↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葵三つ葉  作者: 丸亀導師
理戦
PR
68/79

理戦 5

明治23年(1890年)。

滝脇慶家の自邸には、かつての静寂に代わって、幼い子供たちの足音と声が響くようになっていた。

梅子との間に生まれた二人の男の子。


長男は「信一(のぶかず)」、次男は「吉次(よしつぐ)」と名付けられていた。


前世である家康の記憶を持つ慶家にとって、自分の手元で、政略の道具(人質)としてではなく純粋な命として育つ子供の存在は、依然として不可解で扱いの難しいものであった。


古川大尉からのアドバイス通り、慶家は彼らに自らの価値観を押し付けたり、過度な干渉をしたりすることは避けていた。

ただ少し離れたところから、彼らが不器用に立ち上がり、言葉を覚え、兄弟で無邪気に取っ組み合いをする様を、まるで精巧なからくり時計の動きでも観察するかのように「見守って」いた。


しかし、その冷徹な観察眼の奥には、彼自身もまだ名付けようのない、確かな「親としての情」のようなものが芽生え始めていた。


だが、この時期の滝脇家において、世間の耳目を最も集め、凄まじい反発を招いていたのは、子供たちの誕生そのものではなかった。


次男である吉次を産んで間もなく、妻の梅子が、幼い子供二人と夫を日本に残し、再び『渡米(アメリカへの留学)』を決行したことである。


当時の日本社会の常識――とりわけ上流階級や軍人の妻たるもの――からすれば、それはおよそ狂気の沙汰であった。


「女は家を守り、夫を支え、子を育てるもの」という『良妻賢母』の絶対的な道徳が国是となりつつあった時代に、乳飲み子を放り出して外国へ飛び立つなど、到底許されることではなかった。


『滝脇中佐の奥方は、軍人の妻としての本分を忘れた身勝手な女だ』


『子供を見捨てて西洋かぶれの学問に逃げるなど、日本の女の恥である』


参謀本部の同僚たちや、親戚、さらには世間の新聞(ゴシップ紙)に至るまで、滝脇家に対する冷ややかな視線と陰口は、容赦なく浴びせられた。


「中佐、あのような放蕩な妻は離縁すべきだ」「軍人の体面に傷がつきますぞ」と、面と向かって忠告してくる石頭の将官も少なくなかった。


しかし。


そのあらゆる批判と非難の矢面に対し、滝脇慶家は、一切の揺らぎを見せることなく、頑なに梅子の肩を持った(防波堤となった)のである。


「妻の留学は、私と彼女が婚姻の際に結んだ『契約』の一部である。我が滝脇家の方針に、他人が口出しをすることは一切許さん」


慶家は、忠告してくる者たちを、人を射殺すような氷の視線で冷酷に跳ね除けた。


―――


梅子の渡米。


それは確かに、彼女自身の「女子教育のための学校を創る」という強烈な夢(自我)を実現するため、さらに深く西洋の教育学と心理学を学ぶための切実な欲求であった。


しかし同時に、これは慶家という冷徹な計算機が、明確な政治的意図を持って『許可(支援)』したことでもあった。


「……周囲は、女の幸せが家の中にしかないと本気で信じている。全く、度し難い蒙昧(もうまい)さだ」


梅子が旅立った後の静かな書斎で、慶家は一人、チェス盤の駒を弾きながら呟いた。


これから大日本帝国が直面する「国家総力戦(トータル・ウォー)」において、男だけが戦い、働き、国を支えるシステムでは、早晩必ず限界(マンパワーの枯渇)が訪れる。


国家の半数(女性)を、ただ家に縛り付けて「生産力のない従属物」にしておくような国は、列強との過酷な生存競争において必ず敗れ去る。女性にも高度な教育を施し、自立した知性(労働力・技術力・情報力)として国家システムに組み込む。それこそが、慶家が描く真の『理戦論(総力戦体制)』の完成形であった。


「口で『女性の自立』を説いたところで、この息苦しい国の連中は誰も理解しない。ならば……『誰かが率先して、その異常なまでの手本(ロールモデル)』を見せつけなければ、この国は絶対に変わらないのだ」


