理戦 3
明治18年(1885年)、11月。
帝都の冷たい夜風が窓を叩く中、陸軍参謀本部にほど近い通称「メッケル官舎」の重厚なダイニングルームには、極めて上質な葉巻の香りと、静かな知の熱狂が満ちていた。
プロイセン陸軍少佐、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルは、目の前でグラスを傾ける東洋の若き将校に対し、今や隠しようのない「深い敬意」を抱いていた。
あの関ヶ原での暴走を見て、メッケルは気づかされたのだ。
滝脇慶家という男は、単なる秀才ではない。過去の血塗られた歴史紐解き、西洋の教範すらも相対化して自らの知見で再構築する、凄まじいまでの「執念」を持つ男なのだと。
思えば、自分たちプロイセンの軍人はどうだったか。
モルトケの参謀本部体制のもと、彼らは戦史を「合理と計算の証明」としてしか見てこなかった。
外交という広大な盤面や、指揮官の『心の機微(焦りや恐怖)』といった人間臭い要素を排除し、すべてを科学と火力で手玉に取れると信じ切っていた。それは世界最強を自負する軍隊が陥る、決定的な『傲慢』であった。
カール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦場の霧(不確実性)」を説いたが、プロイセン軍はその霧を規律と火力で『吹き飛ばせる』と考えている。
しかし、目の前の滝脇慶家は違う。彼は「戦場の霧が発生することを必然と捉え、敵の視界をその霧で覆い尽くし、霧ごと盤面を操作する」という、西洋には存在しない異次元の戦い方を模索し、すでに確立しているのだ。
そんな人間は、プロイセンはおろか、全ヨーロッパを見渡しても一人として思い当たらなかった。
「……少佐閣下。今宵の食事は、大変素晴らしい。しかし、本題に入りましょう」
慶家がナイフとフォークを静かに置くと、メッケルもまた姿勢を正した。
食事はあくまで建前である。
メッケルの真の目的は、慶家が提唱する『理戦論』の答え合わせと、「これからの戦争はどう変化していくのか」、そして「なぜ貴官は、それほどまでに『情報(人間の心理と調略)』を重んじるのか」という、三つの根源的な問いかけであった。
メッケルの問いに対し、慶家は少しの間グラスの赤ワインを見つめ、やがて薄く笑った。
「メッケル少佐。私は東洋の戦史だけでなく、貴方たち西洋の歴史も深く学ばせていただいた。
……私の『理戦論』の根幹、すなわち情報と心理の支配について答えるなら、西洋戦史における最高の芸術、『カンナエ(カンナ)の戦い』を紐解くのが最も分かりやすいでしょう」
その言葉に、メッケルは息を呑んだ。
紀元前216年。カルタゴの戦術の天才・ハンニバルが、数で勝るローマ帝国の大軍を包囲殲滅した、西洋戦史の最高峰にして教科書の第一章。それを、この極東の男がどう解釈するというのか。
「後世の軍人は、ハンニバルの『三日月陣形』や『両翼包囲』という物理的な戦術ばかりを賞賛する。だが、本質はそこではない」
慶家は、テーブルクロスの上の銀食器を動かしながら言った。
「カンナエの戦場に立った時。ハンニバルは、剣を交える前にすでに『半分の勝利』を確信していたはずです。そして、ローマの重装歩兵たちが、自軍の中央に向かって力任せの突撃(正面衝突)を開始した瞬間……その確信は『完全なる勝利』へと変わった」
「……どういうことだ?」メッケルが身を乗り出す。
「簡単なことです。当時のローマ軍の司令官ウァロの心理は、開戦前から完全にハンニバルの手玉に取られていたのです。
なぜなら、ローマ軍は自国の領土を荒らされる『本土決戦』を強いられていた。絶対に負けられない、いや『一刻も早く、鮮やかな勝利を国民に見せなければならない』という強烈な焦りがあった。
……ハンニバルは、その【政治的・心理的な弱点(情報)】を完璧に把握し、あえて中央の陣を薄くして、ローマ軍が最もやりたい『力押しでの中央突破』を誘発させたのです」
慶家は、フォークで中央のナイフを両側から挟み込むような仕草をした。
「続く正面からの激突も、包囲も、すべては『敵の心理戦に勝った後』の物理的な消化作業に過ぎない。敵将の焦燥という見えざる情報を制した者が、戦場を制する。
……それが、私が『情報』を何よりも重んじる理由です。いかに近代兵器が発達しようと、戦争の主体が人間である以上、この心理の盤面は未来永劫変わりません」
メッケルは、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
