縁有る事 8
滝脇慶家少佐と津田梅子の「婚姻(契約)成立」の報せは、瞬く間に双方の関係者へと届けられ、それぞれの陣営に全く異なる波紋と安堵を広げていた。
梅子の父・津田仙は、届いた報せに深く安堵の息を吐いていた。
「……やっと、あの頑固な梅子が折れたか。アメリカ帰りのじゃじゃ馬を、よくぞ手懐けてくださった」
仙にとって、梅子の西洋被れな思想と強すぎる自我は、日本の社会では到底受け入れられない「欠陥」であり、頭の痛い種であった。
相手の滝脇慶家は、若くして参謀本部の中枢に座り、徳川慶喜公や大山巌からの覚えもめでたい、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのエリート将校である。
「あのような立派な軍人殿の妻になれば、梅子もようやく日本の女としての弁えを覚え、良妻賢母として大人しく家に入るだろう」と、仙は完全に的外れな安堵感を抱き、一人納得していた。
(まさか娘が、良妻賢母どころか、慶家と共に列強の公使館でスパイ紛いの情報戦を繰り広げる『兵器』としてスカウトされたなどとは、夢にも思わずに)
一方、この見合いをセッティングした陸軍の上層部(大山巌ら)の反応は、津田仙のそれとは真逆であった。
「……あの『冷血の滝脇少佐』が、見合いの席で即日、結婚を即決しただと?」
報告を受けた将官たちは、顔を見合わせてゴクリと息を呑んだ。
彼らは慶家という男をよく知っている。女の顔や家柄、ましてや愛などというくだらない理由で動く男ではない。彼の行動原理は常に「冷徹な算盤」のみである。
「あの男が『買い』だと即決したのだ。……この津田梅子という女、ただのアメリカ帰りの令嬢ではない。確実に、滝脇と同じ匂いのする『化け物』に違いない」
「うむ。迂闊に近づけば、我々も何をされるか分からん。あの夫婦の動きには、今後一切口出ししない方が身のためだ」
陸軍の石頭たちは、見事なまでに梅子の本質(強烈な知性と自我)を嗅ぎ取り、新婚夫婦に対して勝手に震え上がり、完全な「不可侵条約」を結ぶことを決意していた。
そして、その報せは、冬の静岡で静かに暮らす滝脇家にも届いていた。
「……おお、おお。市之進(慶家)が、ついに身を固める気になったか……!」
父の清孝は、電信の文面を握りしめながら、目元を熱くして声を震わせた。
「本当に、良かったです……! ああ、これでようやく安心できました」
母の菊は、安堵のあまり座り込んで涙を拭っていた。
滝脇家の両親が抱いていたのは、出世していく息子への誇りと同じくらい、彼の「人間としての欠落」に対する、言い知れぬ深い不安であった。
幼い頃から恐ろしく賢く、一切の感情を交えずに物事を切り捨てる息子。戦場から帰還しても、彼の瞳の奥には常に氷のような冷たさが張り付いていた。
「あの子は、誰のことも愛さないのではないか。一生、家庭を持つことなどないのではないか」
武家の当主として家を継ぐという以前に、親として、息子が人間らしい温もりを知らずに孤独に死んでいくことを何よりも恐れていたのだ。最悪の場合、妹の松の子供に家督を継がせるという逃げ道すら、清孝は密かに考えていた。
「これで、市之進も人の温もりを知り、普通の幸せを手に入れてくれるはずだ」
清孝は、息子が「政略の道具」として梅子を選んだことなど知る由もない。ただ純粋に、息子が伴侶を得たことを喜んでいた。
「私は、市之進の負担にならぬよう、このまま静岡で役人を全うするつもりだ。だが……せめて婚姻の儀(結婚式)には、夫婦揃って帝都へ出向き、立派に成長した息子の晴れ姿と、新しい娘(嫁)の顔を見届けねばならんな」
清孝は、隣で頷く菊と共に、数年ぶりに息子と再会する日のことを思い、冬の寒さも忘れるほどの温かな喜びに包まれていた。
三者三様の思惑と勘違いが交錯する中。
