日清戦争 7 第二次黄海海戦
明治27年(1894年)晩秋。
平壌において、数万の大清帝国・北洋陸軍が「文字通り消滅した」という事実は、北京の紫禁城にこれまでの歴史上類を見ないほどの深刻な精神的致命傷を突き立てていた。
「開戦からわずか数ヶ月で、数万の将兵が遺体すら残さずに消え失せただと……? 倭奴(日本軍)どもは、妖術でも使ったというのか!」
清国の中枢は、恐慌状態に陥っていた。
彼らがこれまで経験してきた反乱鎮圧や、欧米との小規模な軍事衝突とは次元が違った。城を包囲され、じわじわと兵糧攻めに遭うのならまだ理解できる。
しかし、敵の刃に触れることすらなく、気がつけば数万の命が一方的に叩きのめされ、更地に変えられている。
その「理解の及ばない殺戮の速度と規模」は、大中華の誇りを粉々に打ち砕き、根源的な恐怖を植え付けた。
「このままでは、奴らは鴨緑江を越え、一気に満州から北京へと雪崩れ込んでくるぞ!」
流石の大清帝国も、この事態に至ってようやく「極東の島国が、本気で自分たちを滅ぼしに来ている」という現実を直視せざるを得なくなった。
彼らは慌てて防衛線の再構築に乗り出した。朝鮮半島から怒涛の勢いで押し寄せてくるであろう日本軍を迎撃するため、北洋艦隊の絶対的拠点であり、東洋一の堅牢さを誇る『旅順要塞(遼東半島)』へと、ありったけの予備兵力と大砲を真剣に割り振り始めたのである。
旅順要塞に兵力をかき集める。それは防衛戦術としては極めて真っ当な判断であった。
しかし、ここで清国軍の首脳陣は、一つの「致命的なジレンマ」に直面することになる。
現在、旅順の湾内には、黄海海戦で無様に逃げ帰ってきた残存艦艇と、出撃すらできなかった巨大戦艦『定遠』『鎮遠』を含む北洋艦隊の主力が、身を寄せ合うように係留されていた。
渤海湾における制海権は、未だこの巨大戦艦の存在によって、かろうじて清国側が保持している状態にある。海上の交通網を維持し、首都・北京への海上からの直接攻撃を防ぐためには、この北洋艦隊が何としても「健在」でなければならない。
だが、もし日本陸軍が遼東半島を陸づたいに南下し、旅順要塞を背後から包囲してしまったらどうなるか。
艦船の大砲は海へ向けて撃つものであり、陸上の死角から要塞ごと砲撃されれば、湾内に閉じ込められた艦隊は、ただの一発も撃ち返すことなく湾内で全滅(沈没)する。旅順が陥落すれば、艦隊もまた事実上完全に崩壊する。それは近代軍事学の常識であり、火を見るよりも明らかな帰結であった。
「……旅順に艦隊を置いておくのは危険すぎる。ただちに艦隊を南へ逃がせ!」
李鴻章をはじめとする清国の首脳陣は、苦渋の決断を下した。
旅順を見捨てるわけではない。だが、最も高価な国家の財産である「艦隊」だけは、日本陸軍の手が届く前に安全な港へと退避させ、制海権の完全喪失を防がなければならない。
退避先は、北京に近く安全な「天津」に動かせばよいのではないか? という意見も出た。
しかし、当時の天津港は水深が極めて浅く、定遠や鎮遠といった喫水の深い外洋艦隊が駐留できるような港湾施設も、傷ついた巨大艦を修理・整備できるドックも存在していなかった。
彼らに残された選択肢は、ただ一つ。
黄海を挟んで旅順の対岸に位置する、もう一つの巨大な海軍基地――山東半島の『威海衛』へと艦隊を移すことだけであった。
「北洋艦隊主力を、旅順より出港させ、威海衛へと回航せよ」
この極秘の艦隊移動指令は、清国海軍の生き残りを賭けた、絶対に日本軍に知られてはならない最高機密であった。夜闇に紛れて黄海を横断し、日本艦隊の目を盗んで山東半島へと逃げ込む。それが清国側の描いた唯一の生存戦略であった。