プロイセンの士官学校で幾度となく学んだカンナエの戦い。それを「戦術的包囲」ではなく、「本土決戦の焦りを突いた心理戦の帰結」として完全に解体してみせたのだ。
「しかし……」と、慶家は赤ワインを一口飲み、ふうと息を吐いた。
「私がカンナエの戦史において、ハンニバル以上に『見事だ』と感嘆してやまない男が、ローマ側にもう一人います」
「……ファビウス・マクシムス、か」
メッケルが、その名を重々しく口にした。
「いかにも」
慶家(家康)の瞳の奥に、同じ「忍耐の覇王」に対する深い共感と敬意が灯った。
「ファビウスこそが、真の天才(怪物)の相手の仕方を分かっていた男です。
彼は、野戦におけるハンニバルの異常な戦術眼を前に、正面から戦うことを徹底的に拒否した。
国民から『のろま(クンクタートル)』『臆病者』とどれだけ罵られようとも、焦ることなく、敵の兵站を少しずつ削り、政治的な孤立を待つ持久戦(遅滞戦術)を徹底した。
……戦場での華々しい勝利などという名誉を完全に捨て去り、国家が生き残るための『泥臭い合理』だけを貫き通したのです」
慶家は、かつて自分が信玄や秀吉という怪物たちに対して行ってきた「徹底した受けと忍耐」を、古代ローマの将軍に重ね合わせていた。
「これからの時代の戦争は、火力と鉄道の発達により、戦場での一回の決戦では終わらなくなります。国家と国家のすべての資源をすり潰す、恐ろしい持久戦になる。
……その時、勝敗を分けるのは、ハンニバルのような戦術の天才ではない。情報と兵站を管理し、国民の罵声に耐えながら、盤面を数十年単位で維持できる『ファビウスのような冷徹な管理者』なのです。
……それが、私の『理戦論』が目指す、未来の戦争の究極の姿です」
メッケルは、もはや言葉を失っていた。
極東の島国から現れたこの男は、東洋の兵法と西洋の戦史を完全に融合させ、来たるべき「国家総力戦」という未来の地獄を、すでにその冷酷な瞳で正確に見透かしている。
明治18年、11月。
大日本帝国が世界へ向けて解き放とうとしている「理戦論」という名の怪物を前にして、プロイセンの頭脳はただ、深い畏怖の念と共に沈黙するしかなかった。
―――
明治21年(1888年)。
日本での任期を終え、大日本帝国陸軍に消えることのない巨大な足跡を残したクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル少佐は、帰国の途に就く客船の甲板で、遠ざかる極東の島国を見つめながら、一つの深く重い「疑問」を心に抱え続けていた。
(滝脇慶家少佐。貴官の『理戦論』は、確かに軍事学の究極の真理だ。だが……)
メッケルは、潮風に吹かれながら自問した。
カンナエの戦いのように、野戦において敵将の焦りを突くことはできる。関ヶ原のように、国内の封建領主たちを調略で身内に引き込むこともできるだろう。
だが、現代は違う。複雑な条約網、電信による瞬時の情報伝達、そして大衆社会がうねりを上げる近代において、
「一国の指導者や、国家そのものの心理を、外からどうやって意のままに操る(調略する)ことができるというのか?」
メッケルのその疑問は、西洋の合理主義者としての最後の意地でもあった。
いくら情報と心理が重要だとしても、近代国家の巨大な官僚機構と軍隊のシステムを、極東の少佐が言うように「戦う前に盤面を操作して崩壊させる」ことなど、現実には不可能ではないのか、と。
しかし。
彼が祖国ドイツ(プロイセン)へと帰還し、わずか数年が経った1890年(明治23年)。
メッケルは、自らのその疑問に対する「最も残酷で、絶望的な答え」を、他でもない自国の心臓部において目の当たりにすることとなる。
1890年。ドイツ帝国の首都ベルリンは、未曾有の政治的激震に見舞われていた。
ドイツ統一の立役者であり、ヨーロッパ中に複雑怪奇な同盟網(ビスマルク体制)を張り巡らせてフランスを孤立させ、平和と国益を維持し続けてきた稀代の政治家――「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクの罷免である。
彼を追い落としたのは、新たに即位した若き皇帝、ヴィルヘルム2世であった。
血気盛んで、自己顕示欲が強く、大衆の熱狂と軍事パレードの華やかさを好む若きカイザー(皇帝)。彼は、ビスマルクが数十年かけて構築してきた「冷徹な外交の盤面」を、退屈で古臭いものとして嫌悪した。
