↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葵三つ葉  作者: 丸亀導師
理戦
PR
72/78

理戦 9

明治26年(1893年)、新春。

帝都がまだ正月の屠蘇気分に浸っていた矢先、三宅坂の陸軍参謀本部は、太平洋の彼方から届いた一本の緊急電報によって、文字通り蜂の巣を突いたような騒然たる空気に包まれていた。


『ハワイ王国において、アメリカ系白人勢力による武装クーデター発生。王宮が包囲下にある』


歴史の必然たるアメリカの太平洋覇権への野望が、ついにハワイの王制を呑み込もうと牙を剥いたのである。


「ただちに居留民保護のための軍艦を派遣せよ!」


と、一部の血気盛んな将校たちが怒号を上げる中。

滝脇慶家少佐(当時)は、自席で熱い茶をすすりながら、一枚の紙切れのように薄い電報を眺め、氷のように冷たい、しかし確かな満足を孕んだ笑みを浮かべていた。


(……騒ぐな、凡夫ども。ハワイ(あの盤面)にはすでに、八年も前から『最強の防壁』を築いてある)


明治14年のカラカウア王との密約、そして明治18年に放った第一回官約移民に紛れ込ませた『草の者(警察庁保安部の工作員)』たち。


彼らが異国の泥に塗れながら八年間かけて育て上げた「種」が、今、アメリカの野望を喰い破るための巨大な食虫植物として、見事にその顎(あぎと)を閉じたのである。


―――


ハワイの首都ホノルル。

人口のわずか一割にも満たないアメリカ系白人の農園主や資本家たちは、武装した民兵(ホノルル・ライフルズ)を組織し、アメリカ公使の支援を背景に議場と王宮へと強襲をかけた。


彼らは確信していた。無力なハワイ王室と、おとなしい原住民たちなど、銃を数発空へ撃てばたちまち震え上がり、国を明け渡すだろうと。


しかし、彼らが議場へと続く広場で直面したのは、怯える原住民ではなく、鍬(くわ)や鉈(なた)、そして密かに備蓄されていた旧式銃で武装し、壁のように立ち塞がる数千の「黄色人種」の群れであった。


「な、なんだお前たちは! 日本政府は内政干渉をする気か!」


白人のリーダーが銃を突きつけて怒鳴った。


しかし、その群衆の最前列に立つ日に焼けた青年――かつて横浜港から農夫として渡った『草の者』――は、流暢な英語で、極めて冷静に、そして演説するように言い放った。


「我々は、大日本帝国の軍隊ではない。そして、日本の利益のために立っているわけでもない」


青年の背後には、日本人移民だけではない。長年ハワイで共に汗を流し、時には対立することもあった華僑(清国人コミュニティ)の男たちまでもが、肩を組んで並び立っていた。


草の者たちは、日清の国家間の対立という狭い枠を飛び越え、「黄色人種」という巨大な同胞意識、そして同じ土地を開拓してきた労働者としての連帯を利用し、清国人をも完全に抱き込んでいたのである。


「我々は、この美しい土地を耕し、この国の水を飲み、この島で生きていくと決めた者たちだ! 日本人でもなければ、清国人でもない! 我々は、王に忠誠を誓う『ハワイアン』である!!」


その叫びは、ホノルルの空を揺るがした。

これこそが、慶家が草の者たちに命じていた最大の心理戦(情報操作)であった。


もし彼らが「日本人」として白人に銃を向ければ、それは日本とアメリカの『国際紛争』となり、アメリカ海兵隊の武力介入(上陸)という最悪の大義名分を与えてしまう。


しかし、彼らが「ハワイのいち住民(ハワイアン)」

として王室を守るために立ち上がったのなら、それは純然たる『ハワイの国内問題』である。アメリカ政府は、表立って軍を動かす大義を完全に失うのだ。


「我々はハワイアンである」――異国から来たはずのアジアの移民たちが、命を懸けて自らの国(ハワイ)と王室を守ろうとスクラムを組む姿。


それは、白人の圧力に屈しかけ、絶望の淵に立たされていた原住ハワイアン(ネイティブ・ハワイアン)たちの心に、爆発的な勇気と熱狂の火を点けた。


「アジアの同胞たちが王宮を守ってくれているぞ!」


「我々の国を、白人の泥棒どもから取り戻せ!!」


呼応するように、ホノルル中の原住ハワイアンたちが怒号と共に立ち上がり、武器を手に移民たちの防衛線へと合流していった。


日本人、清国人、そして原住ハワイアン。圧倒的な数の暴力(人口の九割)が、完全に一つの意志を持って白人のクーデター部隊を逆包囲したのである。


「ば、馬鹿な……土人どもが、なぜこれほど統制されているのだ!」


クーデター部隊はパニックに陥った。彼らが期待していたアメリカ海軍の支援艦隊も、沿岸を埋め尽くす「王室を支持する数万の群衆」を前に、武力介入の口実を失い、ただ沖合で静観するしかなかった。


