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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
日清戦争
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日清戦争 5 平壌包囲戦

明治27年(1894年)9月。

秋の気配が色濃くなり始めた朝鮮半島北部、古都・平壌(ピョンヤン)。


堅牢な城壁に囲まれたこの軍事拠点の中枢では、大清帝国の威信を背負って南下してきた北洋陸軍の将官たちが、豪奢な天幕の中で果てしない「軍議」を繰り広げていた。


「左翼の守備は我が軍閥が担う。その代わり、弾薬の補給は我々に最優先で回してもらいたい」


「何を言うか。前衛を務めるのは我々だ。功績を独り占めにする気か?」


彼らは皆、李鴻章の息にかかった部将たちではあったが、その実態は出身地や派閥(淮軍など)ごとに独立した「軍閥の寄せ集め」であった。それぞれが自らの部隊の損耗を避け、いかにして朝廷への恩賞(手柄)を最大化するかという『政治的思惑』を抱えながら、すり合わせを行っていたのである。


それ自体は、決して愚かな行為ではない。


前近代の、あるいは時間が緩やかに流れる時代の戦争であれば、諸将の利害を調整し、面子を保ちながら軍の総意を形成していくことは、巨大な軍隊を内部分裂させないための極めて合理的なプロセスであった。大清帝国が広大な領土を統治し得たのも、こうした絶妙な政治的バランス感覚があったからこそである。


しかし。


彼らにとって最大の、そして致命的な不幸は、『相対している敵が、大日本帝国であった』という、その一点に尽きた。


大清帝国の将官たちは、歴史の教訓を完全に忘却していた。


いや、彼らだけではない。世界中の軍事戦略家たちが、かつて極東の島国が引き起こした「異常事態」を、過去の神話として片付けていた。


今からおよそ三百年前。豊臣秀吉の号令によって引き起こされた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)。


この時、海を渡った日本軍が朝鮮半島で見せた猛威の本質は、鉄砲の数でも武将の勇猛さでもない。当時の明国(清国の前身)と朝鮮の度肝を抜いた『狂気じみた行軍速度』と『思考速度』であった。


小西行長や加藤清正が率いる先鋒軍は、釜山に上陸するや否や、当時の劣悪な道路事情の中、徒歩でわずか20日の間に400キロメートルを走破し、王都・漢城(ソウル)を陥落させた。


一日平均20キロの武装行軍を、補給線を維持しながら3週間連続で行う。これは当時の軍事常識からすれば、およそ人間の所業とは思えない恐るべき速度である。


なぜ、当時の日本軍にそれが可能であったのか。


それは、百年に及ぶ戦国時代の血みどろの淘汰の末に、日本軍が『現場での各個判断(絶対的な裁量権)』と『戦闘部隊と兵站(輜重)部隊の明確な役割分担』を、すでに組織のDNAとして完全に確立していたからだ。


「大将の命令を待つな。目の前に敵がいれば殺せ。城があれば落とせ。飯と弾薬は後ろから必ず送る」


その極限まで研ぎ澄まされた独立連動システムこそが、戦国日本軍の圧倒的な速度の正体であった。


そして今。


その『狂気の時代』の頂点に立ち、天下を統一した男の魂(徳川家康)を宿す滝脇慶家が、十九世紀末の近代技術(鉄道、蒸気船、電信)という莫大な血液を注ぎ込んで創り上げた組織が、大日本帝国陸軍である。


19世紀末の欧米列強の軍隊は、電信という便利な通信手段を手に入れたがゆえに、かえって「中央からの指示(電報)を待たなければ動けない」という硬直化のジレンマに陥りつつあった。現場への指示がリアルタイムで効かない時代に生きていたはずの彼らが、通信技術に依存しすぎて思考速度を落としていたのだ。