「我がドイツ帝国は、もっと陽の当たる場所(世界帝国)へ進出しなければならない。老人の臆病な外交など不要だ」
皇帝は、感情とプライドのままにビスマルクを切り捨て、ロシアとの再保障条約の更新を拒否し、自ら強引な世界政策(ヴィルヘルム主義)へと舵を切った。
そして、その皇帝の自己愛と『疑心暗鬼』は、やがてドイツ帝国の頭脳であるはずの「参謀本部」にまで牙を剥き始めた。
皇帝は、自らの意志を絶対とし、参謀本部が緻密に計算した軍事計画に、感情的な横槍を入れ始めたのである。「もっと兵力を増やせ」「もっと華々しい攻勢をかけろ」。
冷徹な計算機であるはずの参謀本部に、皇帝の『虚栄心』と『焦り』という劇薬が注入されていく。
―――
ベルリンの参謀本部、薄暗い作戦会議室。
将校たちは、ロシアとフランスを同時に相手にするための壮大な二正面作戦(のちのシュリーフェン・プランの原型)の図上机演に熱狂していた。
「我が軍の鉄道輸送力とクルップ砲の火力があれば、フランス軍など六週間で粉砕できる!」「皇帝陛下も、我々のこの完璧な包囲殲滅の計画に満足されるはずだ!」
熱気に満ちたその部屋の片隅で。
メッケルは、震える手で顔を覆い、深い、あまりにも深い絶望の淵に沈んでいた。
彼の脳裏に、五年前に日本の関ヶ原で見た「あの光景」が鮮明に蘇っていた。
滝脇慶家が怒り狂い、見事な陣形の駒を払い除け、無茶苦茶に置き直したあの醜悪な盤面。
そして、慶家が吐き捨てたあの言葉。
『――私の予定では、東軍の背後に圧倒的な数の暴力を並べるだけで、勝てる盤面だった。それを、馬鹿な身内が「戦争がしたい」などという下らない理由で盤面を無駄に汚したのだ!』
(……ああ。そういうことか、タキワキ)
メッケルは、ついに理解した。
近代国家の心理をどうやって操るのか。その答えは、敵国からの直接的な調略だけではない。
国家を内側から崩壊させる最大の『毒』は、「指導者自身の感情と、無知なる大衆の熱狂」なのだと。
ビスマルクという男は、ドイツ帝国における「ファビウス」であった。
彼は国民からの不満を浴びながらも、決して焦らず、ヨーロッパという巨大な盤面を『受けの外交』で維持し続けていた。
しかし、ヴィルヘルム2世という「薄らぼんやりとした秀忠(感情的な身内)」が、その完璧な盤面を自らの手で蹴り飛ばした。
ロシアを遠ざけ、フランスと結びつかせ、イギリスを敵に回す。
ドイツ帝国は今、自らの指導者の虚栄心と疑心暗鬼によって、自ら進んで「最悪の包囲網(包囲される側)」へと飛び込んでいるのだ。
「――メッケル大佐? どうしたのだ、ひどく顔色が悪いぞ。我がプロイセンの無敵の作戦計画に、何か不満でも?」
同僚の参謀将校が、不思議そうに声をかけた。
メッケルは、ゆっくりと顔を上げ、かつて「世界最強の頭脳」と信じて疑わなかった同僚たちを、哀れむような目で見つめた。
彼らは、大砲の口径と鉄道のダイヤグラムしか見ていない。外交の崩壊も、皇帝の心理状態も、「戦場の外の出来事」として計算から除外している。
メッケルは、かすれた、しかし確信に満ちた声で断じた。
「……我々は、既に敗北している」
会議室が、一瞬静まり返った。
「何を馬鹿なことを言っている! 戦争はまだ始まってすらいないのだぞ!」
「そうだ! 我が軍の火力と規律を疑うというのか、メッケル!」
同僚たちはメッケルを激しく非難し、嘲笑した。皇帝の不興を買うことを恐れ、精神を病んだのかと眉をひそめる者もいた。
彼らには、メッケルの言葉の真意が『一切』理解できなかった。
戦争が始まっていないからこそ、負けているのだ。
『戦争とは、事前構築の確認作業である』。
ドイツ帝国の政治的盤面はすでに崩壊し、敵対する同盟網(のちの三国協商)という「死の陣形」が完成しようとしている。いかに戦場で兵士が血を流し、大砲を撃ちまくろうと、それは戦略的敗北という結末を確認するための、悲惨で無駄な消化試合に過ぎない。
(……分からないか。お前たちには、永遠に分からないだろう)
メッケルは、怒る将校たちを背に、静かに目を閉じた。
(タキワキ。貴官が言った通りだ。……西洋の我々が、貴官の『理戦論』を本当に理解し、組織として組み込めるようになるには、少なくとも数世代の血の代償が必要らしい)
1890年のベルリン。
第一次世界大戦という人類未曾有の破滅まで、まだ四半世紀の時間が残されていたこの時。
極東から「真の戦争」を学んだただ一人のプロイセン軍人は、誰にも理解されないまま、迫り来る帝国の巨大な死(敗北)の足音を、ただ孤独に聞き続けていた。




