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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
縁有る事
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縁有る事 6

明治15年(1882年)


済物浦条約の締結によって朝鮮半島の権益構造が劇的に塗り替えられたことで、大日本帝国と、長年アジアの宗主国として君臨してきた清国との関係は、修復不可能なほどに悪化の一途を辿っていた。


表向きの外交的対話は続けられていたものの、水面下では両国ともに猛烈な軍拡を推し進め、このまま進めば数年以内の「戦争」は不可避な情勢となっていた。


大陸からの風が少しずつ冷たさを増し始める中、朝鮮半島での暗躍と軍事指導を終えて帝都・東京の参謀本部へと帰還した滝脇慶家(徳川家康)少佐は、来るべき清国との国家総力戦を見据え、軍政の根幹を根底から作り変えるかつてない大改革へと着手した。


帰国した慶家がまず手裏剣のように上層部へと叩きつけたのは、「陸海軍における兵器および兵站規格の完全なる一本化」であった。


当時の軍隊は、部隊ごとにフランス製やドイツ製、イギリス製など様々な規格の小銃が混在し、弾薬の互換性すらない有様であった。慶家はこれを「兵站の自殺行為」と断じ、全軍の標準装備を国産の『十三年式村田銃』へと強引に統一させた。


さらに、陸軍と海軍がそれぞれ独自に構築していた補給網、弾薬の規格、そして兵站食(特製麦飯や肉缶詰などの野戦糧食)の規格をすべて共通化させたのである。これにより、日本の軍需産業は多品種少量生産の無駄から解放され、単一規格の大量生産による極限の効率化を達成した。


そして、慶家が軍政において最も心血を注いだのが、「下からの上申(ボトムアップ)」と「戦訓の引き上げ」、そして「優秀な一兵卒の下士官への登用システム」の確立であった。


「――戦場で実際に血を流し、敵の息遣いを感じて戦うのは、我々参謀ではない。泥に塗れた兵士たちだ」


慶家は、軍学校を出ただけの頭でっかちの将校が現場を蔑視するプロイセン式のエリート主義を徹底的に嫌悪した。


前世において、武田や北条といった強敵と血みどろの死闘を繰り広げた家康の強さを支えていたのは、本多忠勝や井伊直政といった猛将だけでなく、現場で機転を利かせる無数の「足軽大将(下士官)」たちであったからだ。


彼は、現場の小隊長や分隊長、さらには一兵卒からの戦術的提案や、戦場での失敗(戦訓)を吸い上げ、それを教範に反映させるフィードバック・システムを構築。


同時に、平民出身の一兵卒であっても、戦場での機転と優秀さが認められれば、特別教育を経て下士官(軍曹や曹長)、ひいては将校へと成り上がれる実力主義のルートを制度化した。


軍隊という巨大な機械に、「現場の知性」という血を通わせたのである。


軍のハードウェア(規格)とソフトウェア(人事)を整備した慶家は、いよいよ日本の軍隊の「魂(ドクトリン)」を決定づける作業に入った。


自身がこれまで実験的に構築し、壬午事変でその威力を証明した戦術を、少数の精鋭だけでなく、大日本帝国陸軍の「一般的な部隊」すべてに徹底させるための教本の執筆である。


慶家が構築した戦術の基本形は、欧州のどの国にもないほど緻密でありながら、決して繊細(少しのミスで崩壊するようなもの)ではなかった。


それは、極めて強固で泥臭い「防御寄りの基本形」である。


彼は教本の中で、当時世界中で持て囃されていた「白兵突撃」や「精神論による攻勢」を『無謀なる蛮勇』として厳格に禁止した。


『自軍の火力を超える敵陣への正面突撃は、兵の命の無駄遣いであり、指揮官の怠慢にして大罪である。我が軍の攻勢は、必ず火力(迫撃砲等の曲射火器)による圧倒的な制圧と、緻密な機動が前提でなければならない』


無駄に死ぬことを許さない。


死ぬならば、必ず敵の急所を抉り、兵站線を焼き払ってから死ね。


その徹底した合理性と、生命の損失を「コスト」として冷酷に計算する視点は、武士道精神の悪しき名残を引きずっていた一部の将官たちに冷水を浴びせ、軍隊を「勝つための暴力装置」へと完全に純化させていった。