しかし、前世において「手紙が届くのに十日かかるのが当たり前」の泥臭い戦国を生き抜き、関ヶ原という巨大な盤面を事前工作だけで回し切った慶家は違った。


『電信など、作戦開始の合図(トリガー)に過ぎん。盤面が動き出せば、通信など必ず途絶する。……だからこそ、現場の指揮官には一切の迷いを与えず、ただ【前へ進むための兵站】だけを完璧に保証してやれ』

電信のない時代の独立機動の恐ろしさを骨の髄まで知る男が、近代的な兵站システムと組み合わせて設計した軍隊。


それが、どれほど異常な速度で意思決定を下し、どれほど無慈悲な速度で大地を蹂躙するか。


清国軍が、平壌の天幕でお茶を啜りながら「明日の行軍の順番」を悠長に擦り合わせているその瞬間。


日本の大軍は、すでに臨津江からの補給線を完璧に整え終え、一言の電報も待つことなく、巨大な津波のような無言の圧力を伴って、一挙に平壌への北上を開始していたのである。


「……なんだと!? 倭奴(ウォヌ)の軍勢が、すでに平壌の南数十里まで迫っているだと!?」


数日後。ようやく日本軍の異常な進軍速度に気がついた清国軍の将官たちは、茶碗を落として色を失った。

自分たちが軍議を終え、ようやく迎撃の布陣を整えようとした矢先に、敵はすでに喉元までナイフを突きつけていたのだ。


「ええい、慌てるな! 敵は長距離の行軍で疲労しているはずだ。ただちに七千の精鋭部隊を南進させ、敵の先鋒を叩き潰せ!」


清国軍は、迎撃のために急遽7,000の部隊を平壌から南へと出立させた。

彼らは、日本の先鋒部隊と平原で堂々たる野戦を行い、大中華の武威を見せつけるつもりであった。

しかし、彼らが出立してから数日後の、月のない漆黒の闇夜。


野営を張っていた清国の7,000の部隊は、この世の地獄を味わうことになる。


「敵襲ゥゥッ!! 倭奴の夜襲だァァァッ!!」


深夜。突如として野営地の四方八方から、凄まじい銃声と銅鑼の音が鳴り響いた。

火の手が上がり、見張りの兵士が血を噴き出して倒れる。


「どこだ!? 敵はどこから来た!!」


「あっちだ! いや、こっちからも撃ってくるぞ!」


暗闇の中で飛び起きた清国兵たちは、パニックに陥り、手当たり次第に闇に向かって銃を乱射し始めた。

だが、そこには日本軍の『戦闘部隊』など、一兵たりとも存在しなかった。


暗闇の中を縦横無尽に駆け回り、爆竹を鳴らし、野営地の天幕に油を撒いて火を放ち、そして時折、流暢な中国語で「裏切り者が出たぞ!」「前衛部隊が寝返った!」と絶叫して回っていたのは、滝脇慶家が放った数十人の警察庁保安部『草の者』たちであった。


彼らの目的は、敵を殺すことではない。敵の脳髄に『疑心暗鬼』という名の劇毒を注入し、恐怖を極大化させることである。


「撃つな! 味方だ、我々は味方だ!」


「嘘をつけ! お前たちの軍閥は日本に寝返ったのだろう! 死ねッ!」


派閥ごとに分かれていた清国軍の脆弱な連帯感は、暗闇の恐怖と草の者たちの扇動によって一瞬にして崩壊した。


自分以外のすべてが敵に見える極限状態。彼らは暗闇の中で、同じ大清帝国の軍服を着た味方同士で、凄惨な殺し合い(同士討ち)を始めてしまったのである。


大砲が味方の陣地に撃ち込まれ、軍刀が仲間の首を撥ねる。


7,000の軍勢は、日本軍と一度も刃を交えることなく、自らの恐怖と疑心によって一晩で完全に自滅(四分五裂)してしまった。


そして、清国の7,000の部隊が闇夜の中で狂気の同士討ちを演じていた、まさにその同じ時刻。


彼らの野営地からわずか数キロしか離れていない平野の暗がりを、大日本帝国陸軍の主力部隊(数万の兵力)が、まるで音を立てない巨大な百足(むかで)のように、完全なる沈黙を保ったまま北上していた。


