縁有る事 9
明治16年(1883年)2月11日。
初代天皇である神武天皇の即位を祝う「紀元節」。
帝都・東京は、朝から祝祭の空気に包まれていた。皇居において執り行われた大規模な祝賀儀式には、明治政府の政府高官や軍の将官、そして各国からの駐日公使たちが一堂に会し、新興国・日本の威信を示す華々しい式典が繰り広げられた。
この日、滝脇慶家少佐は参謀本部の将校としてだけでなく、その堪能な語学力と政治的嗅覚を買われ、「米国公使の随行員兼通訳」という重要な役目を担っていた。
フランス語だけでなく、梅子との契約以降、彼女との会話(舌戦)を通じて英語の実践的な語彙をさらに研ぎ澄ませていた慶家は、式典の最中も米国公使の傍らにピタリと付き従い、時にウィットに富んだ会話で公使を大いに感心させていた。
その見事なエスコートの返礼として、慶家は式典の夜、米国公使館で開かれる祝賀夜会への招待状を直接手渡されたのである。
―――
夜の帳が下りた築地の外国人居留地。
ガス灯の柔らかい光に照らされた米国公使館の前に、一台の豪奢な馬車が滑り込むように停まった。
「……ふぅ」
馬車の中で、津田(滝脇)梅子は、小さく、しかし固い溜め息を吐いた。
彼女の身を包んでいるのは、窮屈な和服ではない。アメリカ滞在時に仕立てた、当時の最先端を行く洗練されたシルクのイヴニング・ドレスであった。コルセットで締め付けられた胸の奥で、心臓が早鐘のように鳴っているのが自分でもわかった。
(落ち着きなさい、梅子。アメリカのパーティーには何度も出たじゃないか。言葉だって通じる……)
頭ではそう言い聞かせても、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
ただの客として参加するわけではない。今日が、慶家の「妻」として、そして列強の外交官たちから機密情報を引き出す『情報官』としての、公的な初陣(デビュー戦)なのだ。
もし自分がここで粗相をすれば、あるいは有益な情報を引き出せなければ、この隣に座る冷酷な男からの評価は地に落ち、契約は打ち切られるかもしれない。その重圧が、うら若き梅子の肩に重くのしかかっていた。
「到着したぞ。……顔が強張っているな、津田嬢」
御者が扉を開ける直前、向かいの席に座っていた慶家が、英語で淡々と声をかけた。
「……少しだけ。公的な仕事は初めてですから」
梅子が強がって答えると、慶家はフッと鼻で笑い、先に馬車を降りた。
そして、夜風の吹き抜ける公使館の前で、手袋に包まれた右手をスッと梅子へと差し出した。極めて自然で、洗練された西洋式のエスコートであった。
「緊張など、犬にでも食わせておけ。ここは戦場ではない」
慶家の声には、微塵の揺らぎもなかった。
彼の脳裏にある「本物のいくさ」――鉄砲の弾が雨あられと降り注ぎ、槍衾が迫り、味方の裏切りに怯えながら泥水をすすった戦国の地獄絵図に比べれば、きらびやかなシャンデリアの下で白人たちがグラスを傾け合う社交界など、ただの『安全な遊戯盤』に過ぎない。
「相手は銃も刃物も持っていない。ただ、笑顔の裏に嘘と欲望を隠し持っているだけだ。……貴女の知性と言葉をもってすれば、赤子の手をひねるより容易い盤面だろう?」
差し出された慶家の手を取り、馬車を降りた梅子は、間近で彼の横顔を見上げた。
(本当に……この男の面の皮の厚さは、どうなっているの)
軍服に身を包んだ二十代半ばの青年将校。本来ならば、欧米の百戦錬磨の外交官たちを前に気後れして当然の年齢である。
しかし、慶家の佇まいには、まるで「この場にいる誰よりも自分の方が上位の捕食者である」とでも言わんばかりの、図太く、底知れぬふてぶてしさが満ちていた。
だが。
その「面の皮が厚く、一切の動揺を見せない冷酷な男」の存在が、今この瞬間、緊張で張り裂けそうだった梅子にとって、どれほど頼もしく、巨大な防壁のように感じられたことか。
「……ええ、そうね。銃弾が飛んでこないのなら、私の舌(英語)の方がずっと鋭いわ」
梅子の顔から緊張の色がスッと消え、代わりに、アメリカの地で培った知性と、自立した女としての不敵な笑みが浮かび上がった。
「その意気だ。さあ、行こうか」
「ええ、参りましょう。マイ・ロード」
慶家が差し出した左腕に、梅子がそっと右手を添える。
扉が開き、弦楽四重奏の優雅な調べと、葉巻の煙、そして英語とフランス語が入り交じる公使館の広間へと、二人は足を踏み入れた。
「――日本帝国陸軍・参謀本部所属、滝脇慶家少佐。ならびに、令夫人のおなり!」
広間の喧騒が、一瞬だけ止んだ。
列強の外交官たちが一斉に視線を向ける先には、一切の気後れを見せずに堂々と歩を進める極東の若き特異点と、西洋の貴婦人すらも顔負けの洗練されたドレス姿で微笑む、一人の誇り高き少女の姿があった。
大日本帝国の暗部を担う『最強の諜報夫婦』が、世界の社交界(盤面)へとその存在を見せつけた、最初の夜であった。
―――
米国公使館の広間は、シャンデリアの眩い光と、洗練された弦楽の音色、そして最高級のシャンパンの香りで満たされていた。
表向きは華やかな「社交辞令」と「祝賀」の場。しかし、一歩踏み込めば、そこは列強の外交官たちが自国の利益のために腹を探り合う、血の流れない戦場であった。
