↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葵三つ葉  作者: 丸亀導師
縁有る事
PR
53/77

縁有る事 7

明治15年(1882年)12月。


吐く息も白く凍るような厳冬の帝都。参謀本部の執務室で『理戦論』の微調整を行っていた滝脇慶家少佐のもとに、陸軍上層部――実質的には彼の後ろ盾である大山巌あたりからの使者が訪れ、一通の極秘の「辞令」を言い渡した。


それは、軍事命令でも謀略の指令でもない。


二十五歳を迎えた滝脇慶家に持ち上がった、人生初にして最大の試練――『お見合い』の通達であった。



慶家は、この二十五年の人生において、男女の浮ついた話など一度たりとも持ち合わせたことがなかった。


それも当然である。彼の根底にあるのは、徹頭徹尾『人間不信の擬人化』とも言うべき冷徹な人間観であった。


(人間とは、必ず裏切る生き物だ。どれほど誓いを交わした親友であっても、利害が一致しなくなった瞬間、あるいは恐怖に駆られた瞬間、必ず背中から刃を突き立てる)


前世の戦国乱世において、幾多の臣下に裏切られ、身内を処断し、疑心暗鬼の底を這いずり回ってきた彼にとって、他者への信頼などという甘ったれた感情は存在しない。彼が生涯で「信じた」と言える人間など、片手で数えられるほどしかいなかった。


当然、それは「女」という存在に対する見方にも直結していた。


彼にとって妻や女性とは、愛を育むロマンの対象ではなく、「自らの背後(後方兵站や政治的防壁)を固めるための、最も利害の一致した政略の道具(駒)」でしかなかった。


前世において、幾人もの女性を政略の道具として利用し、捨ててきた冷酷な記憶が彼のなかにこびりついている。


唯一の例外と言えるのは、政務から外交の補佐まで完璧にこなした側室・阿茶局のような、魂の底から実務で信用できる「有能なパートナー」だけであった。


だからこそ、お見合いの話を聞いた瞬間、慶家の眉間に険しい皺が寄った。


どうせ薩長閥や旧大名家が、自分の影響力を削ぐために送り込んでくる「監視役(スパイ)」か、あるいは退屈な箱入り娘のどちらかだろう。自分で身元を洗って、使い物にならなければ即座に体よく追い返すつもりで、彼は冷ややかに聞き返した。


「……相手の身元は? 誰の差し金で、どんな女だ」


慶家が自分で徹底的に調べる気満々でそう問い詰めると、使者の将校は少し言いにくそうに、しかしどこか呆れたような顔でこう答えた。


「相手は……アメリカから帰ってきたばかりの帰国子女だ。ただ、少々……いや、かなり問題を抱えていてな。日本語がほとんど話せないのだよ」


「――日本語が、話せない?」


その言葉を聞いた瞬間、慶家の冷徹な瞳の奥に、ピクリと微かな光が走った。


政略結婚を企む者たちが差し出すのであれば、日本の伝統的な作法を叩き込まれ、言いたいことも言えずにただうつむくような人形の娘であるはずだ。


「アメリカ帰り……。しかも、言葉が通じないトラブルメーカーか」


ふと、慶家の脳裏に、彼がフランス留学時代に出会った「現地の常識に囚われない、合理主義と強烈な自我を持った人間たち」の姿が重なった。


周囲の人間が「手に負えない」と持て余すような厄介者。しかし、もしそこに「使い道(利用価値)」を見出すことができたなら、それは他のどの従順な令嬢よりも、極めて強烈な駒になり得る。


人間不信の冷徹な少佐の胸中に、計算づくの打算とはまた異なる、黒い知的好奇心――「面白そうだ」という名の興味の鉤針が、静かに引っかかった。


「……よろしい。その者との場をセッティングしろ。私が直接、値踏みしてやろう」


慶家の冷酷で計算ずくの人生の盤面に、もっとも予測不能で、もっとも危うい「異物」が、音もなく足を踏み入れようとしていた。


明治15年、冬。

帝都・東京の閑静な料亭の一室。

津田梅子は、窮屈な和服に身を包み、息の詰まるような沈黙の中で畳を見つめていた。


(どうせ、今日も同じ……)


帰国してからの日々は、彼女にとって「絶望」という名の檻であった。


アメリカで培った、一人の人間としての尊厳。女性であっても学び、自立し、社会に貢献できるという確信。ランマン夫妻から注がれた愛情と、キリスト教の平等精神。


そのすべてが、この祖国では「女のくせに生意気だ」「日本語もまともに話せない欠陥品」という冷笑と差別の壁にぶち当たって粉々に砕け散っていた。


家長である父親(津田仙)が絶対の権力を持ち、女は三歩下がって男の世話をするのが美徳とされる息苦しい社会。梅子にとって、日本の男たちは皆、同じような傲慢な顔をした「未知のエイリアン」に等しかった。