武力による恫喝(どうかつ)が通じないと悟った白人集団は、戦意を喪失し、次々と武器を捨てて投降した。


ハワイ王国におけるクーデターは、完全に不発に終わった。

後に残されたのは、圧倒的な民衆の支持を背景に「国家反逆罪」として白人の首謀者たちを一網打尽に逮捕し、その実権と主権を完全に取り戻したハワイ王家(リリウオカラニ女王)の姿であった。


王家の背後には、強固なコミュニティを形成し、今やハワイの経済と国防の根幹を支える「黄色きハワイアン(日清の移民たち)」が、静かに、しかし絶対的な防波堤として控えている。

     

数日後。


参謀本部の慶家の執務室に、ハワイの草の者から「任務完了。太平洋の防波堤は維持された」という短い暗号電報が届いた。


「……当然の結果だ」


慶家は電報をランプの火で焼き捨てながら、冷ややかに呟いた。


軍艦を派遣する必要も、アメリカと直接火花を散らす必要もない。八年前に蒔いた調略の種が、完璧に機能し、アメリカの膨張主義を太平洋の真ん中で見事に食い止めたのだ。


『理戦論』における、情報と人口動態を用いた究極の防衛戦。


大日本帝国は、一発の銃弾も撃つことなく、見えざる手によって、列強アメリカの太平洋支配という巨大な野望の第一歩を、無残に打ち砕いたのである。


―――


ハワイ王国首都、ホノルル。


白人資本家たちによる武力クーデターが完全に鎮圧された翌日、イオラニ宮殿のバルコニーに立つ第8代国王・リリウオカラニ女王の瞳には、静かな驚きと、熱い涙が滲んでいた。


眼下の広場には、王室の存続と勝利を祝う群衆の波が広がっている。


そこには、褐色の肌を持つ原住ハワイアンたちに混じり、日に焼けた黄色い肌を持つ日清の移民(労働者)たちが、満面の笑みでハワイ王国の旗を振っていた。


リリウオカラニにとって、この光景は全く信じられない奇跡であった。


ここ数年、ハワイ王室はアメリカ系白人資本家たちによって、文字通り「雁字搦め」にされていた。彼らはハワイの富を独占し、銃剣を突きつけて王の権力を奪い(銃剣憲法)、ついには王国そのものをアメリカへ併合しようと牙を剥いた。


巨大なアメリカという国家を後ろ盾に持つ白人たちを前に、ハワイはあまりにも無力であり、女王は「もはや自国は孤立無援である」と絶望の淵に立たされていたのだ。


(……それなのに、なぜ。彼ら(移民たち)は、我々のために血を流す覚悟で立ち上がってくれたのか)


彼らはただ、サトウキビ農園で過酷な労働を強いられてきた異国の民に過ぎないはずだった。ハワイ王室に命を懸ける義理など、何一つないはずなのだ。


しかし、彼らは「我々はハワイアンだ」と叫び、白人の銃口の前に立ち塞がってくれた。その熱狂が原住民たちの心を打ち、全島を巻き込む巨大な防波堤となって王国を救ったのである。


バルコニーに吹き抜ける太平洋の生暖かい風を浴びながら、リリウオカラニの脳裏に、今は亡き最愛の兄――先代国王・カラカウアの言葉が鮮明に蘇ってきた。


『――リリウオカラニ。もし、この国に絶望的な危機が訪れた時は、我々の友人を信じろ。』


病床に伏した晩年の兄が、熱に浮かされたように繰り返し口にしていた言葉。


『彼らは、白人たちのように軍艦と大砲で我々を脅すことはしない。だが、彼らは最も深く、最も強靭な「根」をこの島に張ってくれるはずだ。……その時が来れば、お前にも必ず分かる』


当時のリリウオカラニには、兄のその言葉の真意が全く理解できなかった。


武力も持たない移民の労働者たちが、どうやって白人の横暴から国を守るというのか。ただの気休めに過ぎないのではないかとすら思っていた。


しかし、今なら分かる。


兄・カラカウアは、狂乱の中で語っていたのではない。明治14年、彼が世界一周の旅の途中で立ち寄ったあの極東の島国において、密かに「王国の未来を託す、深遠なる契約(密約)」を結んできていたのだ。


彼らは、ハワイを侵略しようとしたのではない。


十年の歳月をかけて、移民という名の「血液」をハワイの大地に注ぎ込み、原住民と交わり、互いに「ハワイアン」として国を愛護する強固なコミュニティ(盾)を、人知れず育成し続けていたのである。