紅葉が帝都の街を朱に染め始めた秋。


慶家は、執務室に籠り、これらすべての戦略・戦術・兵站の哲学を統合し、明文化した一冊の兵法書を書き上げた。


表題は、『理戦論(りせんろん)』。


当時の世界における軍事学の最高峰といえば、二人の西洋人の理論であった。


プロイセンのカール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦争とは政治の他の手段による継続である」と定義し、スイスのアントワーヌ=アンリ・ジョミニは「戦争とは、内線・外線などの幾何学的な科学である」と定義した。


世界の軍人たちは、この「政治と科学」の延長線上にこそ戦争と勝利があると信じて疑わなかった。


しかし、滝脇慶家(徳川家康)は、この二つの世界的名著に対し、極東の島国から「全く別の視点」からの解答を突きつけた。


「戦争の行方を最終的に決定づけるのは、政治でも幾何学でもない。敵の脳髄を破壊する『謀略(情報戦)』と、自軍の胃袋を満たし続ける『国家総力(兵站と経済)』である」


慶家は、クラウゼヴィッツやジョミニの理論を否定(反証)したわけではない。


むしろ、政治(目的)と科学(戦術)という彼らの理論を土台とした上で、そこに自らの『謀略と総力』という概念を完全に併せ持つこと――それこそが、近代から現代へと至る「真の戦争という存在」であると再定義したのである。


『理戦論』が他のいかなる近代軍事書とも一線を画し、そして日本の将校たちを戦慄させた最大の理由は、その戦術教義の具体例として、「二百数十年前の戦国時代における死闘の記憶」が、完璧な客観性をもって『現代の近代戦術』へと翻訳・定義し直されていたことであった。


慶家は、前世において自らが流した血の記憶、敗北の痛み、そして勝利の冷酷な手口を、一切の感傷を交えずに軍事理論へと落とし込んでいた。


1.縦深防御(じゅうしんぼうぎょ)と浸透破壊

【戦訓:甲州征伐における武田の要塞線と調略】

慶家は、単一の防御線(塹壕)に頼ることを戒め、自軍の防御陣地を後方へと何重にも「複列(縦深)」として展開し、敵の攻勢の勢いをスポンジのように吸収する戦術を説いた。

そして逆に、敵がそのような縦深防御を敷いている場合、正面から部隊をぶつけるのではなく、事前の『調略(情報戦と買収)』によって要塞線の一部を内側から崩壊させ、そこに戦力を流し込む手法を説いた。

それはまさに、天目山の戦いへと至る武田家滅亡の際、真田や木曾を寝返らせて強固な国境防衛線を瓦解させた家康の冷酷な手口そのものであった。


2.攻勢限界点(こうせいげんかいてん)の意図的創造

【戦訓:第二次上田合戦における徳川秀忠の失態】

敵を倒す最も確実な方法は、敵の補給線が伸びきり、弾薬と食糧が尽きる「限界点」を作ることである。

慶家は、あえて自軍を後退させ、道中の物資を焼き払い(焦土戦術)、敵を深追いさせることで意図的にその限界を創り出す手法を説いた。

その反面教師として挙げられたのは、信州上田城において真田昌幸の遅滞戦術と挑発に見事にハマり、進軍の限界を迎えて関ヶ原の本戦に遅参した自らの息子(秀忠)の苦い記憶であった。


3.浸透戦術と側面攻撃

【戦訓:姉川の戦いにおける朝倉軍への側面強襲】

敵の防御陣地や主力が正面を向いて強固に構えている場合、そこに正面突破を試みるのは愚か者のやることである。

慶家は、正面には最小限の拘束部隊(囮)を置き、主力を敵の布陣の「隙(手薄な側面や背面)」へと浸透させ、横腹を喰い破る機動を徹底した。

それは、姉川の戦いにおいて、戦線が膠着した際に徳川軍(榊原康政ら)が朝倉軍の側面を急襲し、一気に盤面を崩壊させた機動戦の近代化であった。


4.戦略的持久・内線作戦による機動戦

【戦訓:小牧・長久手の戦い】

敵が圧倒的な大軍(外線作戦)で包囲を試みてきた場合。慶家は、自軍は強固な陣地に籠って「意図的に柔らかい腹(隙)」を見せ、敵の別働隊を誘い出すことを説いた。

大軍の一部が切り離されて陣地から這い出してきた瞬間、内側にいる自軍(内線作戦の利)の機動力を活かして一気に集中攻撃をかけ、各個撃破する。

これはまさに、羽柴秀吉の圧倒的な大軍を前にして小牧山に陣を敷き、秀吉が放った「中入り(三河奇襲部隊)」を長久手で完膚なきまでに粉砕した、家康生涯最高の戦術的勝利の再現であった。