「梅子。今日の相手は、お前の眼鏡にかなうかもしれないぞ」


父の仙が隣で低く囁いたが、梅子は心を閉ざしたままだった。


どうせまた、自分の学歴や思想を理解しようともせず、ただ「アメリカ帰りの珍しい飾り物」として扱い、最終的には「家に入って良妻賢母になれ」と説教を始めるような、日本語しか話せない男が来るに決まっている。


やがて、襖が静かに開いた。


そこに現れたのは、仕立ての素晴らしい近代的な軍服(ダブルのフロックコート)に身を包んだ、二十代半ばの長身の将校であった。


軍人――梅子が最も警戒する、男尊女卑と暴力の象徴のような職業の男。


だが、その男が座布団に腰を下ろし、梅子を一瞥した瞬間の『眼』に、彼女は背筋が凍るような奇妙な感覚を覚えた。


その瞳には、日本の男たちが女に向けるような「見下した色」も「欲望」も、一切存在していなかった。


あるのはただ、刃物のような冷徹な知性と、目の前の人間の『性能(スペック)』を正確に値踏みしようとする、機械のように合理的な光だけ。


男は、同席していた父親たちには目もくれず、梅子の目を真っ直ぐに見据えて、口を開いた。


「――It is a pleasure to make your acquaintance, Miss Tsuda. I am Major Keika Takiwaki.(お初にお目にかかります、津田嬢。私は滝脇慶家少佐です)」


それは、完璧な文法と、ロンドンの外交官すら舌を巻くであろう洗練された『キングス・イングリッシュ(英国標準英語)』であった。


「……えっ?」


梅子は、あまりの衝撃に目を丸くし、声にならない声を漏らした。


幻聴かと思った。この泥臭く息苦しい日本の座敷牢のような空間で、自分がアメリカで11年間慣れ親しんできた、あの知的で論理的な「言葉」が、軍服を着た男の口から紡ぎ出されたのだ。


梅子が絶句し、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっていると、滝脇慶家というその男は、微かに小首を傾げた。


「おや。……L'anglais n'est-il pas votre langue de prédilection ? Si vous le préférez, nous pouvons converser en français.(英語は貴女の得意言語ではなかったかな? もしお望みなら、フランス語で会話しても構いませんが)」


今度は、流れるようなフランス語。

パリの社交界で洗練された、どこまでも優雅で、それでいて皮肉の効いた完璧な発音であった。


「あ……、N-No, English is perfectly fine! I was just... surprised.(い、いえ、英語で全く問題ありません! ただ……驚いただけです)」


梅子は慌てて、無意識のうちに英語で返答していた。

自分の中に眠っていた「本当の言葉」が、堰を切ったように溢れ出す。


『「驚くのも無理はない」』


慶家は英語のまま、薄く笑みを作った。


『「貴女から見れば、この国の男は皆、己の傲慢さに胡座をかいた『未開の猿』に見えているのだろうからな」』


梅子がハッと息を呑むと、慶家は視線を横に向け、梅子の父・仙と、仲人を務めていた軍の将官に向かって、今度は冷酷な『日本語』で言い放った。


「彼女の語学力と思考力は確認した。……これより先は、機密を含むため、同席は無用。席を外していただこう」


「は、しかし滝脇少佐、見合いの席で二人きりというのは……」


「外せと言っているのだ。私に二度同じ言葉を言わせるな」


慶家の凄まじい威圧感に、父親たちは顔を引き攣らせながら、そそくさと部屋から退室していった。

静まり返った和室に、軍服の青年と、アメリカ帰りの少女だけが取り残される。


『「さて、馬鹿どもは消えた。ここからは合理的(ロジカル)に話をしよう、津田嬢」』


慶家は、懐中時計を取り出して時間を確かめながら、再び流暢な英語へと切り替えた。


『「貴女の経歴と、この国で抱いている『絶望』はすでに調査済みだ。女性としての尊厳を奪われ、風呂も食事も後回し。自らの知性を発揮する場所もなく、無能な男に飼われるだけの未来を強要されている。……どうだ、この国を憎んでいるか?」』