しかし。
彼らが「最高機密」だと信じ込んでいたその情報は、命令書に皇帝の玉璽が押されるよりも早く、東京・三宅坂の陸軍参謀本部へと筒抜けになっていた。
旅順の港湾労働者や、天津の電信局の局員に化けて潜伏していた『草の者』たちが、艦隊のボイラーに火が入るタイミングや、石炭の積載量、そして水先案内人の手配状況から、清国艦隊の「出港日時」と「目的地(威海衛)」を完全に割り出していたのである。
「……ご苦労だった」
参謀本部で作戦図を見下ろしていた滝脇慶家は、情報官から上がってきた暗号電報を一読すると、冷たい笑みを浮かべた。
「清国も、ようやく真っ当な軍事論理に辿り着いたようだな。陸軍に背後を突かれる前に、艦隊を威海衛に逃がす。……悪くない判断だ。我々が『知らなければ』、の話だがな」
慶家は、ただちにその極秘情報を手に取り、作戦室の向かいに座る海軍軍令部長へと差し出した。
「閣下。獲物が、自ら要塞(旅順)の傘の下から這い出してきますぞ」
「……見事な情報収集能力だ、滝脇中佐。これで、我が海軍も危険な要塞砲の射程内に踏み込むリスクを冒さずに済む」
海軍軍令部長は、受け取った電報を見て獰猛な笑みを浮かべた。
大日本帝国軍の恐ろしさは、ここにある。
陸軍の諜報網(保安部)が掴んだ最高機密の情報が、一切の出し惜しみや縄張り争い(セクショナリズム)を経ることなく、即座に海軍の作戦行動(艦隊機動)へと直結される。
情報を独占して手柄を独り占めにするのではなく、国家の勝利のために陸海が「一つの脳髄」として完全に同期しているのだ。
「海軍は、ただちに連合艦隊に出撃命令を下す。……旅順から威海衛へと至る海路の真ん中で、手ぐすね引いて待たせよう」
「ええ。心ゆくまで、叩きのめしてやってください」
陸海軍の首脳が交わしたわずか数分の会話によって、大清帝国海軍の命運は完全に決定づけられた。
第二次黄海海戦の幕開け
数日後。
月の隠れた深夜、旅順港の重い防潜網が開かれ、大清帝国が誇る『定遠』『鎮遠』を中核とする北洋艦隊の残存艦艇が、音を殺して外洋へと滑り出した。
彼らは、日本軍の哨戒網をすり抜けたと信じていた。
陸軍の進撃に怯えながらも、「威海衛にさえ辿り着けば、まだ我々は戦える。渤海の制海権は渡さない」と、悲壮な決意を胸に黄海の波を切って進んでいた。
しかし。
夜が明け、水平線の向こうに朝日が昇り始めたその時。
旗艦『定遠』の艦橋で見張りに立っていた清国の水兵は、双眼鏡を覗き込んだまま、絶望のあまりへたりと膝をついた。
「て、敵艦隊……! 前方海域に、敵艦隊!!」
威海衛へと続く航路のど真ん中。
そこには、まるで初めから清国艦隊が通る時間を知っていたかのように、大日本帝国の巡洋艦隊(連合艦隊)が、一寸の狂いもない完璧な単縦陣(T字の横棒)を組んで、悠然と待ち構えていたのである。
「ば、馬鹿な! なぜ我々の動きが読まれている!? なぜ、こんな場所で待ち伏せができるのだ!!」
清国の提督は、血を吐くような悲鳴を上げた。
偶然遭遇したのではない。日本艦隊は、清国艦隊の「針路」「速度」「陣形」のすべてを事前に把握し、最も有利に砲撃を加えられるポジション(キルゾーン)にあらかじめ陣取っていたのだ。
「全艦、戦闘準備! 定遠、鎮遠の主砲で敵の陣形を打ち崩せ!!」
遅きに失した命令が飛び交う中、日本艦隊の旗艦マストに『Z旗(皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ)』の信号旗が翻った。
ドゴォォォォォンッ!!
ズドォォォォォンッ!!
