理戦
明治18年(1885年)、10月。
帝都・東京の木々が色づき始め、吹き抜ける秋風が肌寒さを帯びてきた頃。
半蔵門外に位置する「陸軍大学校」の教室内には、張り詰めた糸のような、異様なまでの緊張感が満ちていた。
教壇に立つのは、この年の3月にドイツ帝国から招かれたお雇い外国人、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル少佐である。
モルトケ直参の俊英であり、世界最強を謳われるプロイセン参謀本部の頭脳を体現するこの男を、日本政府は莫大な国費を投じて招聘した。
表向きの理由は、「大日本帝国陸軍に、最新のプロイセン式軍制と用兵思想を指導していただくため」である。
列強に追いつかんとする極東の小国が、普仏戦争で完全勝利を収めた最強国の教えを乞う。それは外交的にも極めて自然な振る舞いに見えた。
しかし、大久保利通内閣と陸軍上層部、そしてこの招聘の『真の立案者』が抱いていた目的は、全く別のものであった。
この頃、海を隔てた仮想敵国である清国において、北洋派の首魁・李鴻章が軍の近代化(洋務運動)を推し進めるべく、多数のプロイセン退役軍人を軍事顧問として雇い入れ、プロイセン式の軍制を猛烈な勢いで取り入れ始めていたのである。
日本の諜報網は、これを完全に把握していた。
仮想敵がプロイセンの鎧を着て、プロイセンの剣を振るうというのならば、日本が為すべきことは一つである。
『敵の思考回路を完全にトレースし、その致命的な弱点を洗い出すこと』
フランス軍の戦訓を人づてに聞くのではない。現役の、それも最高峰のプロイセン参謀将校を直接教壇に立たせ、彼らの戦術、指揮系統、そして精神論のすべてを白日の下に晒し、生きたまま解剖する。
メッケルの招聘は、清国との総力戦を見据えた、極めて冷酷な「軍事解剖実験」であったのだ。
陸軍大学校の教室内には、これからの日本陸軍の屋台骨を背負う若き将校たちがずらりと席についていた。
奇しくも、この第一期生から第三期生にかけての顔ぶれは、安政5年(1858年)から文久元年(1861年)頃に生を受けた者たちで占められていた。
旧弊な幕末の記憶よりも、新しい明治の空気を吸って育ち、近代軍人としての教育を真っ直ぐに吸収してきた世代である。
しかし……その血気盛んな中尉や大尉たちが並ぶ教室の最後列に、一人だけ、周囲の空気を完全に異質に歪ませている男が座っていた。
滝脇慶家少佐。
安政5年(1858年)1月31日生まれ。
年齢的には前に座る若手将校たちと全くの同世代でありながら、一人だけ階級章に『少佐』の星を輝かせている。
本来ならば、彼のような軍中枢の高級将校が、一介の生徒として机を並べることなどあり得ない。しかし彼は、自ら志願してこの講義の末席に陣取っていた。
彼こそが、この大日本帝国陸軍に『理戦論』という絶対的な教範をもたらし、『現用軍装の廃止(カーキ色への統一)』から『散兵戦と諸兵科による流動的連動部隊』の構築に至るまで、軍の骨格を文字通り一から創り上げた「怪物」である。
プロイセン式軍隊の最大の弱点を探り出し、清国軍を物理的に粉砕するためのカウンター・ロジックを組み上げる。
そのための「検死官」として、滝脇慶家以上の適任者はこの国に存在しなかった。
教壇から生徒たちを見下ろすメッケルの青い瞳は、最後列で静かにペンを走らせる慶家の姿を、強い警戒心をもって捉えていた。
メッケルは、この極東の島国に降り立ち、日本の軍制を視察し始めた当初、ある種の傲慢さを持っていた。
「まだ侍の尻尾を引きずった、未開の軍隊だろう」と。
しかし、その傲慢さは、陸軍省から手渡された一冊の教範(フランス語に翻訳されたもの)を読んだ夜、底知れぬ戦慄へと変わった。
『理戦論(Rational War Theory)』
著者は、Takiwaki Keiya。
メッケルは、その論文を徹夜で読み耽った。
そこにある論理は、プロイセンが誇るカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』や、アントワーヌ=アンリ・ジョミニの『戦争概論』の影響を強く受けているように見えた。戦場における摩擦、後方連絡線(兵站)の絶対的優位性、地形の数学的計算。