梅子は、組んだ手にギュッと力を込めた。


初対面の男、しかも自分より一回り年上の軍人に対して、本来ならば謙遜し、口をつぐむのがこの国の「女の美徳」である。


だが、相手は自分の母語(英語)で、一人の人間として、自分の知性に真っ向から問いかけてきているのだ。 


『「……憎んでは、いません。ですが、絶望はしています」』


梅子は、顔を上げ、決して目を逸らさずに英語で答えた。


『「私はアメリカで、女性が自立し、思考し、社会に貢献できることを学んできました。私は、誰かの所有物(奴隷)になるために学問を修めたのではありません。

……ですが、この国では、私の価値観は『異常』だと見なされる。

もし貴方が、私を従順な日本の妻にするためにお見合いに来たのなら、今すぐお引き取りください。私は、貴方の靴を磨くためだけの存在にはなれない」』


毅然と言い放ったその言葉は、当時の日本の常識からすれば、男の顔に泥を塗るような無礼極まりないものであった。


父親が聞いていれば、卒倒していただろう。


しかし。


滝脇慶家――中身は戦国の世で最も冷酷な計算を巡らせてきた覇王・徳川家康――は、その梅子の反抗的な言葉を聞いた瞬間、実に満足げに、そして酷く冷たい笑みを浮かべた。


『「素晴らしい」』


『「え……?」』


『「私が最も忌み嫌うのは、己の頭で思考することを放棄した『従順な人形』だ。

私は、家に籠って味噌汁を作るような女など求めていない。そんなものは、給金を払って女中を雇えば済むことだ」』


慶家は、卓の上に置かれていた扇子をパチンと開き、まるで軍議の盤面を示すかのように梅子の前に突きつけた。


『「私が求めているのは、この腐った男尊女卑の国において、その『怒り』と『知性』を武器として振るえる女だ。……津田梅子。私と『契約』をしないか?」』


『「けい、やく……? 結婚ではなく、ですか?」』


『「そうだ。表向きは私の『妻』として、世間の目を誤魔化す盾となってもらう。

だが、貴女の真の任務は、私と共に夜会や列強の公使館に乗り込み、その英語とフランス語、そしてアメリカ仕込みの合理主義をもって、白人どもの本音と機密を丸裸にすることだ」』


梅子は息を呑んだ。


目の前の男は、自分のことを「女」として見ていない。ただ純粋に、自分が11年間で培ってきた「語学力」と「西洋の知性」という『性能』を高く評価し、対等なビジネス・パートナー(戦力)としてスカウトしているのだ。


『「その任務の報酬として、私は貴女に『絶対的な自由』と『庇護』を与えよう」』


慶家の言葉が、梅子の鼓膜を震わせた。


『「貴女を縛るこの国の因習(家父長制)は、軍と私の権力をもってすべて物理的に粉砕する。

私の庇護下にある限り、貴女に男尊女卑を強要する者は一人として現れない。

さらに、貴女が望む『女性のための学校を創る』という夢……そのための資金とコネクションも、すべて私が提供してやろう。

私が戦争の準備をする横で、貴女は好きに学問を修め、日本の女たちを啓蒙すればいい」』


慶家は、扇子を閉じ、獲物を射抜くような冷酷な目で梅子を見据えた。 


『「これは政略だ。愛も情も存在しない、極めて合理的な『利益の交換』だ。

……どうだ、津田嬢。無能な男の言いなりになって一生を終えるか、それとも、私の隣でこの国の形を根底から作り変える『盤面の駒』となるか」』


沈黙が降りた。

梅子の胸の中で、11年間のアメリカ生活で培われた自尊心と、帰国してからの孤独な絶望が、激しく渦を巻いていた。


(……この人は、狂っている)


それが、梅子の素直な感想だった。

愛も情もないと公言し、結婚を契約と言い切る軍人。底知れぬ野心と冷徹さを隠そうともしない、危険な男。


だが。


「女性も男性と同じように思考し、社会の役に立つ存在になれる」


自分が信じて疑わなかったその価値観を、日本で初めて、一切の偏見なく「実用品」として認めてくれたのは、他でもないこの男であった。


(もし、この契約を受け入れたなら。私は……私自身のままで、この息苦しい国で戦うことができる)


梅子は、ゆっくりと背筋を伸ばした。


先ほどまでの、お見合いに対する憂鬱や諦めは、彼女の顔から完全に消え去っていた。そこにあるのは、自らの知性と尊厳を武器に、世界と戦おうとする「自立した女性」の、誇り高き横顔であった。


『「……一つ、条件があります。メジャー・タキワキ」』


梅子は、流暢な英語で、ハッキリと言い放った。


『「私が貴方の『駒』として働くのならば、私も貴方を『スポンサー』として徹底的に利用させていただきます。

私が造る学校の教育方針に、軍部や貴方の思想を一切介入させないこと。……それが飲めるなら、この契約(ディール)、受けて立ちます」』


その強気な要求に、慶家は一瞬目を丸くし――やがて、肩を揺らして声を出して笑った。


前世を含めても、彼に対してこれほど対等に、かつ不敵に条件を突きつけてきた女は、あの阿茶局以来であった。


『「……取引成立だ、ミス・ツダ。いや、これからは私の『最高の情報官(パートナー)』と呼ぶべきかな」』


人間不信の覇王と、孤独な帰国子女。

決して愛から始まることのない、極限まで合理的な『近代最強の政略結婚』が、ここに密やかに結ばれたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。