慶家にとって、梅子の渡米と、それを全面的に支援する自らの姿は、世間に対する強烈な『デモンストレーション(盤面操作)』であった。


「現役の帝国陸軍中佐であり、参謀本部の実力者たる男が、妻の知性と行動を全面的に認め、育児を分担してまでも、彼女を世界へと送り出している」という事実。


その前例(楔)をこの日本社会に強引に打ち込むことこそが、梅子に対する慶家なりの、最大の「愛(戦友としての敬意)」であり、そしてこの国を本物の近代国家へと作り変えるための、冷酷なまでに合理的な戦略でもあったのだ。


―――


滝脇慶家にとって、世間の凡夫どもが吹き鳴らす「逆風」など、そよ風にも劣るものであった。


かつて、織田信長という絶対的な理不尽の隣で息を潜め、武田信玄の猛威に震え、豊臣秀吉という化け物と天下の盤面を巡って化かし合いを演じた男である。

それに比べれば、平和な時代の官僚や新聞が陰で叩く「悪口」など、羽虫の羽音ほどの脅威すら感じない。一切、意に介する必要などなかった。


(親が常に傍にいなければ、子はまともに育たないなど……誰が決めたのだ)


「子は親がいなくとも育つ」――それは他でもない、慶家(徳川家康)自身の血肉に刻まれた絶対的な真理であった。

竹千代と呼ばれた幼き日、物心ついた時には父は殺され、母とは引き離され、人質として今川と織田の間をたらい回しにされた。両親の温もりなど知らずに育った。


だが、そんな彼を天下人へと押し上げたのは、常に傍らで泥に塗れて彼を守り抜いた「周囲の支え(三河の家臣たち)」であったのだ。


信頼できる周囲の環境と支えさえあれば、子は立派に育つ。それは歴史が(自分自身が)証明している。


慶家は、まだ言葉もろくに分からない二人の幼子――信一と吉次――を前にして、世間の騒音を完全に遮断し、静かに、だが確かな重みを持った声で言い聞かせた。


「世間の馬鹿共が何と言おうと、耳を貸すな。お前たちの母は今、この国を根底から作り変えるための『大業』を成し遂げようとしているのだ」


慶家は、幼い彼らの頭を大きな手で無骨に撫でた。


「あの女は、戦場に出ているのだ。……故に、母がいない暫しの間の我慢は、許せ」


それは、子供扱いをしない、一人の「人間」に対する理詰めの説得であった。

母は決して君たちを捨てたのではない。国家の盤面を動かすための戦(留学)に出ているのだという、最大の敬意を込めた説明である。


―――


無論、理屈だけで赤子が育つわけではない。

慶家は、梅子不在の家庭を運営するため、身の回りの世話をする「乳母(養育係)」を数名、厳選して雇い入れた。


だが、極東の覇王であり警察庁保安部(諜報網)の生みの親でもある彼が、ただの「優しい乳母」を無条件に家に置くはずがなかった。


慶家が乳母たちに突きつけた雇用条件(契約)は、極めて冷酷で、徹底的な『情報統制』であった。


「――お前たちに払う給金は、相場の三倍だ。その代わり、この家の中で『世間の騒音』を一切口にすることを禁ずる」


慶家は、雇い入れた乳母たちを前に、氷のように冷たい視線を放って厳命した。


「『母親がいなくてお可哀想に』などという下劣な同情。『奥様は家庭を顧みない』という世間の愚鳴。……それらの言葉を、一言でもこの家の中で発し、私の子供たちの耳に入れた者は、その日のうちに叩き出す。ただ給金を打ち切るだけではない。二度と帝都で働き口を見つけられぬようにしてやる。分かったな?」


世間の無責任な同情や偏見こそが、子供の精神を歪める最大の猛毒である。


慶家はそれを熟知していた。だからこそ、家の中を完全に無菌状態(情報の隔離施設)にし、乳母たちには「純粋な養育と愛情」のみを提供させるシステムを強制したのである。


乳母たちはその凄まじい威圧感に青ざめながらも、深く平伏した。


結果として、滝脇家の内部には、外界の冷ややかな視線とは裏腹に、極めて穏やかで規律正しい、そして梅子への確かな敬意が保たれた「完璧な養育の盤面」が構築された。


(……存分に戦ってこい、梅子。お前の帰る城(後方支援)は、私が完全に守り抜いてやる)