「……止まるな。あの火の手は我々の獲物ではない。我々の標的は、あくまで平壌だ」


馬上の日本軍将校たちは、遠くで燃え盛る清国軍の野営地を一瞥しただけで、兵士たちに前進を命じ続けた。


彼らは、草の者たちが作り出した『同士討ちの狂宴』を完全に無視(素通り)したのである。


これもまた、慶家の『理戦論』の恐るべき真骨頂であった。


普通の軍隊であれば、敵が混乱していればそこに突撃して手柄を立てたくなる。しかし日本軍は、事前に定められた「平壌を包囲する」という大目的以外には一切の関心を示さないよう、極限まで機械的な統制を敷かれていた。


野営地で同士討ちをしている7,000の部隊など、放っておいても翌朝には消滅している。そんなものに弾薬と時間を浪費する(摩擦を生む)くらいなら、その間に一歩でも平壌に近づき、陣地を構築する方が遥かに合理的である。


日本の主力部隊は、暗闇と霧に紛れ、清国軍の監視網を完全にすり抜け、あるいは蹴散らしながら、平壌の城壁の周囲へと展開していった。


大砲が音もなく据え付けられ、塹壕が掘られ、退路を塞ぐように各師団が指定された配置へとピタリと収まっていく。


翌朝。


平壌の城内にいた清国軍の首脳陣が、朝靄(あさもや)の中で目を覚まし、城壁の上から外を見下ろした時。


彼らの眼下に広がっていたのは、緑の平原ではなかった。


「……ば、馬鹿な」


李鴻章の腹心たる将官が、へたりと城壁の上に座り込んだ。


平壌の城をぐるりと取り囲むように、幾重にも掘られた塹壕線。


無数に突き出された大砲の黒い砲身。


そして、秋風にパタパタとはためく、見渡す限りの日章旗の海。


清国軍が迎撃の部隊を出してから、わずか数日。


彼らが状況を把握し、軍議の続きを開こうかという間に、平壌は「野戦の拠点」から、完全なる「絶望の籠城戦」へと、その姿を強制的に変えられていたのである。


数万の日本軍による、寸分の隙もない完全包囲網。

平壌城内の清国軍はパニックに陥った。南へ向かった7,000の精鋭は音信不通(全滅)となり、城内には限られた弾薬と食糧しかない。


このままでは、圧倒的な砲火によって城壁ごとすり潰されるのは火を見るよりも明らかであった。


だが、絶望に暮れる清国の将官が望遠鏡で周囲を見渡した時、彼らは「一つの奇跡」を発見した。


「……見ろ! 西側だ! 西の海岸線(黄海)へと抜けるルートだけ、日本軍の陣地が薄いぞ!」


そう、日本軍の完璧な包囲網の中で、ただ一箇所だけ。


平壌から西へ向かい、海へと逃げ延びるルートだけが、意図的にぽっかりと穴を開けられたように手薄になっていたのである。


孫子の兵法に曰く、『囲師には必ず闕(か)く(完全に包囲した敵には、必ず逃げ道を開けておけ)』。


逃げ道がないと悟った敵は、死に物狂いで反撃してくる(窮鼠猫を噛む)。しかし、一筋の逃げ道があれば、敵は戦うことを放棄してそこへ向かって逃げ出し、軍隊としての統制を失う。そこを背後から追撃して狩るのが、兵法の定石である。


「倭奴どもめ、兵力が足りずに西側を封鎖しきれなかったのだ!」


「あの海への道を抜ければ、我が北洋艦隊の船と合流できるやもしれん! 籠城など愚の骨頂だ、全軍、西へ向かって血路を開け!!」


清国軍は歓喜した。彼らは城を捨て、我先にとその「開かれた死の扉」へ向かって雪崩を打って逃げ出し始めた。


日本軍の歩兵たちは、逃げ惑う清国兵の背中を無理に深追いすることはしなかった。ただ、決められた陣地から機関銃で追い立てるように、彼らを西へ西へと誘導していくだけであった。