黄海の静寂を切り裂き、両軍の巨砲が一斉に火を噴いた。
第一次黄海海戦では出撃すらできなかった、東洋一の巨大戦艦『定遠』と『鎮遠』の30センチ主砲が、凄まじい水柱を上げて日本の巡洋艦群に襲いかかる。
対する日本海軍は、新鋭の速射砲による圧倒的な弾幕と、慶家が設計に関与した異形の装甲巡洋艦『赤石型』を前面に押し出し、清国の巨砲の雨を冷酷に「受け」ながら、致命的なカウンターの距離へと肉薄していく。
大清帝国の海軍がその命脈を保つための「最後の脱出劇」は、日本の情報網によって完全に暴かれ、死の罠へと変貌した。
極東の海の覇権を完全に決定づける、のちの戦史において『第二次黄海海戦』と呼ばれる凄惨なる艦隊決戦の幕が、今、絶望の海上で斬って落とされたのである。
―――
威海衛への脱出を図った大清帝国・北洋艦隊と、それを待ち受けていた大日本帝国・連合艦隊による黄海上の激突。
のちの海戦史に『第二次黄海海戦』として刻まれるこの戦いは、軍事学の常識から言えば、極めて奇妙な様相を呈することになる。
本来であれば、この状況下における海戦は「安全な港へ逃げ込もうとする艦隊」と、「それを後ろから追いかけ、逃さず沈めようとする艦隊」による、熾烈な追撃戦になるはずであった。
しかし、現実の黄海上に現出していたのは、戦いという言葉すら生ぬるい、一方的かつ無慈悲な「巨大なサンドバッグ(吊るし打ち)」の光景であった。
14隻対18隻の「逆転現象」
黄海上に布陣した両軍の陣容は、以下の通りであった。
* 大日本帝国(連合艦隊):艦艇14隻(総排水量 約40,000トン)
* 大清帝国(北洋艦隊):艦艇18隻(総排水量 約35,000トン)
単純な「隻数」だけで見れば、清国海軍が18隻、日本海軍が14隻と、逃げる清国側の方が多い。
しかし、その総排水量(艦の大きさと重さの合計)を見れば、日本側が約4万トン、清国側が約3万5千トンと逆転している。
これは、日本艦隊が一隻あたりの火力が大きく近代化された新鋭巡洋艦で統一されていたのに対し、清国艦隊は巨大戦艦(定遠・鎮遠)の二隻を除けば、旧式の小型巡洋艦や木造砲艦、水雷艇などの「雑多な寄せ集め」であったことを如実に示している。
数に劣る日本軍が、いかにして隻数で勝る清国艦隊を海上の藻屑と変えたのか。
その勝利の決定的な要因となったのは、艦の性能差以上に、両軍の間に横たわる絶望的なまでの『練度(訓練の蓄積)』の差であった。
「――敵艦隊、発見! 距離一万!」
日本艦隊の接近を知らせる見張りの絶叫が響いた瞬間、清国・北洋艦隊の陣形は、砲弾を一発も浴びる前からすでに自壊を始めていた。
近代海軍における「艦隊運動」とは、複数の艦が同じ速度、同じ間隔を保ち、旗艦の信号一つで一斉に回頭して敵に最大の火力を向けるという、極めて高度な連携技術である。これを戦場の極限状態で行うためには、平時からの血を吐くような猛訓練が不可欠であった。
しかし、予算を横領され、政治的腐敗のどん底にあった北洋艦隊の将兵たちは、まともな洋上訓練などただの一度も受けていなかった。
大砲の撃ち方も、艦の動かし方も、すべてが「机上の空論」のまま実戦に放り込まれたのである。
「丁字(T字)を描け! 敵の先頭に砲火を集中するのだ!」
清国の提督が旗艦『定遠』から懸命に信号旗を揚げるが、後続の艦艇は誰一人気づかないか、あるいは気づいても操艦技術が伴わず、明後日の方向へと進んでいく。
陣形は瞬く間に崩壊し、互いが衝突しそうになって慌てて舵を切る有様であった。
統制を失い、近代的な艦隊運動が不可能だと悟った清国の各艦長たちは、恐怖と焦燥の中で、各個の勝手な判断による自暴自棄な反撃へと出た。
「ええい、撃ち合いでは勝てん! このまま全速前進、敵艦に突っ込め!!」
第一次黄海海戦の悪夢再びである。
彼らにできたことは、大砲を盲滅法に撃ち鳴らしながら、艦首の巨大な鉄の角(衝角・ラム)を日本の新鋭艦に突き立てようとする、時代遅れで無謀な突撃軌道をとることだけであった。
そして彼らの心の底には、ただ一つの盲目的な祈り(精神的支柱)がすがりついていた。
(我々には、東洋一の巨大戦艦『定遠』と『鎮遠』がいる! あの二隻の30.5センチ巨砲が敵の旗艦を吹き飛ばせば、一発逆転できるはずだ!)