5.戦う前に結果を作り上げる(調略と兵站の極致)

【戦訓:関ヶ原の戦い、大坂の陣】

そして『理戦論』の最終章において、慶家は戦争の究極の理想形を提示した。

それは「最初の銃弾が放たれる前に、すでに勝敗の計算が終わっていること」である。

敵の内部に不和の種を蒔き、有力な将を裏切らせ、あるいは兵站線を完全に絶ち切って飢えさせる。関ヶ原において小早川秀秋らを寝返らせた事前工作、そして大坂の陣において外堀を埋め、大砲による心理戦で淀殿の精神を削り取った冷酷な盤面操作。


「いくさとは、戦場で始まるものではない。平時からの経済、外交、そして諜報の蓄積が臨界点に達した時、最後に確認作業として行われる物理的精算に過ぎない」


―――


季節がさらに進み、紅葉が落ちて木枯らしが吹き始める頃。


印刷・製本された『理戦論』は、木戸首相および大山巌の全面的な承認を得て、日本国内の陸軍大学校、ならびに海軍兵学校の図書室、そして全将校の教範として正式に配布された。


それは、日本軍の行方を決定づける、後戻りのできない一歩であった。 


この時初めて、大日本帝国という国は、欧米列強の兵法(プロイセン式やフランス式)の表面的な模倣を完全に脱ぎ捨てた。

極東の島国が育んできた独自の戦史と、冷酷なまでの合理主義、そして最新の近代兵器を融合させた「完全なる独自の脚」で、歴史の荒野を歩み始めたのである。


陸軍大学校の講堂。

慶家が教壇に立ち、いくつかの講義を行った。


攻勢を行う場合の火力支援の重要性、敵の限界点を意図的に創り出すための兵站線の遮断工作、そして敵の内部を切り崩す情報戦について、若き士官たちと鋭い質疑応答が交わされた。


その講義を一番後ろの席で聴講していた古参の将官たちは、底知れぬ畏怖と共に、一つの確信を抱いていた。


「……あれは、単なる西洋兵学の翻訳ではない。クラウゼヴィッツでもジョミニでもない」


滝脇慶家が書き上げ、今まさに日本軍の血肉となろうとしているこの『理戦論』の正体。


それは、古(いにしえ)の中国で書かれ、武田信玄や徳川家康ら戦国の覇者たちが愛読した究極の兵法書――『孫子の兵法(戦わずして勝つ、算多きは勝ち算少なきは負ける)』を、最新の近代国家総力戦のフォーマットへと完璧に蘇らせた、恐るべき現代の魔導書であった。


「この国は、とんでもない怪物を軍の中枢に置いてしまったのかもしれんぞ……」


誰かの呟きは、冷たい秋風の音に掻き消された。


季節は11月。

大陸の覇権を賭けた清国との激突の足音が、一日、また一日と確実に迫り来る中。


極東の島国は、静かに、しかし絶対的な殺意と合理性を秘めた「最強の矛と盾」を、その懐に完成させていたのである。



―――


一方


『理戦論』が陸海軍の教範として制定され、大日本帝国が独自の軍事ドクトリンを完全に確立しつつあったその頃。


帝都・東京の外国人居留地や、横須賀、そして築地の軍事施設に身を置いていた「外国からのお雇い外国人(技術将校や軍人たち)」の目には、この変貌を遂げた日本軍の姿が、かつてない「底知れぬ脅威と異様さ」として映り始めていた。


彼らは、祖国の軍事常識を叩き込まれたプロの軍人・技術者であるからこそ、日本軍が歩み始めた「独自の進化」の恐ろしさを、誰よりも鋭く肌で感じ取っていたのである。


一・ アーサー・ルイス・ダグラスの視点

(※英海軍から派遣され、造船や海軍技術を指導していた技術将校・技師の視点)


イギリス海軍の最新鋭の造船技術を伝えるためにお雇い外国人として来日したアーサー・ルイス・ダグラスは、この頃の日本の造船所(横須賀など)の変貌ぶりに、言葉を失っていた。