当の本人たち――滝脇慶家と津田梅子は、帝都の闇の中で、愛もロマンも一切存在しない「互いの利益を最大化するための契約書」の詰めを、淡々と、しかし極めて楽しげに行っていたのである。
―――
婚姻(契約)が成立するや否や、滝脇慶家は軍の兵站を動かす時と全く同じ速度で、物理的な「盤面(生活環境)」の構築に取り掛かった。
彼は直ちに、帝都の山の手にある元武家屋敷の広大な敷地を購入し、自分と梅子、そして将来必要となるであろう諜報や外交の拠点も兼ねた「新居」の設計を建築家に命じたのである。
しかし、その豪邸が完成するまでの間、二人は慶家が現在暮らしている陸軍の借家(一軒家)で生活せねばならなかった。
梅子が初めて足を踏み入れた慶家の借家は、生活感というものが恐ろしいほど欠落した、一種の「野戦司令部」のような空間であった。
家の中には、和漢の軍学資料だけでなく、英語やフランス語で書かれた最新の科学書、医学書、兵器の設計図などが、地層のように無造作に積み上げられている。
そして部屋の片隅には、彼が頭脳を研ぎ澄ますための趣味である囲碁、チェス、そして使い込まれた将棋盤が置かれていた。
将棋盤の上には常に、彼が好む後手からの陣形が並べられていた。自ら先制攻撃を仕掛けるのではなく、相手の猛烈な攻めを真っ向から受け止めて吸収し、複雑な終盤戦に持ち込んで完全に読み勝ち、圧倒的な反撃ですり潰す。
その防衛的でカウンターを主眼とする棋風は、そっくりそのまま彼の提唱する『理戦論』の思想を体現していた。
また、この男の「肉体」と「胃袋」の管理も、梅子の理解を超えるほど極端であった。
「……メジャー(少佐)。貴方は毎日、このような食事を?」
「ああ。いくさにおいて、将と兵が違うものを食うのは部隊の崩壊を招くからな」
慶家の食事は、徹底した『粗食』であった。
昼間は参謀本部にて、一般兵卒たちに混じって同じ麦飯と汁物をかき込み、夜に家で自炊する際も、米と少しの魚、そして梅干しといった極めて質素なものしか口にしない。美食への執着など微塵もなかった。
さらに、頭脳労働が主である参謀でありながら、慶家は肉体が鈍ることを極端に嫌った。
早朝から木刀を振るって剣術の型を確認し、銃剣術で汗を流し、馬術の修練を欠かさない。そして極めつけは、近代兵器全盛のこの時代に全くそぐわない「弓術(和弓)」であった。
静寂の中、一切の感情を排して的を射抜くその所作は、彼が己の「冷酷な集中力」を維持するための、儀式のようなものであった。
やがて、新居の着工と時を同じくして、静岡から慶家の両親(清孝と菊)が上京。帝都にて、津田仙を交えた「両家の初顔合わせ」と「婚姻の儀」が執り行われた。
「この度は、あのようなじゃじゃ馬を貰っていただき、感謝の念に堪えません」
「とんでもない。市之進(慶家)こそ、戦のことしか頭にない不器用な男ゆえ、梅子殿のような立派な娘さんに来ていただけて、親としてこれほど嬉しいことはありません」
料亭の座敷で、津田仙と清孝が嬉しそうに酒を酌み交わし、母の菊がハンカチで目頭を押さえる。
その傍らで、うやうやしく『結納金』が滝脇家から津田家へと手渡された。
(……まるで、家畜の売買ね)
晴れ着を着せられ、上座に座る男たちのやり取りを黙って見つめながら、梅子は胸の奥で強烈な吐き気(嫌悪感)を覚えていた。
金銭がやり取りされ、親同士の合意だけで、一人の女性の戸籍と所有権が別の家へと移っていく。
人前式と結納という、この国が古来から重んじてきた「神聖な婚姻のシステム」は、アメリカで個人の自由と尊厳を学んできた梅子からすれば、極めて残酷な『合法的な身売り』にしか見えなかった。
だが、梅子は奥歯を噛み締め、じっと堪えた。
なぜなら彼女は、隣に座る無表情な軍人(慶家)と、すでに英語で『別の契約』を結んでいるからだ。
