選有る事 5
明治17年(1884年)、春。
滝脇慶家少佐という男の異端さは、参謀本部の中枢や外交の場に留まらなかった。
彼は軍の垣根を越え、陸軍の「各兵科(騎兵・砲兵など)」の実務レベルにまで容赦なく土足で踏み込み、その冷徹な合理主義をもって多大な影響を与え始めていた。
第一の波紋:騎兵科と「軍馬」の兵站学
当時、慶家の馬術は陸軍内でも密かな語り草となっていた。
西洋式の乗馬教範が輸入されつつある中、彼が扱うのは極めて実戦的で無駄のない『古流馬術』であった。
誰から習ったのかと問われても、彼は「昔、甲州の騎馬隊に少しばかり痛い目を見せられてな」などと意味不明な言葉ではぐらかすばかりであったが、その腕前は本物であった。
彼が愛馬としていたのは、西洋馬よりも小柄だが骨太な日本の「南部馬」である。
この頃、陸軍騎兵科の是純少佐らは、将来の軍馬の品種改良に向けて「足の速いサラブレッドやアラブ馬を輸入すべきではないか」と検討しており、フランス留学経験があり馬にも精通している慶家に意見を求めた。
しかし、慶家の返答は彼らの夢を木端微塵に打ち砕くものであった。
「サラブレッドやアラブ馬に乗ったことはあるが、アレは駄目だ。平原を優雅に走り、人を運ぶだけの『競走馬』であって、決して『軍馬』には適さない」
慶家は、馬を撫でながら極めて実務的な(兵站的)視点から切り捨てた。
「そもそも、あいつらは粗食に耐えられん。その辺に生えている雑草を食わせれば、すぐに腹を下して死ぬ。戦場で高級な燕麦を要求するような、実に贅沢で軟弱な馬だ」
前世において、劣悪な環境と粗食の中で重い甲冑を着た武士を乗せ、泥濘を駆け抜けた日本の在来馬のタフさを知る慶家にとって、「飯を食うだけの燃費の悪い馬」など論外であった。
「対して、南部馬は良い。粗食に耐え、持久力があり、何より泥濘に強い。……ただ、近代戦における『騎兵の突撃』の衝撃力としては、確かに体躯の小ささがネックになる」
そこで慶家は、フランスの『アングロノルマン種』を推した。
「あれも大きいが、どっしりとしていて粗食に強く、何より病気にかかりにくい。
兵站に負担をかけない、軍馬や乗用馬にはもってこいの品種だ。
……もし軍で輸入するなら、私にも一頭回してくれないか? ちょうど新居に立派な馬蔵を建てようと思っていたところでね」
冗談めかして笑う慶家に、是純少佐は呆れ半分であった。
「少佐殿。あんな大馬の飼葉代(馬糧手当)だけで、将校の給金が飛びますぞ」
そう愚痴りながらも、是純は慶家の意見に深い信頼を寄せていた。貸し与えられた軍馬を自ら完璧に管理し、古流馬術を自在に操るこの男の言葉には、机上の空論ではない『実戦の重み』があったからだ。
第二の波紋:砲兵科と「閉鎖機構」の選択
同じ頃、砲兵科においても重大な議論が交わされていた。
「陸軍の次期主力野砲として、プロイセン(ドイツ)式とフランス式のどちらを採用すべきか」という問題である。
当時の世界の軍事トレンドは、普仏戦争で勝利した「プロイセン式」に傾いていた。特にクルップ社製の鋼鉄砲は優秀であり、砲兵科の多くは「大口径砲も含め、すべてプロイセン式を導入すべきだ」と主張していた。
しかし、ここで慶家は強硬に「大口径砲(155ミリ以上)のプロイセン式導入」に反対した。
「プロイセン式の水平鎖栓式は、確かに軽量砲(75ミリ以下)における装填速度と連射性には優れている。だが、大口径となれば話は別だ」
慶家が着目したのは、大砲の弾を込める後尾の『閉鎖機構(ガス漏れを防ぐ仕組み)』であった。
彼は米国やフランスの公使館での社交(諜報)戦を通じて、プロイセン式の大口径砲が中途半端な装薬を用いた際に「深刻なガス漏れ事故」を起こしやすいという構造的欠陥を完全に把握していたのである。
「大口径砲において、自陣で暴発事故を起こすような砲は鉄屑以下の『味方殺し』だ。速射性よりも、精度と『安全性』を最優先すべきである」