「信じられない……。彼らは、我々イギリスから最新の鉄甲船や兵器を『買う』ことだけを目的としていない」 


ダグラスが目撃したのは、潤沢な内需の資金と政府の予算が惜しみなく注ぎ込まれ、日本人が自らの手で工作機械を動かし、鉄を鋳造し、ボルトの一本に至るまでを国産化しようと狂奔する姿であった。 


かつては西洋の図面をただおっかなびっくり模倣していただけの職人たちが、今や陸軍の参謀本部(滝脇慶家らのネットワーク)から下される厳格な「規格の統一」のもと、海軍のシーレーン防衛に必要な巡洋艦や輸送船の国産化を猛烈な速度で成し遂げている。


「イギリスの造船所が何十年もかけて培ってきたノウハウを、彼らは『兵站の効率化』という冷徹な計算式に当てはめ、数年でショートカットしようとしている。

……あの若き少佐(滝脇慶家)が描く軍政の図面を見たが、彼らにとって軍艦とはロマンの塊ではなく、ただの『効率的な海上輸送の道具』に過ぎない。この島国は、いずれ我々イギリスの海洋覇権を脅かす『東洋の造船工場』に化けるぞ」


ダグラスは、英国本国へ送る極秘の技術報告書に、強い警戒の色を滲ませてペンを走らせていた。


二・ シャルル・アントワーヌ・ラルデの視点

(※フランス陸軍から派遣され、兵器や戦術の指導にあたっていた軍事顧問・技術将校の視点)


フランス式の規律と歩兵戦術を教えるために招聘されたシャルル・アントワーヌ・ラルデ少佐は、陸軍大学校の教壇に置かれた一冊の教範――『理戦論』の存在を知った時、強烈な拒絶反応と、それに続く底知れぬ悪寒を覚えていた。


「バカな……! クラウゼヴィッツやジョミニの幾何学的美しさを無視し、戦争を『謀略と胃袋(兵站)』の計算に貶めるなど、軍人への冒瀆だ!」


当初、ラルデをはじめとするフランスやプロイセンの軍事顧問たちは、日本軍が採用し始めた「分散機動」や「匍匐前進、塹壕戦を主導とする受けの戦術」を、泥臭くて華のない、騎士道精神を欠いた「野蛮な戦い方」だと嘲笑していた。


しかし、実際の演習や、先の朝鮮(壬午事変)での日本軍の立ち回りを目の当たりにし、その評価は180度覆ることになる。


「彼らは、突撃のラッパが鳴っても突っ立って死んだりしない。泥を這いずり回り、迫撃砲の弾幕で敵の指揮系統を麻痺させ、兵站を断って干からびさせてから、無傷で勝つ。……美しくない。だが、あまりにも合理的だ」


ラルデは、滝脇慶家という男が構築したシステムの本質を理解していた。


それは、フランス革命が産み落とした「国民的熱狂(ナショナリズム)」による突撃でもなければ、プロイセンが目指した「機械仕掛けの規律」でもない。


人間の感情、名誉、武士道といった不確定要素をすべて排し、ただ「勝利という結果」を得るために国家のすべてのリソース(経済・情報・兵站)を数学的に連動させた、世界で最初の「トータル・ウォー(総力戦)の完全体」であった。


「我々西洋の軍人は、戦争を『科学と政治の芸術』だと信じてきた。だが、あの東洋の島国は、戦争を『冷酷な処理プロセス』へと変えてしまった。

……もし我が国が、この日本と大陸で刃を交えるようなことになれば、間違いなく、歴史の悪夢を見るだろう」


列強の「お雇い」たちが抱いた共通の恐怖

イギリスの技術者も、フランスの軍人たちも、母国では「未開の国を指導してやる」という優越感に浸っていた。


しかし、明治15年の冬を迎えた日本において、その傲慢さは完全に砕け散っていた。


彼らが指導しているはずの日本軍は、彼らの教えを都合の良い部品としてパーツ単位でつまみ食いし、その上で西洋のどの国も到達していない「冷徹な全体最適(理戦論のドクトリン)」を独力で完成させてしまったからだ。


お雇い外国人たちの報告書は、ロンドンやパリの本国政府に対し、一致して一つの警告を発し始めていた。


――「極東の日本軍を、もはや『アジアの生徒』と見てはならない。彼らはすでに、我々の遥か先を行く『戦争の怪物』へと変貌しつつある」


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