この儀式は、馬鹿な男たち(世間)の目を欺くための、ただの茶番に過ぎない。
(耐えなさい、梅子。これは、私がこの国で『自由』と『戦うための力』を手に入れるための、必要な代償よ)
数日が経ち、儀式と顔合わせの全日程が終了した。
「市之進を、よろしく頼みますね」と涙ぐむ菊と、肩の荷が下りたような顔の津田仙が、それぞれ静岡と自邸へと帰っていく。
そして。
冬の冷たい風が吹く中、慶家の古びた借家に、新婚の二人だけが取り残された。
「……さて。邪魔者たちは消えたな」
玄関の扉が閉まった瞬間、慶家は軍服の襟元を少し緩め、先ほどまでの「立派な青年将校」の仮面をあっさりと捨て去り、英語でそう切り出した。
「ええ。酷く退屈で、胸糞の悪い儀式でしたわ、マイ・ロード(旦那様)」
梅子もまた、窮屈な和服の袖を乱暴に払い、流暢な英語で皮肉たっぷりに応じた。
「不満があるなら、フランス語で私を罵倒しても構わんぞ。この家には、それを理解できる教養を持つ者は我々しかいないのだからな」
「遠慮しておきます。……それより、私の寝室と書斎はどちらですか? 荷物を解いて、さっそくこの国の現状を整理したいのですが」
愛も、初々しい恥じらいも、新婚の甘い空気も一切ない。
書類と専門書と将棋盤に占拠された薄暗い借家の中で、冷酷なる覇王と、自我と知性に溢れる帰国子女の、あまりにも実務的で奇妙な『同棲生活』が、ここに幕を開けたのである。
―――
戸籍上の手続きが淡々と処理され、津田梅子は公的に「滝脇梅子」となった。
しかし、帝都の片隅にある古びた借家の中には、新婚夫婦の甘い空気など微塵も存在しなかった。そこにあるのは、冷え切った冬の夜気と、石油ランプの微かな明かり、そして、二人の間に置かれた使い込まれた将棋盤だけであった。
「……滝脇少佐。いえ、慶家さん。私はこれから、何をすればよろしいのですか」
梅子は、分厚い英語のノートを開き、ペンを握りながら正面に座る男に問うた。
彼女にとって「滝脇梅子」という名は、この息苦しい国で自由と戦うための力を得るための、いわば『暗号名』に過ぎない。
慶家は、盤上の歩兵を一つ進め、静かに顔を上げた。
「まずは、貴女の頭の中にある『アメリカの常識』と、この国の『古すぎる現実』のすり合わせ(キャリブレーション)からだ。……戦うためには、まず盤面(この国)の骨格を正確に知らねばならない」
慶家の声は、酷く冷たく、それでいて深い知性を帯びていた。
梅子と完璧な協力体制を敷くにあたり、慶家は彼女の「アメリカナイズされた価値観」を否定はしなかったが、それをそのまま日本に持ち込んでも自滅するだけだと理解していた。だからこそ、この国の実情と歴史、その『本質』を徹底的に叩き込む必要があったのだ。
―――第一の講義:若き理想の国(米国)と、血の蓄積(日本)
「貴女が育ったアメリカという国は、建国からわずか百年足らずの『若い国』だ。彼らは古いしがらみを持たず、自由と平等という『理念と契約』によって国家を造り上げた」
慶家は、英語と日本語を交えながら語り始めた。
「対して、我が日本は古すぎる。神話の時代から数えれば二千年、文字の記録だけでも千年以上、同じ島国の中で血を混ぜ、殺し合い、妥協し合ってきた。アメリカが真っ白なカンバスに描かれた近代絵画だとすれば、日本は無数の人間が血と泥を塗り重ねてきた、分厚く重い油絵だ。……貴女がこの国で感じている息苦しさの正体は、その『重さ』そのものなのだ」
梅子は息を呑んだ。
単なる「遅れた野蛮な国」として日本を切り捨てるのではなく、歴史の蓄積という観点から両者を比較するその視座は、彼女の知的好奇心を強く刺激した。
「アメリカの価値観が優れていることは百も承知だ。だが、その理想をそのままこの古い国で叫んでも、誰も耳を貸さない。