だが、無情な物理法則とシステムの前に、奇跡の一発などというロマンが入り込む余地はなかった。
対する大日本帝国・連合艦隊の動きは、清国艦隊の狂乱とは対極にある、冷え切った機械時計のような正確さであった。
「敵艦隊、陣形崩壊。散発的にこちらへ突撃を企図」
「愚かな。……予定通り、各戦隊ごとに目標を分割。各個撃破へと移行せよ」
日本海軍は、14隻の艦隊を一つの塊として動かすのではなく、『本隊』『第一遊撃隊』『第二遊撃隊』といった複数の戦隊に分割する戦術をとった。
第一遊撃隊が圧倒的な機動力(速力)を活かして清国艦隊の側面や背後に回り込み、逃げ道を塞ぐ。そして本隊が正面から敵の主力を受け止める。
この複雑な分割機動を可能にしたのは、各戦隊の司令官に与えられた『各個の指揮権(裁量権)』である。
大将の命令を一から十まで待つのではなく、現場の指揮官が状況に合わせて最適な位置取りを行う。滝脇慶家が陸軍に持ち込んだ「任務遂行型指揮」の概念は、海軍においても完璧に機能していた。
「距離五千。……撃て(テエッ)!!」
日本艦隊の単縦陣から、凄まじい閃光と轟音が連鎖した。
勝敗を決したのは、日本艦隊が装備していた『速射砲』と、その砲身から吐き出される『榴弾』の圧倒的な投射量であった。
当時の清国軍が主に使っていたのは、分厚い装甲を撃ち抜くための「徹甲弾(中には火薬が入っていないただの鉄の塊)」や、ひどい時には予算不足で「砂」が詰まった砲弾であった。当たっても爆発せず、船体を貫通して海に落ちるだけである。
対して日本軍が放ったのは、何かに触れた瞬間に凄まじい爆発を起こし、周囲を火の海にする「榴弾」であった。
ダダダダダダダダッ!!
ドゴォォォォンッ!!
訓練の行き届いた日本軍の砲手たちは、清国軍の数倍から十数倍という恐るべき速度(一分間に数発)で砲弾を装填し、雨霰のように敵艦へと浴びせかけた。
「ひ、ひぃぃっ! 火が、火が消えない!!」
「甲板が燃えているぞ! 退避しろ!!」
海戦は、たちまち一方的な殺戮の宴と化した。
突撃を試みた清国の巡洋艦や砲艦は、日本艦隊の速力に追いつくことすらできず、遠距離からの速射砲の弾幕に捕まった。
榴弾が命中するたびに、艦上の木甲板や非装甲の上部構造物が吹き飛び、凄惨な火災が発生する。指揮所が吹き飛ばされ、砲手がミンチにされ、操舵不能に陥った清国の艦艇は、黄海の上で次々と黒煙を上げる巨大な松明へと変わっていった。
陣形運動、各個の指揮権、速射砲、機動性。
そして何より、弾の雨の中でそれらを正確に実行し続ける『練度』。
大日本帝国海軍は、そのすべてにおいて清国海軍を完全に凌駕し、文字通り「サンドバッグ」のように敵艦を一つ、また一つと海定へと沈めていった。
しかし。
日本の巡洋艦群が、清国の小型艦艇を次々と血祭りに上げる中。
黄海の中央に、どれほど砲弾を浴びせても決して沈まない「二つの巨大な鉄の城」が、黒煙を吹き上げながら不気味に浮かび上がっていた。
大清帝国の誇る二大戦艦、『定遠』と『鎮遠』である。
「また弾かれた! 敵戦艦の装甲、貫通できません!」
「クソッ、化け物め! 一体どれだけ分厚い鉄板を巻いているんだ!」
日本の速射砲から放たれた榴弾が、定遠と鎮遠の舷側に何度も直撃する。
しかし、ドイツのフルカン造船所で建造されたこの二隻は、当時の東洋では規格外の「355ミリ」という異常な厚さの複合装甲帯に守られていた。
日本の榴弾が命中し、表面で爆発して火災を引き起こしても、その内側にある艦の心臓部(機関室や弾薬庫)には、傷一つ付けることができなかったのである。
ズドォォォォォォンッ!!!