慶家が強く推したのは、フランスの技術者シャルル・ラゴン・ド・バンジュが開発したばかりの『ド・バンジュ式緊塞具』を備えたフランス砲であった。
特殊な石綿と油を用いたパッドによって発射時のガスを完全に密閉するこの機構は、安全性が極めて高く、射程と精度の向上に直結する。
「軽量砲(野砲)は連射性のプロイセン式。中・大口径砲(攻城砲・榴弾砲)は安全性と精度のフランス式。……これを和洋折衷として統合し、国産化する」
これが慶家の結論であった。
史実とは比べ物にならない速度で内需を拡大し、巨大な製鉄所と重工業力を構築しつつあった今の日本ならば、欧米の最新技術の「良いとこ取り」をして自国で製造することが十分に可能であった。
「経済的にも、技術的にも、もはや列強に追いつく頃合いだ」と、慶家は確かな手応えを感じていたのである。
第三の波紋:見えざる「革命」のリーク
そしてこの年、慶家は参謀本部の極秘会議において、軍の根幹を揺るがすような恐るべき情報を平然と投下した。
「……フランスが、完全な『無煙火薬』の実用化に成功した模様です」
それは、フランスの化学者ポール・ヴィエイユが発明した「B火薬(Poudre B)」のことであった。
これまでの黒色火薬は、数発撃てば戦場が真っ白な煙に包まれ、視界が失われる上に、敵に自分の位置を曝け出してしまうという致命的な欠点があった。煙が出ない「無煙火薬」の実用化は、戦術そのものを根底から覆す、まさに世界の軍事史における特異点である。
「この火薬が小銃や野砲に普及すれば、これまでの『煙幕を前提とした陣形』や『発砲炎を指標とした索敵』はすべて過去の遺物となります。
我が軍も直ちにフランスからこの技術を奪い――いや、学び取り、次期国産小銃の弾薬として量産体制を敷くべきです」
騎兵の兵站から、大砲の物理的構造、そして最先端の化学技術に至るまで。
明治17年の大日本帝国陸軍は、滝脇慶家というたった一人の「未来と過去を知る男」の恐るべき知見と情報網によって、列強すらもまだ手探りであった『真の近代戦の最適解』へと、迷うことなく一直線に突き進もうとしていた。
―――
明治17年、初夏。
新しく建ったばかりの広壮な新居の、静かな書斎でのこと。
夜風がランプの炎を微かに揺らす中、梅子はふと、滝脇慶家という男が時折見せる「奇妙な隙」を目の当たりにした。
書類の山と将棋盤に囲まれた机の前で、慶家はペンを置き、虚空を見つめていた。
その瞳は、現在の帝都・東京を見ているのではない。もっと遠い……数十年、いや数百年も昔の何かを懐かしむような、あるいは強烈な後悔と敬意が入り混じったような、複雑な色を浮かべていた。
(それは、彼が育った駿府の景色だろうか。それとも……)
やがて慶家は、自分の脳内で何かを確認し、一つの結論に達したかのように、小さく一度だけ首を縦に振り、一人で納得したように息を吐いた。
梅子は、そんな彼の静かな儀式を、少し離れた場所から黙って見つめていた。
普段は冷酷な覇王として、感情の欠片も見せずに外交や軍事の盤面を操作している男が、この時ばかりは、どこか途方に暮れた一人の人間に見えたのだ。
梅子は静かに歩み寄り、まだ少し拙い日本語で問いかけた。
「……ナニヲ、考エテイラッシャッタノデスカ?」
慶家は少し驚いたように梅子を見上げ、やがていつものように、彼女が理解しやすい流暢な英語に切り替えて答えた。
「――I was just thinking of an old friend.(昔の、古い友人のことを考えていただけだ)」
慶家は、ランプの火を見つめながら続けた。
『「奴は、途方もなく『前(未来)』を見据えるのが上手い男だった。……もし奴が今の日本(この盤面)に生きていたら、どうやってこの国を動かしただろうかと、思考実験をしていたのさ」』