だが、津田梅子にとって、この重苦しい空気は少しも苦にならなかった。
むしろ、日本に帰国して以来ずっと感じていた「息の詰まるような家父長制の檻」から解放され、彼女は水を得た魚のように生き生きとしていた。
周囲を飛び交うのは、彼女が11年間アメリカで慣れ親しんだ言葉(英語)である。
日本の座敷牢のような料亭では、女はただ黙って酌をするだけの存在であったが、この場において彼女は「一人の自立した女性」として、堂々と知的な会話に参加することが許されていた。
(ここは、私の領域よ)
梅子は、シャンパングラスを片手に、見事な英語と社交的な微笑みで、次々と近づいてくる列強の外交官やその夫人たちの相手をこなしていった。
そんな中、梅子の前に立ちはだかったのは、この夜会の主である米国公使であった。
彼は、梅子の洗練された英語と身のこなしに賛辞を贈りながらも、その視線は梅子の隣に静かに佇む滝脇慶家を、鋭く、そして警戒心を孕んだ目で見据えていた。
「いやはや、ミセス・タキワキ(滝脇夫人)。貴女のような知花が、あの冷徹なる『極東の策士』の隣に咲いているとは、驚きを禁じ得ませんな」
米国公使は、冗談めかした口調の中に、明確な探りの刃を忍ばせていた。
「貴女の夫君は、先の朝鮮(壬午事変)において、味方の血をほとんど流さずに暴動を鎮圧し、結果として我が国が望んでいた以上の権益を日本へともたらしました。……我々から見れば、彼はまるで『盤上のチェスを、相手の手番すら奪って一人で動かしている』かのような、恐るべき男に見えるのですよ」
梅子は、その言葉から瞬時に一つの事実を悟った。
(列強は……アメリカすらも、この国を単なる「未開のアジア」とはもう見ていない。日本を、そしてこの滝脇慶家という男を、底知れぬ脅威を秘めた『対等な交渉相手』として警戒し始めている)
公使の目は、「貴女のような西洋の知性を持つ女性が、なぜあのような恐ろしい男に飼われているのか」と問いかけていた。もしここで、梅子が日本の男尊女卑を嘆き、夫を庇うような素振りを少しでも見せれば、そこから「日本の内情(弱み)」を突かれる。
梅子は、グラスを傾けながら、極めて優雅に、そして隙のない『模範解答』を返した。
「お褒めにあずかり光栄ですわ、公使閣下。ですが、夫はチェスを嗜むだけでなく、日本の『将棋』という遊戯を好みますの。……ご存知ですか? 将棋はチェスと違い、奪った相手の駒を『味方』として盤面に放つことができるのです」
梅子は、隣の慶家にチラリと視線を送り、不敵に微笑んだ。
「夫は、血を流すことを何よりも嫌う合理主義者です。だからこそ、相手を殺すのではなく、盤面を整えて『味方』に変えてしまう。……私がアメリカで学んだ自由と知性も、彼にとっては、この国を近代化させるための強力な『駒』として尊重されているのです。愛すべき、そして頼もしい夫ですわ」
その完璧な切り返しに、米国公使は一瞬目を丸くし――やがて、降参したように両手を挙げて笑い声を上げた。
「ハハハ! これは一本取られましたな。なるほど、貴女もまた、彼が盤面に放った『最強の駒』というわけだ。……タキワキ少佐。貴官は本当に、恐ろしいほどの強運と眼力を持っている」
「恐縮です、公使閣下」
慶家は、梅子の見事な外交戦を横で見届けながら、冷たく、それでいてどこか満足げにグラスを掲げた。
「受け」の美学と、特異点の戦い方
公使が去った後、梅子は小さく息をつき、慶家を見上げた。
「……どうでした? 私の『情報官』としての初仕事は」
「完璧だ。貴女の舌は、一個小隊の火力にも匹敵するな」
慶家は、周囲の目を気にすることなく、英語で短く称賛した。
梅子はその言葉に少しだけ頬を緩めながら、改めて隣の男――滝脇慶家という存在を見つめ直していた。
(この男の戦い方が、少しわかった気がする)
日本国内において、彼は軍の強固な基本形(理戦論)を作り、相手の攻めを徹底的に「受け」てからカウンターを放つ。
そして今、この外交という盤面においても、彼は自分から積極的に前に出ることはなかった。梅子という「西洋の知性を持つ妻」を盾として前に立たせ、列強からの探りや圧力を彼女に「受け」させ、完璧に吸収させたのだ。
相手の意図を完全に計算した上で、最も効果的な駒(今回は梅子)を配置し、相手が自ら限界や隙を見せるのを待つ。
戦場の塹壕戦も、社交界の言葉の探り合いも、慶家にとっては全く同じ「理」で動いている。
「……本当に、貴方は徹底した『受け』の戦術家なのね」
梅子が英語で小さく呟くと、慶家はグラスのシャンパンを飲み干し、夜会の喧騒の中で薄く笑った。
「自分から先に動く者は、必ずボロを出す。いくさも外交も、最後に立っていた者が勝者だ。……さあ、次の獲物が来るぞ。しっかり盾の役目を果たせ、私の情報官」
この夜会での鮮烈なデビューを経て、梅子は「滝脇慶家の強力なパートナー」として、列強の外交官たちから一目も二目も置かれる存在となっていく。
そして、彼らが完璧なタッグで外交戦線を構築していく中、国内ではいよいよ、歴史的な「第一回下局員選挙」の足音が迫っていた。




