン」。


帝都の冷たい作戦室で、国家の生存と終戦のシナリオを計算し、自ら泥を被る滝脇慶家の「冷徹なる算盤」。


二つの全く異なる魂が、それぞれのやり方で『日清戦争』という狂気の時代を記録し、制御していく中。


大日本帝国軍の刃は、いよいよ大清帝国の命運を完全に断ち切る最後の標的――『旅順要塞』へと、その鈍く光る切先を押し当てようとしていた。


―――


明治27年(1894年)晩秋。

満州の凍てつく荒野に設営された、欧米列強の観戦武官たちのテント。


分厚い外套に身を包んだイギリス軍とドイツ軍の武官たちは、ランプの薄暗い灯りの下で、日本から取り寄せた数日遅れの新聞の翻訳原稿を読み、そして……底知れぬ悪寒に身を震わせていた。


『――この地獄の如き殺戮の図面を引きたるは、参謀本部の異端児・滝脇慶家中佐なり』


新聞各紙に躍るその不気味な見出しと、正岡子規をはじめとする記者たちが克明に記した「肉片と泥濘の地獄絵図」。


それを読んだ欧米の武官たちは、当初、大日本帝国の検閲システムが崩壊したのかと疑った。しかし、裏のルートから情報を探った結果、彼らはさらに信じがたい事実に直面することになったのである。


「……信じられるか? 日本軍の参謀本部は、意図的にこの凄惨な事実を世間に流布させている。あまつさえ、その作戦立案者である『タキワキ』という男自らが、すべての憎悪を一身に集めるためのプロパガンダを引いているというのだ」


ドイツ帝国の陸軍武官が、信じられないものを見るような目で新聞を卓上に放り投げた。


「あの男の正気を疑う。自国を勝利に導きながら、自ら進んで『血も涙もない悪魔』のレッテルを被るなど……。武人としての名誉欲や自己顕示欲というものが、あの男には完全に欠落しているのか?」


「狂っているのではない。……恐ろしいほどに、正気(クレバー)なのだ」


イギリスの武官が、苦り切った顔でパイプに火をつけながら答えた。


「勝利に狂喜する愚かな大衆に、死臭の漂う現実を見せつけて熱狂に冷水を浴びせ、戦争の着地点(講和)をコントロールする。英雄を祭り上げるのではなく、自らをスケープゴートにすることで、国家という巨大なシステムを強引に制御しているのだ。……我々の国のどの政治家、どの将軍に、これほど冷酷に自らを盤面の『駒』として切り捨てる覚悟がある?」


テントの中に、重苦しい沈黙が落ちた。


観戦武官たちは、平壌や瀋陽の戦場で何が起きたのかを、この目でハッキリと見ていた。


彼らがそこで目撃したのは、東洋の辺境で起きた珍しい局地戦などではない。『将来の戦争が、いかなる姿になるのか』という、絶望的な未来のプレビューであった。


「機関銃と塹壕、そして冷徹な兵站計算。……これらが組み合わさった時、戦争から『個人の勇気』や『戦術的な閃き』は完全に無価値となる」


ドイツ武官が、震える手でペンを握り直した。


「敵を殺すのではなく、環境を整えて敵が自滅するのを待つだけの『工業的な処理作業』。……もし、我々欧州の軍隊が、この極東の島国が創り上げた【システム】同士で激突することになれば、どうなるか? 数万の死者など序の口だ。

数十万、数百万の若者が、何一つ名誉を得ることもなく、泥と鉄条網の中で機械的にすり潰されることになるぞ……!」


それは、のちに第一次世界大戦の西部戦線で欧州が支払うことになる莫大な血の代償を、数十年早く予見した、極めて正確な恐怖であった。


「本国へ、緊急のレポートを送らねばならない」


イギリス武官が、血を吐くような声で言った。


「騎兵の突撃はもはや自殺行為であること。大砲の火力と塹壕陣地が戦場の絶対的支配者となること。

そして何より……日本という国が、我々の軍事学を遥かに凌駕する『理戦論』という悪魔の論理を完成させていることを。

急ぎ、本国の軍制を根本から見直さなければ、我が大英帝国すらも遠からずこの化け物に飲み込まれる!」


武官たちは、狂ったようにペンを走らせた。

極東の辺境で産声を上げた『次世代の戦争の姿』を、一刻も早くロンドンやベルリンの司令部へ伝え、警告を発しなければならない。その使命感だけが、彼らを突き動かしていた。


だが。


レポートの最終ページに署名しようとした時。


彼らのペン先は、まるで凍りついたようにピタリと止まった。


(……これを、そのまま本国に送って、どうなる?)


彼らの脳裏に、本国の豪奢な執務室でふんぞり返っている、白髭を蓄えた老将軍たちや、貴族階級の政治家たちの顔が浮かんだ。


『――極東の局地的な、野蛮人同士の戦いである』


将軍たちの嘲笑うような声が、幻聴として聞こえた気がした。


『黄色い猿どもが、たまたま機関銃という新しいおもちゃを手に入れて、旧態依然とした清国の農民兵を追い散らしただけではないか』


『あのような卑怯な塹壕戦や待ち伏せなど、我が国の誇り高き正規軍の突撃(エラン・ヴィタール)の前には、一ひねりで粉砕できる』


『有色人種(イエロー)の小国が、我々白人が数百年かけて築き上げた軍事学を超えるシステムを創り上げただと? 貴様ら、アジアの空気に当てられて頭がおかしくなったのではないか?』


観戦武官たちは、ペンを握りしめたまま、絶望に目を閉じた。

分かっている。

自分たちがどれほど論理的に、どれほど克明にこの『理戦論』の恐ろしさを報告しようとも。


本国の連中は、自らの「白人至上主義」と「大国としての驕り」という分厚い色眼鏡を決して外そうとはしない。彼らはこの戦いを、「欧州の文明的な平原では絶対に起こり得ない、アジア特有の野蛮な特殊事例」として、間違いなく一蹴(黙殺)するだろう。


「……届かないのだ。我々の声は、あの傲慢な連中には」


ドイツ武官が、自虐的な、力ない笑いを漏らした。


「彼らがこの『日本軍の異常性』を正しく理解し、自らの軍事ドクトリンが完全に時代遅れであると認めるのは……我々自身の祖国が、この塹壕と機関銃の泥沼に足を踏み入れ、何百万という同胞の血を流した後になるだろう」


ランプの灯りが、絶望に打ちひしがれる武官たちの影をテントの布に黒々と映し出していた。


彼らは悟ったのだ。


滝脇慶家という男は、清国軍を物理的に盤面でコントロールしているだけではない。


欧米列強が持つ「人種的偏見(プライド)」すらも完全に計算に入れ、『自国の真の恐ろしさが、欧州の中枢には絶対に警戒されない(握り潰される)』という心理的な防壁(ブラインド・スポット)までも、完璧に設計してのけているのだということを。


「……悪魔め」


イギリス武官は、もはや警告ではなく、ただの備忘録(遺言)となってしまうであろうレポートの束に、諦めと共に震える手でサインを記した。


極東の島国が創り上げた冷酷なる屠殺場。


世界の誰もがその本質に気づかず、あるいは気づくことを拒絶し、軽薄な狂騒に酔いしれる中。


滝脇慶家の『理戦論』は、世界中のあらゆるノイズと干渉を完璧に遮断した無菌室の中で、いよいよ大清帝国の息の根を止める最終段階(旅順要塞攻略)へと、その無機質な歯車を進めていくのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。