それは、前世において彼が畏怖し、憎み、そして誰よりもその背中を追い続けた男――織田信長のことであった。
周囲の人間は、今の滝脇慶家を「天才」と呼び、恐れる。
強固な『理戦論』を書き上げ、警察庁の諜報網を創り出し、列強の公使館から無煙火薬や最新大砲の情報を次々と抜き出し、軍の近代化を何十年もショートカットさせている。
だが、慶家(家康)自身の自己評価は全く違った。
(私がやっていることなど、すべて過去の記憶と西洋の知識の『応用』と『最適化』に過ぎない。盤面を整理し、凡人にも分かりやすく教育しているだけだ)
彼にとっての「本物の天才(信長)」とは、そういうものではない。
『「本物の天才というのはな、津田嬢。……誰かから情報を提示されるまでもなく、全く新しい概念を己の頭の中から次々と閃き、生み出してしまうのだ」』
慶家は、自嘲するように薄く笑った。
『「既存の価値観に一切囚われず、古い常識にしがみつく奴らがどれだけ反対しようが、毅然とした態度で真っ向から物理的に叩き潰す。
私のように、事前に根回しをして、調略や謀略で相手の腹の中を喰い破り、手籠めにしてから安全に進むような、陰湿で曲がった真似は決してしない。
……ただ己の理想だけを掲げ、周囲からのあらゆる呪詛と憎悪を一身に受け止めながら、ほんの一握りの理解者だけを引き連れて、光の中を一直線に進んでいく。それが天才だ。 ……私のような『臆病な計算機』とは、まるで真逆の生き物だよ」』
梅子は黙って聞いていた。
彼女はこの男の「前世」など知る由もない。彼が語る「古い友人」が、歴史上の覇王であることなど想像もつかない。
しかし、アメリカで心理学を学んだ彼女には、一つの確かなことが分かっていた。
この男が抱える異常なまでの「人間不信」や「防衛的な思考」の根底には、かつてその『天才』と共に過ごし、あるいは争った壮絶な過去のトラウマと、決して埋めることのできない巨大な喪失感があるのだということを。
(人は皆、隠し事の一つや二つは持っているものだわ)
梅子はそれ以上、深く詮索しなかった。
ただ、彼女は静かに慶家の隣に腰を下ろし、彼の冷たい手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
「……You don't have to carry the entire board alone, My Lord.(盤面のすべてを、貴方一人で背負う必要はありませんわ、旦那様)」
梅子は、流暢な英語で、しかしとても温かい声で言った。
『「貴方が仰る天才(ご友人)には、ご友人のやり方があったのでしょう。
でも、私は貴方のその『臆病な計算』と『周到な根回し』があったからこそ、この息苦しい国で自由を手に入れることができた。
貴方のその『応用力』こそが、今のこの日本には絶対に必要なのだと、私は信じています」』
そして梅子は、少しだけ首を傾げ、不敵な笑みを浮かべた。
「If there's a problem bothering you, let's solve it together. I am your partner, am I not?(悩み事があるのなら、一緒に考えますよ。……私は貴方の、優秀なパートナーなのでしょう?)」
その言葉に、慶家はほんの少しだけ目を見開き――やがて、憑き物が落ちたように、深く静かな笑みをこぼした。
「……そうだな。天才の真似事など、私には似合わん。私は私のやり方で、泥に塗れながらこの国の盤面を整えるまでだ」
慶家は、梅子に握られた手を振り払うことはしなかった。
愛から始まった関係ではない。ただの利益が一致した契約結婚。
しかし、この知性と自我に溢れる「戦友」の存在は、孤独な覇王の心を、ほんの僅かであるが確実に、人間らしい温もりへと引き戻し始めていたのである。