しかし、読み進めるにつれて、メッケルは自らの背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
この『理戦論』は、クラウゼヴィッツやジョミニを「凌駕」しているのではない。思想の根底が、西洋のそれとは『決定的に異質』なのである。
西洋の戦争論は、最終的には「戦場における決戦」と「指揮官の精神力(意志)」による敵部隊の撃滅を至高の目的とする。
しかし、この極東の若き少佐が書き上げた論文は違った。
『――戦争とは、外交と兵站、そして情報の暴力による事前構築の確認作業に過ぎない。盤面が整った時点で、勝敗はすでに決している。
戦場での流血(戦闘)は、そのすでに確定した勝利を、敵に物理的に理解させるための最も下等で、しかし必要な手続きである』
それは、徹底した人間不信と、血を流すことへの極端な嫌悪から導き出された「戦争前に戦争を終わらせる」という帰結であった。
この当時のヨーロッパにおいて、東洋の兵法書である『孫子』(百戦百勝は善の善なる者に非ず、不戦して人の兵を屈するは善の善なる者なり)を初めとした『武経七書』は、まだ広く翻訳・研究されておらず、西洋の軍人にとっては完全に未知の概念であった。
ゆえに、メッケルの目に映る滝脇慶家という男は、クラウゼヴィッツの合理性と、西洋には存在しない「事前調略・情報戦の絶対優位」という不気味な哲学を、たった一人の頭脳で生み出した『突然変異の天才軍事思想家』に他ならなかった。
(……この国は、すでに私の祖国の軍制を必要としていないのではないか?)
メッケルは教壇で密かに奥歯を噛み締めた。
視察を重ねるにつれ、彼は気づき始めていた。
現在の日本陸軍は、表向きはフランスやプロイセンの真似事をしているように見せて、その骨格の奥深くには、すでに慶家の提唱する『散兵戦』と『諸兵科の流動的連動』を前提とした、極めて近代的な戦術思想が根を張っているということに。
ならば、自分がここで教えるプロイセンの「密集陣形による火力集中」や「厳格で硬直的なトップダウン指揮」は、この男の目にどう映るのか。
メッケルには、大日本帝国を指導するという驕りはもはや消え失せ、プロイセン軍人としての『誇り』を賭けた、一人の天才との知的な死闘を挑まれているという強烈な自覚があった。
「――諸君。プロイセン陸軍が世界最強たる所以は、完全無欠の『参謀本部体制』と、戦場における『一点への圧倒的な兵力集中』にある」
メッケルの重厚なドイツ語が教室内を響き渡り、通訳官がそれに続く。
若き将校たちは、食い入るようにノートにペンを走らせている。
「敵の側面を迂回し、重砲の圧倒的な火力支援のもと、歩兵の密集陣形をもって敵の陣地を一挙に蹂躙する。戦場においては『摩擦』が必ず発生する。
計画は乱れ、兵は恐慌をきたす。それを克服するのは、ただ一つ。指揮官の『断固たる意志』と、兵士の『規律と突撃精神』のみである」
メッケルが力強く語り終えた時。
最後列から、静かに手が挙がった。
「……質問を許可願いたい、メッケル少佐」
流暢な、しかし感情を一切排した冷たいドイツ語であった。
滝脇慶家少佐が、椅子から立ち上がる。教室内の空気が、一瞬にして凍りついた。若手将校たちは、振り向くことすらできずに息を呑んだ。
「タキワキ少佐。……発言を許可する」
メッケルは、背筋を伸ばし、その刺すような視線を受け止めた。
「少佐の説く参謀本部による事前計画の重要性は、我々も大いに学ぶべき至高のシステムであると理解します。しかし……『戦術』の領域において、幾つかの矛盾を感じざるを得ません」
慶家は、手元のノートに書かれた数式(被弾率の計算)を指先で叩いた。
「少佐は『密集陣形による兵力集中』と『指揮官の意志による突撃』を説かれた。
しかし、現在フランスが実用化し、いずれ全世界に波及するであろう『無煙火薬』と、小銃の速射化・長射程化を前提とした場合。
密集した歩兵の突撃は、敵の機関銃と散兵による十字砲火の前に、ただの『巨大な的』と化すのではありませんか? 意志や規律で、物理的な弾幕(質量)は突破できません」
メッケルの頬が微かに引きつった。
それは、プロイセン軍内部でも最新鋭の将校たちが密かに危惧している、次世代の火力に対する未解決の問題であった。