「……兄上。貴方が言っていた『友人』が誰なのか、ようやく分かりました」


リリウオカラニは、胸の前で両手を固く組み、遥か西の水平線――太陽が沈み、そして再び昇る極東の空へと顔を向けた。


武力による直接的な干渉を避けながら、人間の連帯と心理を操り、アメリカという巨大な帝国の野望を太平洋の真ん中で見事に打ち砕いた、恐るべき知性と義理を持つ国。


ただ武力で脅すだけの白人列強とは全く次元の違う、見えざる手で盤面を支配する国家。


その「友人」が何処の国であるのかを。


「……感謝します。大日本帝国(エンパイア・オブ・ジャパン)。我がハワイ王国は、貴国が差し伸べてくれたこの見えざる絆を、永遠に忘れることはありません」


女王の静かなる感謝の祈りは、喧騒に包まれるホノルルの空へと吸い込まれていった。


歴史のうねりの中で、白人列強による一方的な植民地支配という世界の常識が、滝脇慶家という一人の男が描いた「理戦論」の盤面によって、決定的に覆された瞬間であった。


―――


明治26年(1893年)。


ハワイ王国でのクーデターが、黄色人種(日清の移民)と原住ハワイアンの連帯という想定外の「壁」によって無残に粉砕された直後。


アメリカ合衆国政府は、激しい怒りと共に大日本帝国および大清帝国に対して、強硬な抗議の使者を送った。


『――ハワイにおける日清の移民たちは、武装して一国の政治に介入した。これは移民を装った事実上の軍事行動であり、明白な内政干渉である!』


クーデターを裏で操っていたアメリカ公使や白人資本家たちの失態を棚に上げ、合衆国は「自国の居留民(白人)の生命と財産が、アジアの暴徒によって脅かされた」という被害者のロジックを強引に振りかざし、日本と清国を外交的に屈服させようと試みたのである。


しかし。


日本の外務省に怒鳴り込んできたアメリカの外交官は、そこで「信じられない光景」を目の当たりにして言葉を失うことになる。


日本側の全権代表の隣に、もう一人の人物が悠然と座っていたのだ。


当時、世界最強の海軍力を誇り、七つの海を支配していた大覇権国――大英帝国(イギリス)の駐日特命全権公使である。


「……ミスター。貴国の抗議は、いささか的外れと言わざるを得ませんな」


日本の外交官に代わり、イギリス公使が冷ややかに口を開いた。


「我々大英帝国は、今回のハワイにおける騒動の『真実』をすべて把握しております。

貴国の公使と白人資本家たちが結託し、不法に武器を持ち込んで主権国家の王室を転覆させようとした、恥知らずなテロリズムの全貌をね」


アメリカの外交官の顔から、さぁっと血の気が引いた。


アメリカは知らなかったのだ。


ハワイでの騒動が起きるや否や、日本の参謀本部が、いかに素早く、そして極悪非道な『情報戦』を展開していたかを。


慶家は、ハワイに潜伏させていた工作員たちから、アメリカ側がクーデターを計画しているという決定的な証拠(資金の流れ、武器の密輸ルート、公使の関与を示す書簡の写し)を、事前にすべて押さえていた。


そして騒動が鎮圧されると同時、いや、鎮圧の確報が入るより早く、外務省を通じてその『圧倒的な証拠の束』を、イギリス政府(外務省)へと意図的にリークしたのである。


イギリスにとって、新興国アメリカが太平洋の中心であるハワイを武力で併合し、海軍基地を築くことは、自国の太平洋権益(オーストラリアや香港へのシーレーン)を脅かす重大な懸念材料であった。


そこへ、日本から「アメリカの不法な侵略行為」を裏付ける完璧な証拠がタダで送られてきたのだ。イギリスがこの『外交のカード(弱み)』を使わないはずがなかった。


「自国の侵略行為を隠蔽し、あまつさえ正当な防衛行動に出たハワイの住民(日清の移民を含む)を『暴徒』と呼んで非難する。……この事実をロンドンのタイムズ紙が報じ、国際社会が知れば、貴国の威信はどうなるでしょうな?」


イギリス公使の言葉は、紳士的でありながら、鋭いナイフのようにアメリカの喉元に突きつけられていた。

アメリカは完全に詰んでいた。


日本や清国だけが相手であれば、艦隊を派遣して砲艦外交で恫喝することもできた。


しかし、背後に「大英帝国」という世界最大の暴力(ロイヤル・ネイビー)と国際世論が立ちはだかっている以上、これ以上強硬に出れば、アメリカ自身が国際社会から孤立し、制裁を受ける立場に逆転してしまう。


アメリカの外交官は、顔を真っ赤にして沈黙し、やがて逃げるようにその場を立ち去るしかなかった。


―――


三宅坂、陸軍参謀本部。

アメリカが抗議を取り下げ、事実上ハワイからの干渉から手を引いたという報告を受けた滝脇慶家は、書類に目を通したまま、ふっと冷笑を漏らした。


「……戦争とは、銃を撃ち合うことだけを指すのではない。敵が振り上げた拳を、より巨大な別の者の拳(イギリス)を使って折ってやることも、また戦争(外交)だ」


清国との決戦を控える日本にとって、今アメリカと直接事を構えるのは下策中の下策である。


だからこそ慶家は、ハワイの移民たちには「ハワイアン」として戦わせることで日本国の直接関与を消し、外交においては「イギリス」という世界最大の盾(矛)を借りてアメリカの顔面を殴りつけた。


情報を支配し、大義名分を操作し、列強のパワーバランスを己の盤面の手駒として自在に操る。


「理戦論」の冷酷な方程式は、大英帝国という覇権国すらも、極東の島国のために働く「一つの駒」へと変えてみせたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。