……この国を変えたいのなら、この国を縛り付けている『鎖の正体』を正確に理解し、内側から鍵を開けねばならない」
―――第二の講義:『天皇』という根幹と、『徳川』という価値観
慶家は将棋盤の中央に、ひときわ目立つ「王将」の駒を置いた。
「この国の精神的根幹は、間違いなく『天皇』だ。権力は持たずとも、絶対的な権威として存在し続ける。いかなる武将も、政治家も、この王将を消去することはできなかったし、しようともしなかった。これが、日本という国がバラバラに崩壊しないための『絶対的な接着剤』だ」
次に、慶家はその王将の周りを、幾重にも「金将」や「銀将」の駒で囲み、強固な陣形を作り上げた。
「そして、現在貴女を苦しめている男尊女卑、家父長制、身分制度。……この国の『息苦しい価値観の基礎』を作り上げた存在。それが、二百六十年間この国を支配した『徳川家(幕府)』だ」
その言葉を口にした時、慶家の声には、梅子には到底理解できないような、奇妙な熱と『誇り』のようなものが混じっていた。
「……貴女は徳川を、民の自由を奪った悪き封建制度だと憎んでいるかもしれない。だが、徳川家康という男がなぜあの息苦しい制度(檻)を作ったか、考えたことがあるか?」
「それは……一部の武士階級が、権力を独占し、民を支配するためではありませんか?」
梅子の問いに、慶家(家康)は小さく、しかし酷く楽しげに笑った。
「違うな。あの男が家父長制や厳格な身分制度を敷いた最大の理由は、『人間同士の無軌道な殺し合い(戦国時代)を、強制的に終了させるため』だ。
……自由とは、時に野蛮な暴力を生む。あの時代、秩序のない自由は、すなわち『隣の村の連中を殺して土地を奪う自由』でしかなかった」
慶家は、囲い込んだ駒を指先でなぞった。
「だから徳川は、すべての人間に『分(身分と役割)』を与え、強固な枠に嵌めた。女は家を守り、男は家長として一族を統率する。農民は土を耕し、武士は刀を帯びて管理する。
……個人の自由を極限まで奪う代わりに、この島国に『二百六十年の絶対的な平和』をもたらしたのだ。それは、当時の狂った世界においては、最も合理的な『暴力の封じ込め装置』であった」
梅子は、ノートを取る手を止めた。
憎むべき古い悪習が、かつては「命を守るための絶対的な防壁」として機能していたという残酷な真理。それは、アメリカの進歩主義的な教科書には決して書かれていない、為政者だけの血みどろのリアリズムであった。
「だが」と、慶家は一転して冷たい声を出した。
「時代は変わった。西洋という巨大な怪物が海を渡ってきた今、徳川が作った『平和のための檻』は、国家の成長を阻害する『枷』にしかならない。
……我々は今、天皇という精神的根幹を残したまま、徳川が作った価値観の檻を、我々自身の手で物理的に解体し、近代国家へと作り変えている最中なのだ。」
―――第三の講義:国際情勢と、国家総力戦
そして話は、現状の国際情勢(地政学)へと移っていった。
「現在の極東は、まさに一触即発の火薬庫だ。先の朝鮮での一件(壬午事変)により、宗主国を自任する『清国』は我が国に対して明確な殺意を抱き、猛烈な軍拡を進めている。
北を見れば、凍らない港を求めて『ロシア帝国』がシベリア鉄道の敷設計画を進め、虎視眈々と南下の機会を窺っている」
慶家は、盤上の駒を一旦すべて払い落とし、再び新たな陣形を組み直した。
「イギリスやフランスといった列強は、我々東洋の国々が殺し合い、疲弊したところを植民地として喰い物にしようと待っている。……この過酷な盤面で生き残るために、今この国に必要なものは何だと思う?」
「……強力な軍隊、と最新の兵器ですか?」
「それだけでは足りない」
慶家は、梅子の目を見据えて断言した。
「必要なのは、『国家総力』だ。軍隊だけでなく、経済、インフラ、諜報、そして何より『人材(頭脳)』を、国の隅々まで絞り尽くして戦う体制。……だからこそ、貴女が必要なのだ、津田梅子」