しかし。


彼らが兵法の定石だと思い込んで飛び込んだその道は、滝脇慶家が仕掛けた、孫子の兵法すらも嘲笑う『究極の殺戮装置』への一本道であった。


命からがら平壌を脱出し、海岸線(黄海)へと辿り着いた数万の清国兵たち。


彼らはそこで、迎えに来てくれているはずの味方の船を探して、沖合を見た。


そこで彼らを待っていたのは、味方の船ではない。


黄海の水平線を埋め尽くすように展開し、すべての砲門を海岸の清国兵に向けて静かに照準を合わせている、大日本帝国海軍の巡洋艦隊であった。


「……あ、あ……」


清国の将官の口から、言葉にならない絶望の呻きが漏れた。

陸軍が意図的に逃げ道を作り、敵を海岸線へと誘導する。


そして、そこに『海軍(動く巨大な要塞)』を張り付け、艦砲射撃という地上とは桁違いの圧倒的な火力で、密集した敵を地形ごと更地にする。


これこそが、参謀本部で作戦会議を共にしていた慶家と海軍軍令部長が組み上げた、陸海統合の究極のキルゾーン。


敵を袋の鼠にするのではなく、巨大なミンチ製造機へと自ら歩いて入らせるための、悪魔の『誘導路』であった。


「――全砲門、斉射(テエッ)!!」


沖合の巡洋艦から、耳をつんざくような巨大な轟音が轟いた。


次の瞬間、海岸線に密集していた数万の清国兵の頭上で、数十発の巨大な榴弾が炸裂した。

逃げ道など、最初からどこにもなかったのだ。


背後には迫り来る無慈悲な陸軍の銃眼。目の前には海軍の艦砲射撃の火の壁。


かつての戦国の亡霊が近代の兵站と通信を手足として操り、陸軍と海軍を一つの脳髄で同期させた時。


大清帝国が誇る北洋陸軍は、平壌の地において、日本軍の真の恐ろしさ(速度と計算)を理解することすら許されないまま、一欠片の面影も残さずに、完璧に殲滅されたのである。


―――


【平壌包囲戦:作戦日数】

* 実質的な戦闘(包囲〜殲滅)日数:わずか3日

* (※日本軍が平壌を完全包囲し、清国軍が逃げ出して海岸線で海軍に殲滅されるまでの全行程)

* 本来、堅牢な城塞都市である平壌を落とすには、数ヶ月に及ぶ長大な包囲戦と兵糧攻め、あるいは多大な犠牲を払う強襲が必要とされていました。しかし日本軍は、城を「攻める」のではなく、敵を恐怖で自発的に「外(キルゾーン)へ追い出す」ことで、攻城戦そのものをスキップしたのです。

【大清帝国軍(北洋陸軍 平壌守備隊)の損害】

* 総兵力: 約 25,000名

* 戦死・行方不明: 約 18,000名

* 内訳:闇夜の同士討ちによる自滅(約7,000名)、海岸線での日本海軍の艦砲射撃による爆死・轢死(約11,000名)。

* 負傷・捕虜: 約 6,000名

* 結果:『完全消滅』

* 平壌に集結していた清国軍の主力は、文字通り物理的に消し飛びました。艦砲射撃の凄まじい威力の前に、多くの兵士は遺体すら残らず、部隊としての原形を完全に留めない状態へと粉砕されました。

【大日本帝国陸海軍の損害】

* 総兵力: 約 40,000名(陸軍主力および海上封鎖の海軍部隊)

* 戦死: 34名

* 負傷: 112名

* 結果:『無傷に近い完全勝利』

* 驚くべきことに、日本軍の戦死者の大半は「夜間行軍中の滑落事故」や「弾薬運搬中の事故」などであり、清国軍との直接的な交戦(銃撃戦や白兵戦)による死者はほぼ皆無でした。


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