明治の世において、冷徹な『理戦論』の覇王は、その極端なまでの合理主義と謀略の技術を、他でもない「妻の夢と、子供たちの健やかな成長を守るため」に、静かに、そして完璧に行使していた。


―――


明治23年以降の数年間、大日本帝国は来るべき清国との総力戦に向け、ひたすらに国力と軍備を蓄える「静かなる助走期間」に入っていた。


幸いにして国内においても、不平士族の反乱のような大きな流血の事件は鳴りを潜め、参謀本部の業務も(水面下での過酷な暗闘を除けば)比較的平穏なルーティンが続いていた。


そんな中、三宅坂の参謀本部の将校たちの間で、ある「信じ難い噂」がまことしやかに囁かれるようになっていた。


あの、血も涙もない『理戦論』の怪物にして、凡庸たれと若手将校のプライドをへし折った冷血漢、滝脇慶家中佐が――定期的に「休暇届」を提出しては、そそくさと自宅へ帰っているというのだ。


「信じられん……あの滝脇中佐が、本日の午後から半休を取って帰路につかれたぞ」


「まさか、どこかの国の大使館に潜入して、非合法な調略工作でも行うのでは……?」


「いや……どうやら、本当にただ真っ直ぐ家に帰って、お子様たちの相手をしているらしい。奥方がアメリカに渡られてから、ずっとあの調子だ」


軍人たるもの、家庭を顧みず国家に滅私奉公することこそが美徳とされていた時代である。


ましてや、欧州の巨大な同盟網(ビスマルク体制)を謀略で食い破るほどの男が、休日のたびに乳飲み子の待つ家へと帰っていく。そのあまりの落差に、周囲の将官や部下たちが彼につけたあだ名は、畏怖と呆れ、そして微かな親しみが入り混じった「子煩悩」というものであった。



慶家の耳にも、当然その「子煩悩」という噂は入っていた。


彼は自室のデスクで休暇届の書類に無表情で判を押しながら、内心で冷笑した。


(馬鹿な奴らだ。子煩悩だと? 感情に振り回されて休んでいるのではない。これは純然たる『後方支援(兵站)』の維持作業だ)


梅子という前線指揮官が、留学という名の戦場に出ている陣営において、残された幼き新兵(子供たち)の生命維持と環境構築を行うのは、指揮官代行たる自分の論理的な義務である。


乳母という下士官に現場の世話を任せているとはいえ、最高責任者(父親)による定期的な視察と盤面確認(育児への参加)を怠れば、必ず陣営は腐敗する。彼が休暇を取るのは、組織運営として当然のタスクをこなしているに過ぎない。


……という極めて理屈っぽい建前を、慶家は自らの脳内で完璧に組み立てていた。


だが、実際のところ。


休日に自宅の縁側で、まだおぼつかない足取りで庭を歩き回る信一と吉次の姿を眺めている時。


あるいは、彼らが「ちちうえ」と舌足らずな声で擦り寄ってきて、無骨な自分の膝に不器用によじ登ろうとする時。


慶家の胸の奥には、理屈や計算では到底割り切れない、ひどく穏やかで温かいものが広がっていた。


(……前世において、私は自らの手で家族を血で染めた。天下という重圧を背負うために、子や孫すらも将棋の駒としてしか見ることができなかった)


二百六十年の泰平の世を創り上げた徳川家康であった頃、彼は戦国という巨大な狂気の中で、ただの一度として「普通の父親」になることは許されなかった。


しかし今。


明治という新しい時代、自らが背負う必要のない「天下」の下で。


彼はただの滝脇慶家という一人の男として、秋晴れの縁側で、自分と妻の血を分けた幼子たちの成長を、ただ静かに眺めている。


(……悪くないものだな)


彼らが転べば、乳母より先にスッと手を差し伸べ、泣き出せば不器用な手つきで抱き上げる。

周囲が囁く「子煩悩」という間抜けな言葉も、あながち間違っていないのかもしれないと、慶家は微かに目を細めた。


「……こら、信一。その書物は破るな。吉次、庭の泥を口に入れるのではないと言っているだろう」


極東の覇王であり、世界を裏から操る冷酷な謀略家は、休日の帝都の片隅で、二人の幼子の予測不能な「機動(いたずら)」に翻弄されながら、決して参謀本部では見せることのない、人間らしい穏やかな溜息を吐いていたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。