猛火に包まれながらも、定遠の30.5センチ連装主砲が火を噴いた。
凄まじい砲風が海面をえぐり、放たれた巨大な砲弾が日本艦隊の頭上をかすめて海面に落ち、天を突くような巨大な水柱を上げた。
もしあの一発が、装甲の薄い日本の巡洋艦に直撃していれば、艦は一瞬で真っ二つにへし折られていただろう。
「……構わん! 距離を保て! 奴らの砲手の練度では、我が軍の機動を捉えることはできん!」
日本の提督たちは、冷や汗を流しながらも冷静な判断を下した。
定遠と鎮遠の大砲は確かに恐ろしい。しかし、砲弾を運ぶ機械は故障だらけで、砲手の訓練も皆無。しかも日本艦隊は高速で動き回りながら撃ってくるのだ。清国の巨砲は、空き缶を狙って丸太を振り回すようなもので、当たるはずがなかった。
日本艦隊は、戦艦の主砲の射程外や死角を維持しつつ、ひたすらに上部構造物(非装甲部分)に向かって榴弾の雨を降らせ続けた。
マストが折れ、煙突が吹き飛び、艦橋が崩落する。
定遠と鎮遠は、艦の内部は無事でも、指揮系統と外部の砲塔群を完全に破壊され、事実上の「戦闘能力喪失(無力化)」へと追い込まれた。
彼らは沈むことはなかったが、反撃することもできず、ただ黄海の上を漂う黒焦げの巨大な鉄屑と化したのである。
数時間ののち。
黄海上に浮かんでいたのは、無傷で陣形を整え直す大日本帝国・連合艦隊と、沈みゆく十数隻の清国艦隊の残骸、そして、猛烈な火災を起こしながらも、どうしても沈められなかった『定遠』と『鎮遠』の二隻だけであった。
戦いとしては、日本海軍の完全なる圧勝である。
清国の北洋艦隊はここに事実上全滅し、渤海湾の制海権は大日本帝国の手へと完全に移行した。
しかし。
旗艦の艦橋から、炎上しながらもなお海面に浮かび続ける二隻の巨大戦艦を双眼鏡で見つめていた日本の海軍首脳陣の顔に、勝利の歓喜はなかった。
彼らの心に深く刻み込まれていたのは、歓喜よりも遥かに重い、背筋が凍るような「戦慄」と「焦燥」あった。
「……あそこまでボロボロにしておきながら、どうしてもトドメ(撃沈)が刺せなかった」
「我々の持つ巡洋艦の速射砲では、あの分厚い装甲を撃ち抜くことは物理的に不可能だ。
今回は敵の練度が低かったから助かったが……もしあの戦艦に、我々と同じ練度の乗組員が乗っていたら、我が艦隊は一瞬で海の底だっただろう」
機動力と速射砲を主体とした巡洋艦隊による『各個撃破』の戦術は、確かに正しい。
だが、どれほど練度を高め、どれほど見事な艦隊運動を行おうとも、「絶対に貫通できない巨大な装甲」と「一発で味方を消し飛す巨砲」を持った本物の化け物(戦艦)の前に立てば、それらの小細工はいつか必ず破綻する。
大日本帝国海軍は、この第二次黄海海戦という圧倒的な大勝利の中で、最大の教訓を血を吐くような思いで痛感したのである。
「――我々にも、戦艦が必要だ。列強の巨大装甲を正面から撃ち割り、力でねじ伏せることのできる、絶対的な『巨砲を持つ戦艦』が」
極東の海を制覇した日本海軍。
しかし彼らの視線は、すでに海に沈んだ清国艦隊ではなく、その遥か先。
やがて極東へと波及してくるであろう世界最大の帝国、そして西欧列強の保有する「本物の無敵艦隊」に向けられていた。
旅順・威海衛の陥落による日清戦争の最終的な決着を待つことなく、大日本帝国は次なる死闘へ向けて、『大艦巨砲』という新たな武力を渇望し始めるのである。