その言葉に、梅子の肩がビクッと跳ねた。
「この国は長年、女に学問は不要だとして、人口の半分を占める女性たちの『知性と労働力』を無駄に捨ててきた。これは、国家運営の観点から言えば、極めて非合理な『資源の浪費』だ。
……貴女が造りたいという『女の学校』は、単なる道徳や平等のためではない。この国が列強と戦うための、新たな兵站(人材資源)を供給する巨大な工場となる」
梅子は、目の前の男の恐ろしさと、底知れぬ魅力に震えた。
この男は、女性の人権などという甘いヒューマニズムには一ミリも興味がない。ただ純粋に、国家が生き残るための「計算式」として、女性の教育と社会進出が絶対に必要だと断言しているのだ。
だが、理由はどうあれ、それは梅子がアメリカで抱いた「女性も社会に貢献できる」という理想と、完璧に合致していた。
「……理解しました。私がすべきことは、貴方(軍部)の盤面操作を利用して、この国に女性の知性を解放する回路を造り上げること。そういうことですね」
「話が早くて助かる。まさに最高のパートナーだ」
―――最終講義:明治16年・春の『下局員選挙』
夜も更け、ランプの油が減り始めた頃。慶家は最後に、この国の「直近の政治的盤面」について語った。
「そして、この国を内側から変える大きな楔が、間もなく打たれる。年が明けて明治16年の春。大日本帝国議会における『第一回下局員(下院)選挙』が行われる」
慶家が構築した議会制度。その下局(民意を反映する議院)の議員たちを、選挙によって入れ替えるという、日本史上かつてない歴史的実験であった。
「……選挙権は、すべての国民にあるのですか?」
「いや。今の段階では、一定の税を納めている『中額納税者(地主や資本家、豊かな商人層)』までに限られている。無知な大衆すべてに権力を与えれば、必ず扇動家に国を乗っ取られるからな。まずは、自分の財布から税金を払っている『国家の株主たち』にだけ、発言権を与えた」
慶家は、その選挙が持つ真の意味を、冷酷に分析してみせた。
「この選挙の結果次第で、木戸孝允の『内閣』と『首相』が入れ替わる可能性がある。……だが、誰が首相になろうと、実はどうでもいいのだ。重要なのは、『血を流すことなく、為政者の首をすげ替えるシステム』が機能するかどうかだ。
権力は必ず腐る。水も同じ場所に留まれば淀む。選挙とは、国民に『自分たちが国を動かしている』というガス抜きをさせながら、国家という肉体に新しい血(人材)を循環させるための、最高の『風通し』なのだ」
梅子は、この男がいかにしてこの巨大な国家のシステムを俯瞰し、設計しているかを悟り、深い溜め息を吐いた。
「春になれば、選挙の熱狂と共に、各国の公使館も日本の政情を探ろうと活発に動き出す。
……滝脇梅子。
貴女の最初の任務は、私の妻として夜会に同伴し、その流暢な英語とフランス語で、列強の外交官どもから『清国とロシアの最新の軍事情報』を抜き取ってくることだ。できるな?」
「……愚問ですわ、メジャー(少佐)。私の知性と英語力を、そこらの無教養な貴族の娘たちと一緒にしないでいただきたい」
梅子は、ノートをパタンと閉じ、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。
そこにはもう、息苦しい日本の因習に絶望していた孤独な少女の姿はない。大日本帝国の暗部を支配する冷徹なる覇王の隣で、自らの知性を武器として世界と戦い、この国を根底から作り変える野心に燃える『戦友』の顔があった。
価値観も生きた時代も全く異なる二つの頭脳が、完璧な合理性という接着剤によって結合し、やがて極東の歴史を大きく狂わせていく「最強の諜報夫婦」が、ここに誕生したのである。