それを、この極東の男は一切の躊躇なく急所として突き刺してきたのだ。
「……戦場における火力増大は、事実だ」
メッケルは威厳を保ちながら答えた。
「だが、散兵(バラバラに展開した兵)では、指揮官の統制が効かない。通信が途絶えれば、兵は烏合の衆となり、突撃の衝撃力は失われる。ゆえに、多少の損害には目を瞑り、密集による統制を維持せねばならないのだ」
「多少の損害、ですか」
慶家の声が、一段と冷たくなった。
「指揮官の硬直的な統制を維持するために、兵を密集させ、あえて致死率を高める。それは『戦術』ではなく、単なる『怠慢』です。
通信が途絶えることを前提とするならば、トップダウンで全てを操るのではなく、前線の下士官一人一人に『作戦の最終目的』を理解させ、彼ら自身の独自の判断によって散兵戦を展開させ、砲兵科と自律的に連動させる……それこそが、新しい時代の部隊運用であるはずだ」
慶家の言葉は、プロイセンが誇る「命令への絶対服従と硬直的な指揮系統」を真っ向から否定するものであった。
それは同時に、かつて慶家(家康)が、戦国時代において下級武士や農民上がりの足軽たちにいかにして独自の判断力を持たせ、泥臭くしぶとく生き残らせてきたかという、東洋の戦国ドクトリンの近代化でもあった。
「……タキワキ少佐」
メッケルは、教卓に両手をつき、低く唸るような声で返した。
「貴官の言う『前線の独自判断』は、理想論に過ぎない。兵士とは、恐怖に駆られれば逃げる生き物だ。
規律という鋼の枠にはめ込まねば、軍隊は一瞬で崩壊する。
貴官の論文(理戦論)は読ませていただいた。兵站と情報を神格化し、戦場での精神の激突を軽視している。……戦争とは、最後は『人間の血と意志』が決定するのだ!」
プロイセン軍人としての矜持。普仏戦争を勝ち抜いた圧倒的な自負が、メッケルの言葉には宿っていた。
しかし、慶家は表情一つ変えなかった。
彼は、メッケルを論破しようとはしていなかった。ただ、『確認』をしただけなのだ。
「……なるほど。よく理解できました。プロイセンの強さの根源は、やはりその『意志と規律』にあるのですね。大変、有意義な講義でした。少佐閣下」
慶家は深く一礼し、静かに席に座った。
メッケルは、その瞬間、背筋に悪寒が走るのを止められなかった。
慶家の目には、論破された者の悔しさも、反抗的な色もなかった。
そこにあったのは、機械の蓋を開け、歯車の噛み合わせを確認し、その設計上の「致命的な欠陥」を完全にファイルに記録し終えた、冷酷な技師の目であった。
(……この男は。今、私に議論を挑んだのではない。私に『反論』させることで、プロイセンの用兵思想が【火力の軽視】と【硬直化した指揮系統】という二つの弱点を、絶対に克服できない宿痾として抱えていることを、確信したのだ)
清国軍が、李鴻章の号令のもと、プロイセンの教え通りに「密集陣形」を組み、「指揮官の意志」を信奉して戦場に現れたならば。
この滝脇慶家が率いる日本軍の「散兵」と「自律的な諸兵科連動部隊」、そして泥色の軍服を着て遠眼鏡を持った狙撃兵たちの前で、彼らは何もできずにただの肉の壁として屠り去られるだろう。
講義が終わり、若き将校たちが熱気に満ちた顔で退出していく中。
メッケルは教壇に一人残り、窓から見える秋の帝都を見つめていた。
「……この大日本帝国という国は」
メッケルは、誰に聞こえるでもなく、母国語で呟いた。
「我々プロイセンの軍制を学びにきたのではない。我々の軍制から『兵站と参謀本部という胃袋』だけを貪り食い、『密集戦術と精神論』という不要な手足を吐き出し、自らの『理戦論』という極東の骨格に継ぎ接ぎしようとしている」
メッケルがこの国で直面したのは、遅れたアジアの生徒ではない。
西洋の論理を解剖し、東洋の冷徹な歴史のフィルターを通し、全く新しい近代戦の怪物へと変態を遂げようとしている『キメラ』であった。
そして、そのキメラの心臓部で冷ややかに拍動を続けているのが、あの滝脇慶家という男なのだ。
メッケルには、プロイセン軍人としての誇りがあった。だが同時に、一人の軍事学者として、数年後にこの極東の島国が、巨大な清国を最新の戦術で物理的に解体するであろう未来図が、痛いほど明確に予見できてしまった。
窓の外では、冷たい秋風が吹き抜け、枯れ葉を舞い上げていた。




